1. トップ
  2. 恋愛
  3. 織田信長は“相撲オタク”だった…⁉ 信長が主催した、贅沢すぎる相撲大会/戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか⑤

織田信長は“相撲オタク”だった…⁉ 信長が主催した、贅沢すぎる相撲大会/戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか⑤

  • 2026.3.3

『戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか』(河合敦/ポプラ社)第5回【全7回】

『戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか』を第1回から読む

戦うだけが仕事じゃない! 戦国武将も、現代人と同じ悩みを抱えていた。武田信玄は浮気を弁解、織田信長は正倉院の宝物である香木を切り取り、伊達政宗は恋に泣き、高山右近は地位よりも信仰を優先し、茶の湯で政治を操り、南蛮料理に夢中になり、人身売買で財力を築く。戦場以上に熱い、濃厚なドラマを暴く。戦国武将の仕事からオフタイムまで、知られざる素顔をのぞく1冊、ぜひお楽しみください!

『戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか』 (河合敦/ポプラ社)
『戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか』 (河合敦/ポプラ社)

朝から夕方まで相撲を取らせる

天正六年(一五七八)二月、織田信長は再び近江国中の「相撲取」三百人を安土城に集め、そのうち二十三人を選りすぐって戦わせ、取り組みを観覧した。「相撲取」とあるので、〝プロの力士〞だと思われるが、その二十三人の名を見ると「東馬二郎、日野長光、大塚新八、下川弥九郎」など、約三分の一は一般の武士の名と変わらない。また、「平蔵、助五郎」などの名字を持たない庶民階層もいたようだ。

四股名に近いのは「力円、草山」ぐらいしか見当たらず、「円浄寺、地蔵坊」など寺院のような名もある。「たいとふ、づおう、あら鹿」という一風変わった名も散見される。

信長はそれからわずか半年後の八月、再び相撲大会を開催している。今度は近江と京都の力士、なんと千五百人を安土城に集め、朝から夕方まで相撲を取らせたのだ。

取り組みは「小相撲」と「大相撲」に分けておこなわれた。おそらく小相撲というのは〝アマチュア力士〞や武将の部下たちによる取り組み。大相撲は〝プロの力士〞による取り組みのことだと思われる。

この日は、信長の家臣たちの抱えている力士も大勢参戦している。たとえば、蒲生氏郷の藪下、京極高次(のち初代若狭小浜藩主)の江南源五、堀秀政(のち越前北ノ庄城主十八万石)の地蔵坊などである。この大会の〝結びの一番〞に信長は、強力で有名な阿閉貞大と永田正貞の取り組みを希望した。

技量や体格は貞大のほうが優れ、力も強かったが、どうしたわけか、番狂わせで正貞が勝利した。大会の賞品には貴重な品物が多く用意され、良い戦いをした者たちに与えられた。さらに、素晴らしい勝負を見せた十四人を信長は召し抱えたうえ、熨斗付の太刀や脇差、裃、領地百石、家宅まで与えたのである。

このように職能民としての力士や力自慢の武士たちは、信長の時代、織田家の直臣に抜擢されるチャンスがあったわけだ。

信長は翌月にも安土城で相撲大会を開き、息子の信忠と信雄に見物させている。

屋敷に招いて相撲を取らせる

豊臣秀吉の後継者の関白・秀次も相撲好きで、多くの力士を召し抱えていたといわれる。

このように、織田信長の趣味を反映して戦国時代に大いに栄えた相撲だが、大名や武将の力士の召し抱えは、江戸時代に入るとますます盛んになっていった。

鳥取の池田家などは、雇った力士たちを相撲衆として組織し、八人扶持七十俵を与えている。また、二代将軍・徳川秀忠の娘・初姫の夫である若狭小浜藩二代藩主・京極忠高は、相撲好きが高じて、庭で相撲見物をしていたときに初姫が病死して死に目に会えなかった。これを知った秀忠は激怒し、初姫の葬儀は徳川家ゆかりの江戸・小石川傳通院で執行したうえ、忠高ら、京極家の人びとの参列を許さなかった。

ちなみに忠高は、力士の江南源五を抱え、信長にその取り組みを見せた京極高次の息子である。つまり、親子二代の〝相撲馬鹿〞だったわけだ。

ただ、こうした大名は少なくなく、多数の力士を抱え、屋敷地において相撲を取らせ、楽しんでいたのである。

元記事で読む
の記事をもっとみる