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小説家・立松和平が訪ねた染織家 ─ 紅型・藤村玲子さん

  • 2026.3.10
撮影=大倉舜二

各地にある染織の産地や個人の作り手によって私たちが袖を通す着物は生み出されています。土地に根づき、風土を生かして脈々と続いている伝統ある手仕事の現場は、色々な意味で厳しい状況にあると言わざるをえません。染め織りひと筋に歩んできた先輩たちを作家の立松和平さんが取材、熟練の染め織り人を辿ってきた道のりを識(し)り、日本が生んだ着物を生み出す人々の心を明かしてゆきます。

※雑誌『美しいキモノ』1999年春号〜2002年冬号の連載記事を復刻しました。

第16回 紅型〈沖縄県〉 ─ 藤村玲子さん

文/立松和平

こころの流れ

琉球王朝解体と第二次世界大戦による戦災。紅型を襲った苦難

紅型はそもそも、琉球王朝の王家や士族の衣装を染める技法であった。紅型の制作にあたった紺屋は首里に居を構え、士族の扱いを受けていた。琉球王朝にはなくてはならない文化であったからだ。沢岻(たくし)家、知念(ちねん)家、城間(しろま)家を、紅型三宗家と呼んだ。

王族や士族のための染めであったが、明治十二年琉球藩の廃止によって琉球王朝は解体され、三宗家にも苦難の歴史がはじまったのである。その後第二次世界大戦で昭和二十年三月に沖縄戦が起こってアメリカ軍が上陸し、琉球王朝の首府であった首里は、激しい爆撃と砲撃により廃墟となった。

もちろん紺屋の人々にも苦難が襲いかかった。城間栄喜(えいき)氏は大阪に染料購入にいったまま徴用され、昭和二十二年十月になってようやく帰還し、首里にテントの作業場を建てて仕事を再開した。それまでも衰亡の一途をたどってきた紅型ではあったが、知念績弘(せきこう)氏も戦火を生きのびて作業の現場に帰ってきた。この美しい型染めをなくしてはならないと、使命感に燃えていたのであろう。

戦後しばらくは物資が極度に欠乏した。染料や顔料が思うままに手にはいるはずもなく、生地もアメリカ軍払い下げの落下傘の布、晒し木綿、メリケン袋など、ありとあらゆるものを材料としてつくられた。その城間栄喜さんのまわりに、紅型に心魅かれた人が多く集まるようになっていた。その人たちの片隅に、十四歳の藤村玲子さんがいた。藤村さんは昭和十四年生まれであるから、昭和二十八年のことである。藤村さんは話してくれた。

沖縄には特別な思い入れがあり、来島を重ねている立松氏だが、紅型の工房を訪ねるのは初めて。ひと言で紅型といっても作り手によって個性があることに感心を。沖縄に詳しい立松氏を前に藤村さんも打ち解けて。 撮影=大倉舜二
病気が人生を変えた。ベッドに体を横たえながらも縫い物が楽しみだった少女の頃

「戦争の時は台湾にいましたから、戦争は知らないんです、わたし。父は学校で英語の先生してました。学校に入って五年生で、わたし、骨髄のカリエスにかかったんです。戦争終わって台湾から宮古に戻りまして、戦争中は英語は敵性言語でしたから英語の専門家がいないので、父はもてはやされて、通訳でふりまわされました。父が結核にかかったんです。わたしは一緒に寝ていましたから、骨髄に結核菌がはいって、カリエスにかかったんです。宮古の結核療養所に、わたし、十歳ぐらいではいりました。父は那覇で生まれ育ちましたが、祖父が宮古の人なんですね。

父が死んで、母は那覇に出てきました。母も学校の先生でした。母は宮古では余所者だったんですね。母は洋装店をやって、和服も内職で縫っていました。よく働きましたね。ないというなって、よくいってました。貧乏ったらしいの、嫌いでした。ないないというと、貧乏神がついてくるとかいって。みみっちい育て方はしなかった。貧乏だけど、毅然としていました。母は大事に育てられたと見え、貧乏くさくないんですね。

十四歳の時、母に城間栄喜先生のところに連れていかれました。城間先生は別に人を教えていたわけではないんですが。母はわたしが退屈しちゃいけないと思ったんじゃないですか。城間先生は引きうけてくださったけど、わたしは事情はわからないんですよ。

