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『しあわせな選択』はしあわせな結末をもたらしたか?パク・チャヌク監督最新作にみる、愚行に滲む哀れ【小説家・榎本憲男の炉前散語】

  • 2026.3.19

小説家で、映画監督の榎本憲男。銀座テアトル西友(のちに銀座テアトルシネマ)や、テアトル新宿の支配人など、映画館勤務からキャリアをスタートさせた榎本が、ストーリーを軸に、旧作から新作まで映画について様々な角度から読者に問いかけていく「小説家・榎本憲男の炉前散語」。第12回は、韓国の巨匠パク・チャヌク監督の最新作『しあわせな選択』(公開中)を取りあげ、イ・ビョンホン演じる主人公がとった“選択”の原動力とはなにか、そして監督の狙いはなんだったのかを読み解きます。

【写真を見る】『しあわせな選択』のラストいおいて、マンスは果たして「しあわせ」だったのか

※本記事は、『しあわせな選択』のネタバレ(ストーリーの核心に触れる記述)に該当する要素を含みます。未見の方はご注意ください。

パク・チャヌク作品の特徴は、作家と主人公の距離の取り方が絶妙に遠いこと

物語の主人公を、善人にするか、悪人にするか、はたまた凡庸な人間にするかは、非常に難しい問題で、どちらがその映画をしあわせなものにするのか、定かではありません。もちろんこれは、あまりにも単純な3分割であり、実際のキャラクターはさまざまな面が折り重なっていることは言うまでもありません。ただ、物語にとって、悪を為すものを主人公に据えるのは非常に難しい。悪行であっても観客になにかしらの共感(広い意味での)をもたらすことが前提となるからです。

『オールド・ボーイ』『別れる決心』などで知られるパク・チャヌク監督 [c]Everett Collection/AFLO
『オールド・ボーイ』『別れる決心』などで知られるパク・チャヌク監督 [c]Everett Collection/AFLO

僕がパク・チャヌク監督作品に感じるのは監督と主人公の距離の遠さです。このことを説明するにあたって、監督を作家と呼ぶことにしたいと思います。作家と主人公は基本的に似る傾向にあります。僕は小説を書いていますが、職業や年齢や性別が変わってもやはりどこか僕と似ているところが残るようで、知人からそう指摘されて驚くことがあります。

さて、主人公は欲望を持ち、主人公の欲望が物語を駆動するのだ、とこのコラムでは再三語ってきました。これは独自の理論ではなく、ストーリーライティングの一般常識です。そして、作家が主人公と同じ欲望を感じているとき、作家と主人公は似てきます。

では、パク・チャヌク作品の主人公は作家と似ているでしょうか? パク・チャヌク作品の主人公は犯罪を犯す者が多い。気持ちはわかるがそれをやってしまってもいいものだろうかと考え込んでしまうような欲望を抱えた人物が多い。これらの人物と監督が似ているなどと言うのは物議を呼びそうですが、僕は似ていると思います。ただ、パク・チャヌク作品の特徴は、作家と主人公の距離の取り方が絶妙に遠いことです。基本的には主人公に甘い勝利を味あわせることをしない。けれども、ラストシーンには憐れみの眼差しがある。では、『しあわせな選択』の話に移りましょう。

『しあわせな選択』における、主人公の欲望

仲睦まじい様子のマンス一家だったが... [c]Everett Collection/AFLO
仲睦まじい様子のマンス一家だったが... [c]Everett Collection/AFLO

物語は、主人公のマンス(イ・ビョンホン)が郊外の大きな家で、妻ミリと2人の子ども、2匹の大きな犬とガーデンパーティをやっているところからスタートします。このしあわせを画に描いたような冒頭を見ているとき僕は、ひょっとしてこれはアメリカ在住の韓国人の家なのかしらと疑いました。そのくらいに広く大きく立派で、その嘘くさい「しあわせ」の描写はなんとなくアメリカの中産階級のパロディのようにも見えたのです。マンスが、製紙会社に勤めるサラリーマンで、役員でもないことを知ってすこし驚きました。

ただ、このような幸せな暮らしぶりはまもなく瓦解しはじめます。マンスは、会社の合理化によって、25年働いた職場から一方的な解雇通告を受けてしまうのです。再就職するぞと意気込むものの、別の製紙会社への面接試験にも失敗し、住宅ローンの返済も重くのしかかり、家計は逼迫し、家を手放すまでの瀬戸際まで追い詰められていきます。

恐ろしい計画を実行に移し始めるマンス [c]2025 CJ ENM Co., Ltd., MOHO FILM ALL RIGHTS RESERVED
恐ろしい計画を実行に移し始めるマンス [c]2025 CJ ENM Co., Ltd., MOHO FILM ALL RIGHTS RESERVED

そこで、彼が選択したのは、自分と同じような境遇の同世代の求職者たちの情報を集めてリストを作り、彼らを殺害すれば、自分の再就職もまちがいないと考え、そしてこのとんでもない考えを実行に移しはじめるのです。

