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「いつか小説家になって土下座させてやる」…壮絶すぎる生い立ちと男性遍歴を世間にさらした伝説の詩人

  • 2026.4.8

戦後の出版ブームでは女性の書き手も多く活躍した。文筆家の平山亜佐子さんは「詩人の堤玲子は岡山県で生まれ、貧しい大家族で育った壮絶な生い立ちや男性遍歴を赤裸々に本に書いた」という――。

※一部、書籍の引用部分に差別的な表現があります。発行当時のまま掲載しました。

写真左=堤玲子、写真右=堤玲子著『わが闘争』三一書房
写真左=堤玲子、写真右=堤玲子著『わが闘争』三一書房
昭和5年、岡山のスラムに生まれる
第2回:堤玲子〔1930(昭和5)年3月29日~不明〕

堤玲子の本名は浅野孝子、1930(昭和5)年3月29日に岡山県岡山市で生まれた。玲子によればそこは「スラム」で貧困や差別が渦巻く場所だったという。父の鉄雄は元陸軍上等兵で戦後は百姓をしており、母は元女中で、結婚後は行商などをしていた。

玲子は7人きょうだいの2番目だったが、4歳まで口をきかず知的発達に遅れがあると思われていた。そんな玲子をかわいがってくれたのは祖母のイシと父の姉、玲子にとっては伯母の秋野である。イシは体重75kgと大柄で、やくざに脅されてもドスを畳に突き刺すような度胸の据わった人で、常々「玲子よ。負けるな」「お前が阿保であるものか。賢い子ォだ」と励ました。しかし、イシは池に誤って落ち、玲子が物心がつく前に亡くなった。

伯母の秋野は美人だが知的障害があり、7回結婚して7回離縁された後、子どもたちの子守をしていた。玲子のことは一番のお気に入りで、優しい声で卑猥ひわいな歌を歌い、寝ている玲子の周りを着物をまくって下着もつけずにカンカン踊りをしたりしていた。

岡山市の岡山城近辺
岡山市の岡山城近辺 ※写真はイメージです
貧しい大家族でワイルドに育つ

祖父の又七は毎日リヤカーをひいて野菜の行商に出ていた。帰ると子どもたちは片手を出して一銭をたかった。又七はにこにこと渡してくれたが、それは彼なりの罪滅ぼしだった。というのも、たった一度娼婦を買った際に梅毒をもらい、以来、堤家が「悪遺伝」に汚染されたと信じられていたからだ。

又七は常々「この世はなあ、地獄よ。地獄とは恐ろしいもんじゃ。爺じいが地獄にしてもうたんじゃ」と語っていた。そんな又七が中風で床に伏していたときのこと。子どもたちは力を合わせて又七の身体を起こそうと思い、手足をそれぞれが抱え、無理に立たせた。やっと立ち上がったその姿に思わず拍手が起こったが、その瞬間支えを失った又七はそのまま前に倒れ込み、以後容体は悪化してついには亡くなった。

玲子は成長とともにガキ大将になった。戦争ごっこでは伯母の秋野の背中に跨り、「秋野、走れ。お馬、走れ」と右に左に乗り回した。家族のなかで秋野を好きなのは秋野の弟である玲子の父と玲子のみで、なかでも母はとくに嫌っていた。なぜなら、嫁いだ日の翌朝、たまたま小部屋を開けたら秋野がぼろ布とともに隠されているのを見つけたからである。「畜生! あざむいたな」と思ったが後の祭りだった。

父の妻子へのDVは凄まじかった

秋野は浅野家から茶碗に米をもらって自分で炊いていた。玲子がよそう時は山盛りにしてあげていたが、ある日、母に見つかって殴りつけられた。次の日、母は秋野に渡す米を茶碗からえぐられるだけえぐって渡した。受け取った秋野は弟である玲子の父に見せると、今度は母が父に殴られた。父は妻も子どもも容赦なく殴り飛ばし、蹴り飛ばした。しばらくして夫婦は仲直りし、秋野は近所の畑からきゅうりや茄子を盗んで食べた。そのうちお腹を壊して床につき、毎晩鳴き声をあげたが両親とも大袈裟だと放っておいたため、4日目に亡くなった。

父の折檻は激しすぎて、何度も「尊属殺人犯」になりかけた。玲子は書く。「スラム広しといえど、子供をぶんなぐることにおいては、彼の右に出るものはなかった」。例えば玲子が貯めていた小遣いを三女の敏子が盗ったことを知ったとき、父は「うちは人殺しや放火はいても、泥棒だけは育てた覚えがない」と叫び、5歳の敏子を裸にして荒縄でぐるぐる巻きにして夜の川に投げ込んだ。

