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【豊臣兄弟!】織田信長(小栗旬)が桶狭間の戦いに至るまでの生い立ちは?

  • 2026.2.6

【豊臣兄弟!】織田信長(小栗旬)が桶狭間の戦いに至るまでの生い立ちは?

2026年NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。当時の文化や時代背景、登場人物について、戦国武将や城、水軍などに詳しい作家・鷹橋 忍さんが深掘りし、ドラマを見るのがもっと楽しくなるような記事を月1回お届けします。今回のテーマは、織田信長についてです。

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、小栗旬さんが演じる織田信長が魅力的だと評判になっています。織田信長の活躍や、その悲劇的な最期は有名ですが、桶狭間の戦い以前の信長は、それほど知られていないのではないでしょうか。今回は、桶狭間の戦い前までの信長をご紹介したいと思います。

織田氏とは

織田氏は元来、越前国織田(おた)荘(福井県丹生郡越前町)を本拠地としており、越前国の守護であった斯波(しば)氏に仕え、台頭してきました。

応永7年(1400)に、斯波義重(よししげ/のちの義教[よしのり])が尾張国の守護大名となると、織田氏はその守護代となったとされます(神田千里『織田信長』)。織田氏の本拠も尾張に移り、尾張と織田一族の関係がはじまりました(谷口克広『尾張・織田一族』)。

のちに織田氏は、岩倉城(愛知県岩倉市)を拠点に尾張国上四郡を支配する「織田伊勢守(いせのかみ)家」と、清須城(愛知県清須市)を拠点に尾張国下四郡を支配する「織田大和守(やまとのかみ)家」に分かれます(神田千里『織田信長』)。

信長が生まれたのは、織田大和守家の諸家・織田弾正忠(だんじょうのちゅう)家です。織田弾正忠家は有力諸家として台頭していき、信長の父の時代に、織田大和守家内部の争いに勝利して、勢力を伸ばしていきます(柴裕之『織田信長 戦国時代の「正義」を貫く(中世から近世へ)』)。

信長の誕生

信長は、天文3年(1534)5月に、尾張国海東郡の勝幡城(しょばたじょう/愛知県愛西市・稲沢市)で生まれました。天文6年(1537)の生まれとされる豊臣秀吉より3歳、天文9年(1540)とされる豊臣秀長より6歳年上となります。

父は、織田信秀(のぶひで)。母は、尾張国海東郡土田郷(愛知県清須市土田)の土屋政久の娘(土田御前)といわれています。(横山住雄『中世武士選書52 織田信秀――信長飛躍の足がかりを築いた猛将』)。

信長の母は、正妻の立場にありました。そのため、父・信秀には別の女性との間に生まれた信広(のぶひろ)と秀俊(ひでとし)という男子がすでにいましたが、信長が嫡子とされています。

信長に仕えた武士・太田牛一(ぎゅういち)が著わした信長の伝記『信長公記』によれば、信長は天文15年(1546)、数えで13歳の時に元服し、翌年、三河国大浜(愛知県碧南市)で初陣を果たしたといいます。時期は不明ですが、信長は父・信秀が尾張古渡城(ふるわたりじょう/愛知県名古屋市)を築いて居を移すと、尾張那古野城(なごやしろ/愛知県名古屋市)を譲られています。

16歳で歴史の舞台に登場

父・信秀は、合戦での勝利を重ね、勢力を拡大していきましたが、やがて大鶴義丹さんが演じた駿河の今川義元や、麿赤兒(あかじ)さんが演じた美濃の斎藤道三との戦いに敗れるなど、隣国との争いにおいて劣勢に立たされ、勢威を失墜してしまいます。

加えて信秀は病を患い、思うように活動できなくなったため、嫡子である信長が信秀とともに織田弾正忠家の運営に携わるようになりました。天文18年(1549)、信長は数えで16歳のことです。こうして信長は、歴史の舞台に登場しました。

19歳で家督を相続

父・信秀の病が快復に向かう様子はありませんでした。そのため織田弾正忠家では、信長と信長の同母弟・中沢元紀さんが演じた織田信勝(のぶかつ/後に達成、信成と改名)を両立する態勢をとることになります。

天文20年(1551)9月からは、信秀が晩年から居城としていた末森城(愛知県名古屋市)で、信勝が父に代わって活動をはじめました(柴裕之『織田信長 戦国時代の「正義」を貫く(中世から近世へ)』)。

天文21年(1552)3月、信秀が42歳で病死すると、信長は織田弾正忠家の家督を相続しました。信長、19歳の時のことです。信長が家督を継いでも、織田弾正忠家は不安定な状況のため、信長・信勝の両立態勢は継続されました。

主家筋・織田大和守家を滅ぼす

信長は、織田弾正忠家の勢力回復に努めました。織田弾正忠家の主家筋である織田大和守家の当主の重臣であった坂井大膳(だいぜん)らは、信長と対立し、織田弾正忠家の傘下の城を攻撃しました(柴裕之『織田信長 戦国時代の「正義」を貫く(中世から近世へ)』)。

これを受け、信長は天文21年(1552)8月、織田大和守家の拠点である清須城攻めに出陣し、萱津(かやつ/愛知県あま市)で織田大和守家の軍勢と戦っています。

天文22年(1553)7月には、坂井大膳らが、清須城に仕えていた守護大名・斯波義統(よしむね)を信長に通じているとみて、暗殺してしまいます。これを知った義統の子・斯波義銀(よしかね)は信長を頼りました。大義名分を得た信長は清須城を攻撃し、織田大和守家を滅ぼしました。

しかし、戦いは終わったわけではありません。信長への対抗をみせる弟の信勝と、信勝を擁立しようとする家臣や織田伊勢守家と敵対していくことになります。

弟との抗争

弘治2年(1556)4月、信長を支援していた舅の斎藤道三が、嫡子の斎藤高政(義龍)と長良川で戦い、命を落としました。

信長が後ろ盾を失い、孤立すると、信長の一番家老・諏訪太朗さんが演じる林秀貞(ひでさだ)と、彼の弟・林美作守(みまさかのかみ)、山口馬木也さんが演じる柴田勝家(この頃の勝家の主君は信勝)らは、信長の代わりに信勝を織田弾正忠家の家督に擁立しようと企みました。

信長と信勝の対立は合戦へと発展します。合戦は同年8月に稲生(いのう/愛知県名古屋市)で行なわれ、信長は信勝の軍勢を破りました。ところが、信勝はまだ諦めていませんでした。

柴田勝家の密告

信勝は今川義元や美濃の斎藤高政(義龍)、織田伊勢守家と結び、またもや謀反を企てました。しかし、この企ては信長の知るところとなります。柴田勝家が密告したからです。

企みを知った信長は、永禄元年(1558)11月、信勝を清須城に呼び寄せて、家臣に殺害させました。『信長公記』によれば、この時の忠節により、勝家はのちに、越前国という大国が与えられたといいます。

その後、信長は永禄2年(1559)2月には上洛して室町幕府13代将軍・足利義輝(よしてる)と対面し、翌年には、桶狭間の戦いで今川義元を倒しています。

信長や秀吉・秀長たちの、これからの活躍が楽しみですね。

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