この仕事、今になっても向いているとは思いませんよ。人はいろいろおっしゃいますけど、本人はこの仕事好きとは思ってません。手を動かすことは好きですよ。子供の頃、ベッドに寝ながら縫ってました。要するに、貧乏性です。前は服全部縫ってましたから。わたし、身体小さいでしょう。妹の服も縫ってました」

戦争と病気がこの一家の人生を変えたのである。藤村さんは医者に助かるまいといわれていたのだが、看病していたほうの姉が死んだ。兄も妹も亡くなり、助かったのは姉と妹の三姉妹であった。

王族や士族の衣服だった紅型。戦後の紅型復興に尽力した城間栄喜氏の工房に十四歳で入る

私が藤村玲子さんの紅型工房を訪問した時、東京が戦後最大ともいわれる大型台風に直撃され、日帰りする予定だったが復路は絶望的であった。東京から那覇に着きはしたものの、午後の便の東京行きはすべて欠航になった。那覇空港が台風で閉鎖されるのはよくあることであるが、羽田空港が全便欠航になるのは珍しい。どうしてもその日のうちに帰らなければならないなら、東京以外のところに飛び、そこから新幹線に乗ればよい。

そんなことを考えながら、とにかく取材優先で私は首里久場川町の藤村さんの工房に向かった。しかし、いつものことながら那覇市内は交通渋滞で、複雑な首里の地形の迷路に入り込んでしまったかのようにタクシーの運転手は迷い、工房に電話を入れてお弟子さんに迎えにきてもらった。待っていた藤村玲子さんは出掛ける用意をしていて、私にいった。

「お昼まだなんでしょう。近くに食べにいきましょう」

こうして近所の喫茶店に入り、豆腐のチャンプルー定食を食べ、コーヒーを飲みながら、私はゆっくりと話をすることができた。カメラの大倉舜二さんは前日に入り、午前中に撮影をすませて、どこかで昼食をとっているはずだった。藤村さんは時間がなくなるかもしれない私のために、気を遣ってくれたのである。この気遣いはとても大切なことだ。誰にでもできるということではない。そして、自身の生い立ちのことも、問わず語りに話してくれたのであった。

私とすれば、藤村玲子さんの紅型の作品をゆっくり拝見してからお話をうかがうという形ではなく、先に人生を感じるということになった。藤村さんの声は小さい。喫茶店のテーブル越しに懸命に耳を傾けようとすると、まず私に向かって質問が向けられた。

「沖縄の染めと織りとどうですか」

「昔のつくり方を守っているところがいいですね」

踊りの舞台衣装の地染めをする藤村さん。菖蒲に枝垂れ桜。模様は舞台に映えそうな鮮やかな色調だが、地色は落ち着きのあるグレー。この配色が藤村さんの個性である。地染めは何回も繰り返し深みのある色に仕上げる。 撮影=大倉舜二

日頃感じていることを私は話す。そこを話の入口として、藤村さんの話がはじまった。

「昔といっても、城間栄喜先生は戦後ですよね。戦前とは違います。王朝がなくなって、明治になって。十年前の材料は今ないですから(当時)。城間先生も、お父さんの代とは違っています。原料も、染料もなくなっています。琉装と和装では、着方が違います。琉装は帯がありません。紅型に使う顔料は摩擦に弱いんです。和装に使うようになって、摩擦に強くするため、すれても色が落ちない方法をします。色が落ちるということは、紺屋にとっては致命的ですよ」

紅型のつくり方は、渋を塗った奉書紙などにシーグと呼ばれる先が凹状の小刀で型を彫る。その型紙で、もち米とぬかを混ぜた糊を布地に置いていき、顔料や染料を用いて色挿しをする。次に筆で隈取りをし、ぼかし、模様を立体的に仕上げていく。水槽につけて糊を洗い流す水元(みずもと)をする。昔はたまにしか袖を通さないハレの衣装だったので、堅牢度は弱くても変色しない鮮明な顔料が多く使われた。媒染をしないので、亜熱帯の光を思わせる原色に近い色彩が特徴である。

絵画に近いから、つくり手とすれば感情がよく表現されるということであろう。紅型は人生と直接に結びつく。人生のことを聞きたいと考えている私に向かって、勘の鋭い藤村さんは、機先を制するようにしていう。