さて、本作品の韓国語の原題を直訳すると「どうしようもない」または「そうするしかない」になるようです。英語タイトルは“No Other Choice”なので、これは韓国語の原題にかなり近い。そして邦題は、このChoiceを引き継いで『しあわせな選択』という思い切ったものになっています。このタイトルを目にしたときには「あまりインパクトがないなあ」などと思ってしまったのですが、鑑賞後には、実にアイロニカルでジワジワとくる絶妙なタイトルだと感じ入りました。

自分が再就職したいから、ライバルを殺す、これが主人公の選択であり、メインプロットを駆動する欲望です。では、観客はこの欲望とどう向き合えばいいのでしょう。殺人は無論悪いことです。それを、まあ「しかたがない」と観客が思う可能性のあるものとしておもいつくのは、理不尽に痛めつけられた被害者が復讐を果たそうとするくらいのものでしょう。

監禁生活から抜けだした男の復讐を描く『オールド・ボーイ』 [c]Everett Collection/AFLO
監禁生活から抜けだした男の復讐を描く『オールド・ボーイ』 [c]Everett Collection/AFLO

パク・チャヌクにとっては復讐は重要なモチーフでした。『復讐者に憐れみを』(02)『オールド・ボーイ』(03)『親切なクムジャさん』(05)は、「復讐三部作」と呼ばれています。そして、パク・チャヌクが描く復讐は、する側とされる側が奇妙に反転しつつよじれていく(悪行によって被害を蒙った被害者が悪党に私的な制裁を加えるという単純な形にはならない)のが興味深いのですが、それはまた別の機会にお話ししたいと思います。

固定観念にとらわれた人間に滲む哀れ

解雇されてもなお、マンスは製紙会社へのこだわりを捨てることはなかった [c]Everett Collection/AFLO
解雇されてもなお、マンスは製紙会社へのこだわりを捨てることはなかった [c]Everett Collection/AFLO

しかし、『しあわせな選択』ではすこし事情が異なります。理不尽な解雇の憂き目にあった主人公を被害者であるということはできるし、その背後に暴走する資本主義やAIが人間の仕事を奪いつつある現代社会を読み解くことも可能でしょう。では、彼はどこに「復讐」するべきなのか。それが自分を解雇した企業にであるとすれば話は簡単です。しかし、彼は自分を否定した企業(同業他社を含む)に戻りたいと思っているわけですから、話はここでややこしくなります。なぜ、自分を切り捨てた側に自分を認めさせたいのか。それは、25年間製紙会社で働いていた彼は「パルプマン」としての矜持を持っているからであり、自分にふさわしい仕事は紙の製造しかないと信じているからです。

このような主人公の鏡像のような人物がいます。それは殺害予定リストの中にあるク・ボムモ(イ・ソンミン)です。ボムモも解雇の憂き目に遭っているのですが、経済的に逼迫しているわけではありません。おそらく奥さんが資産家の娘なのでしょう、製紙会社にこだわらなくていいじゃないの、あなたはオーディオ好きなんだから、それを置いてカフェでもやれば、と薦めたりもしてくれます。にもかかわらず、紙の仕事を天職だと信じる彼はこの助言に耳を貸そうとはしません。境遇にちがいはありますが、自分はパルプマンでなければいけないと信じているという心理的状況は同じです。なので、これが主人公になにがしかの共感を生じさせたのか、殺害対象である彼を救済するような矛盾に満ちた行動を取ったりもするのです。このへんが、パク・チャヌク監督と感じました。

『ソウルの春』『対外秘』などの作品への出演でも知られるベテラン俳優イ・ソンミン [c]2025 CJ ENM Co., Ltd., MOHO FILM ALL RIGHTS RESERVED
『ソウルの春』『対外秘』などの作品への出演でも知られるベテラン俳優イ・ソンミン [c]2025 CJ ENM Co., Ltd., MOHO FILM ALL RIGHTS RESERVED

さて、ここでこのストーリーにひとつの問いを発したいと思います。パルプマンでありたい、パルプマンであるためには殺人も辞さない、という欲望が湧き上がってくる源泉はどこか? これにはいく通りもの答えがあることでしょう。以下に述べるのはその中の一つにしか過ぎないことをお断りした上で、僕なりの答えを提示したいと思います。それは、主人公たちが自分の自己像を固定してしまっているところから生じているのです。私はこういう人間である、私にふさわしい職はこれだけだ、という固定観念です。そんな思いに駆られるあまり殺人まで犯す、そんな人間に滲む哀れを描くことが本作の表現の核心ではないでしょうか。

『しあわせな選択』の主人公と重なる「ブレイキング・バッド」ウォルター・ホワイト

肺ガンになったことをきっかけにドラッグ作りに手を染める「ブレイキング・バッド」の主人公ウォルター・ホワイト [c]Everett Collection/AFLO
肺ガンになったことをきっかけにドラッグ作りに手を染める「ブレイキング・バッド」の主人公ウォルター・ホワイト [c]Everett Collection/AFLO

