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マルタン・マルジェラ日本初の大規模個展が九段ハウスで開催中。歴史的建築と共鳴する「不完全な美」の正体とは?

  • 2026.4.24

匿名性の象徴であり、常に時代の先を歩んできたマルタン・マルジェラ。彼が日本初となる大型個展の舞台に選んだのは、生活の痕跡が息づく登録有形文化財「九段ハウス」。ミロのヴィーナスを解体した《Tops & Bottoms》や、巨大なネイルが並ぶ《Black Nails Model》など日常の輪郭をわずかにずらす作品群は、「世界は固定されていない」ことを問いかけてくる。開幕直後から大きな反響を呼び、瞬く間にチケットが完売。会期は5月5日まで延長されることが決定した。マルジェラの思考の深淵に触れるその体験をひもとく。

Hearst Owned

東京・九段に佇む、旧山口萬吉邸をリノベーションした「九段ハウス」。1920年代のスパニッシュ様式を施したこの歴史的建築で、マルタン・マルジェラによる日本初の大規模個展「MARTIN MARGIELA AT KUDAN HOUSE」が開催されている。

趣のある玄関をくぐると、違和感はそっと立ち上がる。壁も、床も、手すりも、すべてが半透明のプラスチックシートに覆われている。まるで改修中の現場のような、不完全な気配。そこに、騙し絵的な感覚に陥る《Grey Steps I & Ⅲ》が壁に立てかけられている。だが、その“未完成さ”こそが、この個展の核であり、マルタン・マルジェラの思考へと見る者を導く装置となっている。

《Grey Steps Ⅰ & Ⅲ》(2023)、木枠に張ったカンヴァス、カーペット。九段ハウスの入り口を入って最初に出合う作品。養生シートで覆われた壁に立てかけられ、糸のほころびやカーペットの継ぎ目が触覚的に感じられ、「完成」に向かう「途中」のような雰囲気を醸している。 Hearst Owned

本展を主催する原田崇人(rin art association代表)は、マルジェラの作品を通して得られる感覚を「幸福」と呼ぶ。それは物質的な満足ではなく、概念としての幸福だという。何をもって自分が満たされるのか。その定義そのものが揺さぶられる経験。その手がかりとなるのが、「オブセッション(執着)」と「世界は仮固定である」という二つの視点だ。

《Phantom XV (Top Coat)》(2011)、木、白色塗料。撮影スタジオや建設現場を思わせる仮設的な空気を漂わせる。この「Phantom」シリーズは、会場の内部にいくつか現れる。 Hearst Owned
白い台座の上には、グラファイトで擦り取られたような爪の形が描かれ、キャプションにはこのように記されている。「ピンクに塗られた、爪の形をした流木の塊。上部は赤いマニキュアで光沢のある仕上げになっている。」 Hearst Owned

人間は執着によって、ときに苦しむ生き物だ。しかしマルジェラにおいて、その執着は単なる苦しみではなく、対象の見え方をわずかにずらし、新たな視点をひらく契機となる。たとえば、シリコンの皮膚に人毛を一本ずつ縫いつけた《Asian Black Head》。精巧なリアリズムをたたえながらも、前や後ろはなく、それは見る角度や距離によって、印象を変えていく。

《Asian Black Head》(2025)、シリコン、天然染色毛。分け目だけが存在する頭髪を持つ丸い頭部の作品。 Hearst Owned

髪は本来、個人の身体に属するものでありながら、切り離されたときにまったく異なる存在として立ち現れる。その境界の揺らぎが、この作品に独特の感覚をもたらしているのではないだろうか。同じく人毛を用いた作品の《Vanitas II》では、さらに時間の概念が重ねられる。髪は色を変え、質感を変え、やがて老いの気配を帯びていく。それは単なる物理的変化ではなく、そこに流れた時間や、それぞれの人生の記憶を想起させる。「変化すること」の不可避性と、そのなかに見出される静かな美を問いかける。

もう一つの軸である「世界は仮固定である」という視点は、作品そのものの成り立ちにも現れている。完成とは、固定されることではない。むしろ一度かたちを与えられたものが、再びずらされ、別の状態へと開かれていくプロセスでもある。たとえばトルソーのシリーズでは、身体と台座が一体として成形されたのち、ひとつのかたちとして完成したはずのものを、そこであらためて下まで切り落とす。これは展示のあり方にも共鳴する。作品は壁に掛けられることもあれば、プレキシグラスに収められ、あるいは床に直接置かれる。固定された形式を持たず、その都度生まれるシナジーのなかに置かれ、作品はつねに別の状態へと開かれている。まるで、変化し続ける存在としての余白を残すかのように。

《Dust Cover》(2021)、合成皮革、木。九段ハウスの一室にもともと備えつけられていたソファを見て、マルジェラは「この作品は、この部屋に」とひと目で決めたという。カバーの中身 Hearst Owned