トイレットペーパー代わりの新聞を読む5歳

さすがに敏子が死んでしまうと母は近所の人を呼びに行った。皆、舟を出して提灯をともして敏子を探した。網が投げられ、竿で川底をさらう人もいたが結局見つからなかった。母は、父が自首する時のための着物を縫い始めた。ところが、共同便所に入った近所の人が中で暖をとるため跳ね回っている敏子を発見。父は尊属殺人の汚名から逃れ、敏子はきょうだいから「不死身の敏子」という称号をもらった。とはいえきょうだいも、7人中5人がランニングで県大会で記録を残すほど逃げ足を鍛えられていた。

玲子は4〜5歳頃から、共同便所にあったトイレットペーパー代わりの新聞を読むのが好きだった。隣町に出かけるときの母のお土産も一人だけ雑誌や古本だった。母は玲子に、勉強をすれば立派な人間になり、人からも侮られずにすむと教えた。その教えを胸に刻んで、玲子は学業に励んだ。綴り方が上手だったため、全校を代表して戦地の兵士に手紙を書いたこともあった。

昭和13年11月19日付けの東京朝日新聞
※写真はイメージです
文才のおかげで高等女学校へ進学

小学五年生のとき、両親の話し声を耳にした。玲子は頭がいいのだから、何を売ってでも女学校から師範学校へ進ませよう。教師になれば、たとえ売れ残っても食べていける。その「売れ残っても」という一言が、玲子の胸に深く突き刺さった。口蓋裂があり、しかもすぐ上の姉は美貌を称えられて贔屓ひいきにされていたため、容姿に強い劣等感を抱いていたのである。

1942(昭和17)年4月、玲子は名門・就実高等女学校(現・就実中学校・高等学校)に入学。15歳ごろから詩作を始め、次第に文学で身を立てたいと考えるようになった。

妹が15歳で処女を捨て、女郎屋へ
堤玲子著『わが妹・娼婦鳥子』三一書房、1968年
堤玲子著『わが妹・娼婦鳥子』三一書房、1968年

16歳の頃、道端の易者に手相を見てもらったところ、将来の結婚相手は長男で優しい人だと言われた。結婚できると聞いてうれしくなった玲子は妹の敏子にその話をした。すると妹は易者は商売だからそう言っただけといい、「不細工なうえに、阿呆ができるの誰がもらってくれるの」と言った。

そして自分は一昨日、女郎屋の親父を相手に処女を捨ててきたと言う。「寝て約束してきたんや。あそこで働くというのを、別になんとも思わない」。話を聞いた父が怒り狂って追いかけたが敏子は怯まなかった。殴られながら川に飛び込み、叫んだ。「お世辞にも見合いの話、玲子たちにもって来たことあるか」「ざまあみやがれ、淫売になったるぞォ。売って売って売りまくってやるぞォ」。敏子は肉がいっぱいの卵丼を食べさせてくれると言われて友人に付き添われて女郎屋に行った。後悔はなかった。どうせ悪遺伝が知れ渡って結婚できないのだから、多くの男と関係した方が得だと思った。敏子、このとき15歳だった。

スケバン「流れ星のお玲」を名乗る

玲子は次第に荒れた。鞄の中にはメリケンサック、ポケットには自転車のチェーンを入れていた。「流れ星のお玲」を名乗り、通りすがりに牛乳屋から「なんぼ赤い服きてもおえる(貰い手もない)もんか」という陰口が聞こえると、チェーンを振り回して店に並んだ牛乳瓶を割った。「人を馬鹿にするな。花嫁御寮がなんだ」。チェーンを手に撒き直して振り返ると黒山の人だかりだった。「俗物。のきゃあがれ」と言うとさっと開いた道を歩いた。いつか小説家になってみんなを土下座させてやると思った。

流れ星のお玲の名は知れ渡り、不良少年たちに目をつけられたり、パンパン同士の揉め事に駆り出されたりすることもあった。でも根は純情な少女だった。タケというヤクザに淡い恋もした。でも彼にはドイツ駐在の某大使の娘という恋人がいた。この恋はプラトニックな美しい思い出となった。

1946(昭和21)年3月に女学校を卒業した玲子は金を稼がなくてはならなくなった。母は美人の姉には男に注意しろと言うくせに玲子には何も言わないので、試しに駅前に立ってみた。優しそうな紳士が同情して金だけくれた。