こんな私は本来の私ではない、という動機で、半ば社会に復讐するように犯罪を犯す主人公として思い出されるのは、「ブレイキング・バッド」のウォルター・ホワイト(ブライアン・クランストン)でしょう。彼は高校の化学教師でありながら、化学の知見を活かして極めて純度の高い違法薬物「ブルー・メス」を製造し売りさばく。このとんでもない犯罪は、治療費を調達するためだ、家族のためだ、とシリーズの当初は説明されていたのですが、いつしかその問題は消え、では、金が欲しいのかというと、手にした金の隠し場所にも困るほどになっているのに豪遊するわけでもなく、ひたすら製造を大がかりなものにしていくのです。

主人公をこのような愚行に走らせる欲望は、シリーズの大詰めになってようやく主人公の口から語られます。彼の犯罪を知った妻が、「どうせ、家族のためだったと言うのね」となじると、彼はこう答えるのです。

「自分のためにやったんだ。……好んでやったことだ。……俺にはそれをやる才能があったんだ。そして、俺は生きているという実感を得たんだ」(I did it for me. I liked it. I was good at it. I was really, I was alive)。

妻に積年の思いを打ち合けるウォルター(「ブレイキング・バッド」) [c]Everett Collection/AFLO
妻に積年の思いを打ち合けるウォルター(「ブレイキング・バッド」) [c]Everett Collection/AFLO

そこには、優秀な化学者でありながら、地方の高校教師として朽ちたくはないという思いが滲んでいます。

本当に“しかたがなかった”のか

自己像というものは誰もが持っているものです。それが脅かされるとき人はそれを必死で守ろうとする。西洋的な近代人は自己像と現実的な自己との一致を求めます。そして、それが「自己実現」などという言葉で語られたりもします。けれど、果たしてそれはそれほど自明なものでしょうか?

娘の思わぬ才能に驚かされるマンス夫妻 [c]2025 CJ ENM Co., Ltd., MOHO FILM ALL RIGHTS RESERVED
娘の思わぬ才能に驚かされるマンス夫妻 [c]2025 CJ ENM Co., Ltd., MOHO FILM ALL RIGHTS RESERVED

ここで、東洋哲学の入門書「ハーバードの人生が変わる東洋哲学 ―悩めるエリートを熱狂させた超人気講義―」(マイケル・ピュエット&クリスティーン・グロス=ロー)を紐解いていきましょう。邦題は、ちょっとどうかと思うくらい安っぽいタイトルが付いていますが、原題は「The Path」、内容は非常に充実しています。この本の中に、<「本当の自分」を探してはいけない>という章がありますので、以下、引用してみましょう。

「(前略)「本当の自分」という考え方を手放さなければならない。(略)わたしたちは自己啓発本を読み、瞑想し、日記をつけ、自己診断して自分にレッテルをはる。(略)このようなレッテルづけは子ども時代にはじまっている。(略)その結果、あまりに多くの人が、ある日ふと気づくと、狭義に限定した自己に閉じ込められていたということになる。(略)西洋人が真の自分と定義しているものは、実際には人や世界に対する連続した反応のパターンにすぎず、ときとともに蓄積されたものだ」

そして、孔子の「礼」を参照しつつ、著者はこのような処方を提示します。

「人は自分自身を単一の統一されたものととらえ、内省によってそのような自己を見いだそうとするが、そう考えるかわりに、さまざまな感情や性向や願望や特徴がごちゃまぜになっていて、いつも違う方向や正反対の方向へ引っ張られている存在ととらえることもできる。自分をそのようにとらえれば、自己は鍛えようのあるものになる。(略)未熟で感情的な反応に引きずられるのではなく、ゆっくり時間をかけてもっと建設的なふるまい方を自分のものにしていけばいい。きみは自分ですら気づいていなかった一面を少しずつ開拓し、よりよい人間へと成長しはじめる」(同著より)

なるほど。ごもっともです。けれども、映画や文芸は孔子のような賢者よりも、愚かな近代人の気の迷いを描くことを好みます。パク・チャヌク監督作では、法を踏み越えるものは根っからの悪党ではない。私たちとよく似た顔つきの隣人です。パク・チャヌクは愚行に滲む哀れを描こうとしていると言えるでしょう。

【写真を見る】『しあわせな選択』のラストいおいて、マンスは果たして「しあわせ」だったのか [c]Everett Collection/AFLO
【写真を見る】『しあわせな選択』のラストいおいて、マンスは果たして「しあわせ」だったのか [c]Everett Collection/AFLO

『しあわせな選択』でのラストシーンは、主人公の選択は果たしてしあわせをもたらしたのか、原題に沿って言えば、本当にしかたがなかったのか、の判断を観客に委ねます。そして、観客の反応は二分することになるでしょう。そのような戸惑いを誘発する問いを発することが監督の狙いだったのだと僕は信じています。この映画の問いはスクリーンの中では終わらない。映画館を出た後、観客はみな自分の「しかたがない」が本当にそうなのかと考え続けていくのです。

文/榎本 憲男

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