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「燃える男」はハッタリだった……。名伯楽・権藤博が今明かす、投手・星野仙一が“広島戦”を避けて“巨人戦”にこだわった驚きの裏事情

  • 2026.3.28

現役時代には「燃える男」と称され、監督時代には「闘将」と呼ばれた星野仙一が天に召されてすでに8年が経過した。昭和、平成を代表する野球人である一方、優しさと厳しさ、飴と鞭を巧みに使い分けた人心掌握術は、現在の観点から見れば、行きすぎた「根性野球」「精神野球」といった側面がクローズアップされたり、選手たちへの鉄拳制裁が問題視されたりすることもある。

一体、星野仙一とはどんな人物だったのか? 彼が球界に遺したものとは何だったのか? 彼の実像を探るべく、生前の彼をよく知る者たちを訪ね歩くことにした。彼らの口から語られる「星野像」は、パブリックイメージ通りである一方で、それとは異なる意外な一面もあった。「星野仙一」のリアルに迫りたい——。連載第7回は、星野の現役最晩年に中日ドラゴンズの一軍投手コーチを務めた名伯楽・権藤博に話を聞いた。【権藤博インタビュー全2回の1回目/第2回へ続く】

「燃える男」のイメージとは裏腹に……

権藤博が中日ドラゴンズ一軍投手コーチに就任したのは1981(昭和56)年のことだった。現役晩年を迎えていた星野仙一はこのとき、権藤の下でコーチ補佐を兼任することとなった。

「常に《燃える男》としてふるまっていたけれど、僕がコーチになったときの星野は、現役晩年を迎えてすでにボールの力はなかったね。この頃の彼は巨人相手に投げたがっていた。でも、広島戦になると、“ちょっとひじが……”と言って投げたがらないんですよ」

プロ入り以来、「打倒巨人」の思いを原動力として、がむしゃらに投げ続けてきた。現役晩年を迎えてもなお、ジャイアンツへの闘志は燃え盛っていた。そう理解していると、権藤は「いや、そうじゃない……」と続けた。

「あの頃の巨人は、投手陣はすごかったけど、打線は弱かった。まだ若手だった原(辰徳)、元ヤンキースの(ロイ・)ホワイトぐらいが目立っていただけでしたから。一方の広島打線は山本浩二に衣笠(祥雄)がいて、(ジム・)ライトルもクリーンナップにいる強力打線だったから、広島相手には投げたがらなかったんです」

当時のジャイアンツは江川卓、西本聖、加藤初、定岡正二など、リーグ有数の投手陣を誇っていた一方、原辰徳、中畑清、篠塚利夫(現・和典)などの若手野手陣はまだ成長途上にあった。つまり、星野がカープ戦を回避したのは、「ジャイアンツ打線なら抑えられる可能性が高い」という消極的な思いからだったのである。

「広島には通用しませんよ、あの頃の星野では。彼は元々、《燃える男》というイメージが強かったけど、実際は繊細で弱さも持っていた。右打者のインコースにシュートを投げるふりをして、実はスライダーを投げていた。主力には《インスラ》ばかりでまともに勝負をせず、補欠クラスにだけシュートを投げていた。もちろんプライドがあるから、打たれる姿は見せたくなかったんですよ」

そして権藤は、「以前、聞いた話だけど……」と前置きをして、前任の稲尾和久投手コーチから聞いたというエピソードを披露する。試合終盤を迎え、ベンチに戻ってきた星野に対して、「交代するか?」と、稲尾が告げたときのことだ。

「そこで星野は、“次は誰が投げるんですか?”と聞くから、稲尾さんは“(鈴木)孝政だ”と答える。すると、“孝政じゃ、頼りにならん”と言うから、“じゃあ、どうする?”と尋ねると、“先頭打者を出したら代えてほしい”と、星野は言ったそうです……」

次の回、星野は先頭打者に出塁を許す。ベンチから稲尾が出てくる。すると星野はグラブを思い切りグラウンドに叩きつけた。権藤が微笑みながら続ける。

「これが星野なんですよ。自分から、“先頭打者を出したら代えてくれ”と言いつつ、それでも、《燃える男》のイメージを壊さないために、“オレはまだ投げたいんだ、交代は不本意だ”と、稲尾さんに対して、そんな失礼なことをする。稲尾さんは優しいからいいけど、僕だったら、決してそんな態度はさせないし、星野もそれをわかっているから、僕には決してそんなことはしないよね(笑)」

監督とGMの視点を持つ男

星野は82年シーズン限りで現役を引退する。通算500試合に登板して146勝121敗、防御率は3・60という成績だった。名伯楽として、多くの一流投手を育てた権藤から見た「投手・星野」のすごさとは何か? その見解は明快だ。

「パフォーマンスを含めて、《燃える男》の見せ方は超一流でした。普通なら、あそこまで闘志をむき出しにして投げることはできないですよ。打たれたら恥ずかしいから。それができるのが星野のすごいところでもあるし、逆に言えば弱さなのかもしれない。たいした球じゃないことを自分でもわかっていたから、ハッタリでごまかすことが上手だった」