「わたし、難しく生きてません。あんまり難しいこと考えてませんよ。理屈でつくってるわけじゃありません。どういう時に図案考えますかっていわれるけど、いつ考えるんですかね。花は沖縄は多いですからね。難しいことはない。仕事の流れですよ。しばらく新しい模様を考えてないと、考えなくちゃと思いません?」

同意を求められた私は、同意も否定もせず、瞬時にはあという。藤村さんの声は小さくて静かなのだが、熱烈に語ってくれているような気がする。静かな情熱の人なのである。

作品という言葉は好きではない。相手があっての仕事だから、作家じゃなくて染め屋である

その藤村さんが、作品展をやりましょうと誘われていた大城志津子さんのことを、悲しそうに語り出した。大城志津子さんは、沖縄の染織を語る時には必ずでてくる人である。

「予定も立てないですよ、わたし。わからないでしょう、先のことって。計画的に、何年か後に展覧会しましょうっていってくれますけど、先のことはわかりませんよ。染織家で沖縄県立芸術大学に勤めていた大城志津子さんに、二年後に一緒に展覧会しましょうといわれてたのに、大城さんは急に亡くなりました。それを思い出すと、胸が痛くて。パリ・ニューヨーク・東京、展覧会の話あったけど、あんまり先の話しないほうがいいですよー。

わたし、人に恵まれてるみたいです。仕事を通してですけど。それぞれの一流の方たちが助けてくれます。そろそろ新しいもの考えなくちゃねえということになったら、つくります。作品という言葉、好きじゃないんです。ぎょうぎょうしいじゃないですか。商品と思ってます。わたし、着物として実用的に着るものをつくってると思ってます。着てもらって初めて生きるものでしょう。作家じゃなくて染め屋です。

大変とも思ってないけど、楽しくもないです。普通です。朝起きてからの流れです。配色や図案がまとまった時、瞬間は楽しいですよ。いつか城間栄喜先生に図案見ていただいたんです。先生は黙って御覧になってから、あんたが上等と思っても、どれだけ売れるかで、これがよかったかどうか、その時決まるとおっしゃいました。今考えるとわかりますね。どれだけ注文がきたかでわかるとおっしゃった。

今頃になって思いますね。すごいことだって。城間栄喜先生と知念績弘さんがいらっしゃらなかったら、紅型は消えていました。わたしなんか、特に人生が変わったんじゃないでしょうか」

静かで小声の口調は終始変わらない。藤村さんは自分を偉いと見せるでもなく、ことさら卑下するでもなく、普通のことを普通に語っている。この時代はそれが偉いのである。

テレビをつけると、東京から関東にかけて、強力な台風が暴れまわっているようだ。那覇は穏やかな日差しのもと、風もない。

朝起きて、顔洗って御飯を食べるのと同じように仕事も生活の流れのひとつ

工房にいくと、三人のお弟子さんが黙って色挿しをしていた。ラジオもかかっていない静謐な中を、たゆむことなく時が流れているのがわかる。

工房で作品を見せてもらい、まず感じたのは、私の持つ紅型のイメージよりもひとつひとつの模様が細かく微妙で、余白ともいうべき白の美しさである。白があるからこそ他の色があり、その色が輝くのである。白が色の中から光を導き出してくる。もし白がなければ、すべての色がずっと奥に引っ込むであろう。

振袖用の反物3点。右は赤紫、中は白、左は冴えた黄色が各々の地色。鮮やかさを保ちつつ、品の良さを感じさせる色使いは、実際に身に着けて映える色だ。 撮影=大倉舜二

朝起きてから流れのままに仕事をしていると藤村さんがいう時、私は藤村さんの心の中にこの模様がごく自然に存在していると感じるのである。紅型の伝統的な様式と、技術の制約の中から生まれた模様であるのだが、芭蕉の葉にしろ、牡丹の花にしろ、松の木にしろ、シンプルな中に今にも言葉を話し出しそうだと思えるほど植物の形は生彩がある。これはおそらく無駄な線を完全にそぎ落とした果ての、そのものが持つ本質だけを残したからである。その本質のことを、一般には魂という。捨ててしまうのは線や形ばかりでなく、色もである。こんな達成を意識しないで成してしまうことは、天稟(てんぴん)としかいうほかにない。