何が隠されているのかはわからない。輪郭だけが浮かび上がるその姿は、空間に不在と気配だけを残し、見る側に“わからないまま”でいることをうながすよう。

特に本展でマルジェラが気に入っているというのが、《Dust Cover》が置かれた部屋。生活の痕跡を色濃く残している九段ハウスにあった既存のソファの間に、屋根裏にあるような合皮でできたダストカバーのかかった何かが置かれている。生活の痕跡を残す空間と重なり合うことで、その存在はより曖昧になりながら、一つの彫刻として立ち上がる。本来であれば保護するためのものであり、主役になることはないかもしれない。しかしここでは、その“何か”が織りなすドレープやシルエットが一つの彫刻として立ち上がり、隠されていることそのものが、美として提示される。

この「見えないもの」をめぐる感覚は、「Phantom」シリーズにも通底する。そこに何かがあったはずなのに、今はいない。その不在の痕跡だけが、空間に残されている。マルジェラ自身が公の場に姿を現さないこととも重なり、存在とは何か、可視性とは何かという問いが浮かび上がる。

身体の断片をめぐる感覚は、ネイルのシリーズにも立ち現れる。《Black Nails Model》は、つけ爪という装飾が、白磁の器を手がけてきた職人の手によってかたちづくられる。精緻な表面を持ちながら、一枚一枚が人の顔ほどの大きさを持ち、テーブルの上に並べられる。五枚の爪は組み合わせによってひとつの構造体となり、断片であったものが、別のまとまりを獲得していく。さらにそこからインスピレーションを得て生まれた《Nail Clippings》は、その断片のスケールが拡張され、床に置かれる。素材は銅へと置き換えられ、赤と白のコントラストを保ちながら、別の存在へと移行していく。

《Nail Clippings》(2024)、ラッカー仕上げブロンズ、サイズ可変。 Hearst Owned
《Black Nails Model》(2021)、ニンフェンブルク製磁器、エナメル。 Hearst Owned

さらに、《Mould(s)》では、彫刻を生み出すための“型”そのものが作品として提示される。ルーヴル美術館のアトリエなどに保管されていたこれらの型は、本来であれば完成形を導くための過程の道具に過ぎない。しかしここでは、石膏や木組み、留め具といった構造はそのままに残され、通常であれば見過ごされるはずの工程の痕跡や時間が、ひとつの芸術として可視化されている。

この視点は、「Tops & Bottoms」のシリーズにおいても浮かび上がってくる。長らく“完成された美”の象徴として扱われてきたミロのヴィーナスが、ブラジャーやガードル、ボトムといった身体のパーツへと分解されることで、私たちが当然のものとして受け取ってきた美の輪郭がほどかれていく。ここで露わになるのは、外側の滑らかなフォルムだけではない。むしろ、その内側に潜む構造や、断面の荒々しさとのコントラストが、彫刻というものの成り立ちを別の角度から照らし出す。

《Mould(s)》(2020)の細部。石膏、木、アクリル絵の具、サイズ可変。 Hearst Owned
《Mould(s)》の展示風景。マルジェラの繊細で緻密な造形の半面、繊細で緻密な造形の一方で、壁面にはドリルやインパクトドライバーの跡が残り、設営や解体の力仕事を思わせる荒々しさものぞく。 Hearst Owned

また、日常のなかで機能を持っていたオブジェクトも扱われる。《Barrier Sculpture (Black)》や《Barrier Mural (Black)》、そして《Bus Stop》といった作品は、本来は境界を示したり、バス停として実際に使われていたりしたものに毛が生えることで、まるでそこに別の生を宿したかのような存在感を帯びている。そこに残るのは、触覚的で曖昧な存在感と、光によって生まれる陰影。それらは、記憶や時間を想起させるオブジェへと変貌し、私たちが見慣れてきた日常の輪郭をわずかにずらしていく。

「Torso(トルソー)」シリーズの展示風景。多様な人種を思わせる色があり、具体的にはどの部位かはわからないが人体であろう造形が台座とひと続きになった作品。 Hearst Owned
《Light Test》(2021)、HD ビデオ(4K撮影)。映像の途中には、まるでCMのようにデオドラント製品が差し込まれる場面が現れる。作品世界を一瞬中断させるその唐突さが、広告と映像、日常と演出の境界を曖昧にするよう。Hearst Owned

ほかにも、多様な色のトルソーやビデオなど24種の作品群が空間の中に点在している。この展覧会を通して感じられるのは、「境界の曖昧さ」なのかもしれない。完成と未完成、内側と外側、存在と不在、機能と形態。あらゆる二項対立がほどかれ、そのあいだにあるグラデーションが浮かび上がる。世界は固定されていない。だからこそ、私たちの見方もまた、固定される必要はない。空間そのものがひとつの有機的な存在として立ち上がるなかで、マルジェラの作品は明確な答えを示すのではなく、いくつもの問いを残していく。

会期:〜5/5
会場:九段ハウス(東京都千代田区九段北1-15-9)
観覧料:一般 ¥2,500
チケット購入オンラインサイト:https://artsticker.app/events/103820

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