権藤の解説は続く。

「あの球威で150勝近くも勝ったということは立派ですよ。彼は自分を強く見せることも、自分のモチベーションを高めることも上手だった。でも、もっと自己管理ができていたら、あと20勝はできていたんじゃないか。大卒の場合、大学1年、2年の頃は必死に練習をする。でも、3年、4年になると練習をしなくなる。星野なんて、プロでもほとんど練習しなかった。肩が張っていればマッサージで治すだけ。鍛えて治すという発想はなかったから」

「投手・星野」について辛口の批評が続いた。しかし、「監督・星野」について尋ねると、その口調が一変する。

「監督としての星野は別格ですよ。すごいと思います。“これを使えば勝てる”という選手の見極めができる。“ここが足りない”と思えば、どこかから獲ってくる。半分は監督でありながら、半分はGMとしての目も持っている。中日でも、阪神でも、楽天でも優勝を経験したのだから運も持っている。監督としては超一流だと思います」

手放しでの絶賛が続いた。自身も1998(平成10)年には横浜ベイスターズを日本一に導いている権藤だが、「星野と自身の違い」について尋ねると、その表情が曇った。

「彼の場合は、《これ》がちょっと多すぎたよ……」

右手の拳を握りしめながら、「これ」と、権藤は言った。

「私にはあんな野蛮なことはできない……」

監督時代の星野について言及する際に、しばしば「鉄拳制裁」というフレーズが登場する。一方、ベイスターズ監督時代の権藤は、就任当初から「私のことを監督とは呼ぶな」と指示し、選手たちを大人扱いする指導スタイルで成果を収めた。権藤の目には「星野式指導スタイル」はどのように映っていたのか?

「私にはあんな野蛮なことはできないから……」

続く言葉を待った。

「私と星野のスタイルはまったく違いますよ。大学出身の監督は、自分がそうやって育ってきているから、それが当たり前なのかもしれない。ましてや彼は明治でしょ。明治と言えば島岡(吉郎)監督ですから。それはガンガンやられてきたはずですよ。でも、私は社会人(ブリヂストンタイヤ)出身だから、そんなに殴られることもなくプロ入りしていますから」

本連載・高田繁編ですでに述べたように、歴代数多くの明治OBの中で、高田と星野の2人だけが、島岡御大からの鉄拳制裁を受けていない。その点を告げると、「それは初めて知りました」と権藤は言った。

「それは初めて知ったけど、それでも島岡さんのやり方を間近で見ていたのは確かですからね。“どうしてそれができないんだ”とか、“もっとお前はやれるはずだろう”という思いが、ああいう形になったんじゃないのかな?」

本連載において、中村武志は「世間の人はいつも鉄拳制裁を話題にするけど、星野さんの根底には、選手への愛があった」と語っていた。この点を告げると、権藤は「いや……」と言った。

「……星野の場合、愛情というよりも、“絶対に負けられん”という闘争心だったはず。《愛》なんて生易しい言葉じゃない。“勝ちたい”という思い。“こうすれば絶対にうまくなるはず”という強い思いだった。私はそう考えますね」

そして権藤は、こう続けた。

「あの頃はそれが当たり前だった。決して私のスタイルではなかったけれど、それでも別に、あの当時の感覚では、“やりすぎだった”というわけじゃない。もちろん、今、あんな指導をしていたら大変なことになるけれど……」

後編に続く)

Profile/権藤博(ごんどう・ひろし)
1938年12月2日生まれ、佐賀県出身。鳥栖高校からブリヂストンタイヤを経て、1961年に中日ドラゴンズ入団。1年目から25勝、防御率1・70で最多勝利、最優秀防御率のタイトルを獲得。さらに、新人王、沢村賞に輝く。翌62年も最多勝となり、チームの大黒柱となる。当時、連投に次ぐ連投で、「権藤、権藤、雨、権藤」という流行語も生まれたが、右肩を痛め、68年限りで引退。その後は、中日、近鉄、ダイエー、横浜で投手コーチを歴任。98年に監督に就任すると、横浜ベイスターズを38年ぶりの日本一に導く。2019年に野球殿堂入り。現在は野球解説者。

Profile/星野仙一(ほしの・せんいち)
1947年1月22日生まれ、岡山県出身。倉敷商業高校、明治大学を経て、68年ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。気迫あふれるピッチングで、現役通算500試合に登板し、146勝121敗34セーブを記録。現役引退後はNHK解説者を経て、87~91年、96~2001年と二期にわたって古巣・ドラゴンズを率いる。02~03年は阪神タイガース、07~08年は日本代表、そして11~14年は東北楽天ゴールデンイーグルスで監督を務める。17年、野球殿堂入り。翌18年1月4日、70歳で天に召される。

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