昔はこれが当たり前だったという両面染。麻地に芭蕉の葉やトンボ、琉球の扇などを組み合わせた模様を藍を基調に紫や緑で纏めている。作業が緻密すぎて、言わなければ両面染と気づかないほど。 撮影=大倉舜二

自然の時の流れに悠揚として身をゆだねているように見える藤村さんではあるが、紅型の古典柄の優れた作品があると聞けば、すぐさまに行動がはじまる。東京だろうと京都だろうと、距離は問題ではない。琉球王朝を治めた尚(しょう)家の血筋を引く人が滋賀県の彦根の殿様、井伊家にいると聞けばさっそくに飛んでいく。

尚家の末裔で井伊家に嫁いだ井伊文子さんの八十歳のお祝いのために、尚家に伝わる龍の模様を参考にし、新しくデザインして衣装を染めた。確かに古いものをじっくりと見せてはもらったにせよ、自分の工房で自分の手で型を彫り、自分で染めるのだから、藤村玲子さんの作品であるというほかはない。大きな模様を地味に使うのが好きというとおり、大胆な図柄の龍は南国のユーモアをたたえ、どうしても琉球王朝の香りのする風を呼ばなければ気がすまないのである。どこかうれしそうに微笑んでいる龍は、やはり琉球王家の風格を決して忘れていない。ここには八色から九色は使ってあるということである。

柔らかな秋の日差しが窓辺にたゆたう工房では、藤村さんをはじめ女性たちが黙々と作業をしている。藤村さんの朝起きての最初の仕事は、定着をよくするための豆汁(ごじる)をつくることである。ひと晩水につけた大豆をすり鉢ですってつくるのだ。夏は豆汁はすぐに使いものにならなくなり、毎日二度すらなければならない。ここから藤村さんの一日の流れがはじまるのだ。

「染めても、一ヶ月に一反半です。よく今まで仕事がつづいてますね」

型付けをし、豆汁を引いた後、色挿しとすり込みの作業に入る。藤村さんの指導のもと、まずは柄ごとに色を配り、さらに2度ずりし色に深みを与える。藤村さんの工房では、反物は1反ずつ完成させる。 撮影=大倉舜二

藤村さんはこう笑って他人ごとのように話してくれてから、帰るなら早く動き出したほうがいいと真顔でいった。三人のお弟子さんたちも、私たちがのんびりしているので、気が気ではないようだ。台風の本当の恐ろしさを知らないなと、私たちはいわれているようなのである。

私たちは予約センターに電話をして、東京羽田空港が閉鎖になっていたので、名古屋行きの便を取った。新幹線はかなり遅れたものの、深夜に東京まで帰り着くことはできたのであった。

こうして染めと織りの達人をめぐる『きものに訊く』の旅は最終回をむかえたのである。染めと織りとはこの自然をどのように解釈し、解読して、人が豊かな生活ができるようになるかという衣の道筋である。旅をつづけてきた私は、風土の発見を私なりにしてきたつもりである。発見するたび、深い驚きを味わってきた。してみると、私たちの国はまことに美しいと確信するしだいである。そして、その美しさは、この国に住む人の手によって、この世に形あるものとなる。

この美しいものがいつまでも身のまわりにあるようにと、私は願ってやまない。

勉強家で好奇心の強い藤村さんは、古典の紅型にも詳しく、復元の作業にも携わっている。古典の柄を熟知したうえで自分自身の創作をするのだ。地染めをしていた踊りの着物の型紙を前に。図案を考え、彫ることから、仕上げまですべて自身の手による。 撮影=大倉舜二

立松和平

撮影=大倉舜二

たてまつ・わへい◯ 1947年栃木県生まれ。早稲田大学政治経済学部在学中より執筆活動に入り、処女作『途方にくれて』を雑誌『早稲田文学』に投稿。『自転車』で第1回早稲田文学新人賞。80年『遠雷』で野間文芸新人賞を受賞、以降精力的に作品を発表。93年『卵洗い』で坪田譲治文学賞、97年『毒─風聞・田中正造』で毎日出版文化賞、07年『道元禅師』で泉鏡花文学賞。『美しいキモノ』では「染めと織りと祈り」(1999年春〜2002年冬号)も連載、温かな視点で好評を博す。行動派の作家として知られ、晩年は自然環境保護問題にも積極的に取り組む。2010年逝去。

撮影/大倉舜二

『美しいキモノ』2002年冬号より

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