女学校を出たが、まともな職がない

友人、知人の紹介で就職しようとしたがどれも失敗に終わった。いっそ顔を火傷したら働けとも言われず、思う存分文学に勤しめるのではと油を煮立たせていたら、天ぷらを盗み食いしようとしたと勘違いした母に殴られた。本屋で働こうとしても断られ、そのことで母に馬鹿にされた。玲子は初めて母につかみかかり「まともな家に生んで、文句をいいやがれ」という言葉が喉元まで出たが、それだけは言えなかった。すでに体力では明らかに玲子に分があった。以来、両親はあまり殴らなくなった。

1946(昭和21)年6月、職業安定所で紹介された自動車組合の事務員になった。理事長、会計、玲子の3人だけの小さな会社で、自動車用の鉄板やカーバイトを工場に配給するのが業務だった。理事長は戦時中は思想犯を取り締まっていた特高あがりとかで、陰湿な嫌がらせをした。5年間勤めたが、結局パワハラで辞めた。

1951(昭和26)年、女学校時代の友人の母の紹介で面接に行った鉄道弘済会に採用され、庭瀬駅の売店の売り子となった。以降、本が売れるまでの17年間勤めることとなる。またこの年、徳島の「近代詩人」の同人となり、自殺の詩などを投稿し始めた。編集長は「諸君。脱帽せよ。天才が現れた」と書いた。

現在のJR庭瀬駅(2022年10月4日)
現在のJR庭瀬駅(2022年10月4日)(写真=MaedaAkihiko/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)
自分勝手な文学青年に弄ばれる

庭瀬駅の駅員の吉田は両親とも大学出のインテリ、文学好きの美青年で、玲子はすっかり惚れ込んだ。ある夜、二人で玲子の家の近くの田んぼを通りかかったとき突然押し倒された。声をあげようと思ったが家が近かったためできなかった。玲子19歳、それが初体験だった。後から聞けば、女性の家の近所の草むらで強姦するのが吉田のやり方だった。翌日、吉田は「処女をやったら俺は捨てる主義だ」と言い、美しい女性を指して「俺は明日あいつと見合いする」と言った。ショックを受ける玲子に、文学をやっているくせに普通の女と一緒だな、と追い打ちをかけた。

またあるとき、当時玲子と親しかった加代という少女の家に、玲子、吉田、そしてもう一人の男の四人で集まっていた。すると吉田が、自分は加代と関係を持つから、玲子はもう一人の男と関係を持ち、その後で交代しようと言い出した。吉田と加代が絡み合う様子を目の当たりにした玲子は、思わず泣き出し、そのまま家へ帰った。この頃のことを玲子は後に「生涯を通じての生き地獄の日々」と書いた。

思い詰めて男を殺そうとするが…

泥酔した夜のことだった。吉田と玲子は線路脇の細い道を歩いていた。貨物列車が通りかかったその瞬間、玲子は吉田を線路へ突き飛ばし、全身で押さえつけた。

「何をするんだ」「殺すのさ」。強姦したのはいい。結婚してくれなくてもいい。だが、俺の奥さんになる人は、美しくて利口で血統がよくて……馬鹿にするな、私でも女だぞ。心があるんだぞ、と玲子は思った。「お前の子を他の女に生ますものか。天才の私のように一代で死ね」。だが、「悪かった。助けてくれ」と命乞いをする吉田の醜さを見て、急に馬鹿馬鹿しくなった。玲子が身を離すと、吉田は這いつくばるようにして逃げ去った。

そんなある日、「近代詩人」同人の尾崎徳から「俺は、君と日本一美しい恋をしてみせる」という手紙が届いた。そして一週間後、同じく同人の冬園節、篠原啓介とともに四国から岡山にやってきた。旅館の一室で玲子は徳と節の間に挟まり、徳と関係した後に節とも関係した。吉田にされたことを自分もしてやろうと思ったのだ。徳は怒って加代と関係したが、玲子のことを忘れられず、四国に帰った後に手紙を寄越した。

平山 亜佐子(ひらやま・あさこ)
文筆家
文筆家、挿話収集家。戦前文化、教科書に載らない女性の調査を得意とする。著書に『20世紀破天荒セレブ ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会)、『明治大正昭和 不良少女伝 莫連女と少女ギャング団』(河出書房新社、ちくま文庫)、『戦前尖端語辞典』(編著、左右社)、『問題の女 本荘幽蘭伝』(平凡社)、『明治大正昭和 化け込み婦人記者奮闘記』(左右社)など。

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