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【道枝駿佑主演】『君が最後に遺した歌』は“よくある難病もの”ではない――「どうせ泣かせにくるんでしょ?」と思う人にこそ観てほしい理由【レビュー】

  • 2026.3.27
©2026「君が最後に遺した歌」製作委員会
©2026「君が最後に遺した歌」製作委員会

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3月20日より映画『君が最後に遺した歌』が劇場公開中だ。監督は現在『ほどなく、お別れです』が大ヒット中の三木孝浩で、さらに2022年公開の『今夜、世界からこの恋が消えても』と同じく亀田誠治による音楽、一条岬による原作、そして主演・道枝駿佑という布陣で送り出されている。

あらかじめ「死」を予感されるタイトル。だが、他の「難病もの」と一線を画す

本作はタイトルの「遺した」から、あらかじめ「死」を予感させている。しかし、他の「難病もの」と一線を画する要素に、文字の読み書きをすることが難しい「発達性ディスレクシア」がある。

あらすじは、詩を書くことが好きな高校生の水嶋春人(演:道枝駿佑)が、同級生の遠坂綾音(演:生見愛瑠)から「歌詞を書いてほしい」と頼まれて、共に楽曲を作っていくというもの。綾音が発達性ディスレクシアで「文字が記号のように見える」と知った春人は、音階を伝えるためにドレミファソレシドをあえて「記号」として表現し、彼女に届けようとする。

そうしたやり取りが、放課後で2人だけの部室という場所も相まって「秘密の作戦会議」のようで楽しい。原作小説では綾音の「テスト対策」もしていた上での「むなしさ」も綴られているが、映画では「2人で共に歌を作るかけがえのない時間」にフォーカスし「美しい記憶」を映像化した。その判断は英断と言えるだろう。

共感ポイント「相手の才能」のために自分を過小評価してしまう心理

綾音の歌の才能は類まれなもので、ゲリラライブがSNSで話題になり、大手事務所のオーディションの話も舞い込んで、夢の成就へと突き進んでいく。そんな彼女は春人との「歌を作る時間」を大切に思っていたのだが、春人は「それだけのことだよ」といった言葉で彼女を傷つけてしまう。

春人は詩が書けて、綾音はそれを歌にできる。本来であれば2人は「自分ができること」と「相手ができること」が違うからこそ、相互に補える関係のはず。しかし、相手の夢の成就とのてんびんにかけて、それを否定してしまう……そこにこの物語の切なさがある。

一方で「他の才能を持っていたおかげで、あっさりとハンデを克服できている」という見方もできるため、そこは好みが分かれるだろうだろうが、それこそが重要な物語だったのではないだろうか。

「他の人が当たり前にできることができずに苦しんだ経験があっても、自分にしかない才能によって前に進める」希望。そして「相手の才能に気づいて、自分には才能がないと思い込み、可能性を狭めてしまう」という後ろ向きな感情。そのどちらも共感できる人は多いはずだ。

だからこそ、10年に渡る時間の流れを経て、それらが全てではないと“気づく”こと、そして新たな人生を歩みだせることにこの物語の価値がある。

映画館でしかなし得ない「仕掛け」。リフレインする楽曲だからこその感動

©2026「君が最後に遺した歌」製作委員会
©2026「君が最後に遺した歌」製作委員会

映像作品としての大きな魅力に「実際に聴こえる音楽」がある。亀田誠治は劇中歌4曲および劇伴も含めた音楽全体を手がけており、三木孝浩監督からは「劇中の音楽が綾音と春人のセリフにもなり、心の動きや情景の描写にもなる。すべての音楽が“一本の線”になるように繋げてほしい」というリクエストがあったのだそうだ。

このおかげで、劇伴と劇中歌のメロディーが部分的に一致するという一種の「リフレイン」があり、観客に意識的にせよ無意識的にせよ、綾音と春人の「つながり」を感じさせる効果を生んでいる。序盤に綾音が鼻歌として歌ったメロディーが、どのような歌詞とともに春人へと届くのか。ぜひ耳を澄ませてほしいし、それは映画でしかなし得ない「仕掛け」でもあった。

その上で、誰もが称賛するであろうことは生見愛瑠の歌唱力だ。実際に「大人気の歌手になる」「心に染み入る歌を歌う」までの説得力を持たせるというのは、本作の映像作品として成立させるための絶対条件にして、もっとも高いハードルであっただろうが、彼女は約1年半にも渡るボイストレーニングとギターレッスンを経て、見事に成し遂げていたのだから。

「どうせ泣かせようとするんでしょ?」と、斜に構えている人にこそ観てほしい

あえて本作の弱点をあげるのであれば、終盤はこれまでの流れを断ち切るように「不治の病」が入り込んでくるため、この展開だけを取り上げると、発達性ディスレクシアに関わるドラマがかなり後退したように思える点だ。「難病ものの定型」に収まっていく印象がある。

だが、その後には不治の病になる前の「作戦会議をしていたあの頃」へ「回帰」するため、ただ死を憂いて美化するような内容にはなっていない。三木孝浩監督と脚本家・吉田智子がタッグを組んだ『余命一年の僕が、余命半年の君と出会った話。』もそうだったが、ウェットさは比較的抑えめで、「遺された時間の大切さ」や「前向きな生き方」を肯定するバランスになっていたのだ。

その先に待ち受けていた結末もまた、映像作品として音楽が流れるからこその、そして10年という時を描いていたからこその感動がある。そういう意味では「難病ものって、どうせ人の死で悲しませて、泣かせようとするんでしょ?」と、斜に構えている人にこそ「いや、それだけじゃないんだよ」と勧めたくもなる作品でもあるのだ。

本作の魅力は、ライブ会場のように「体感」できる劇場でこそ格段に大きくなる。ぜひ、映画館で見届けてほしい作品だ。

文=ヒナタカ

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