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【豊臣兄弟!】豊臣秀吉(池松壮亮)と秀長(仲野太賀)は異父兄弟? 姉(宮澤エマ)、妹(倉沢杏菜)との関係は?

  • 2026.1.9

【豊臣兄弟!】豊臣秀吉(池松壮亮)と秀長(仲野太賀)は異父兄弟? 姉(宮澤エマ)、妹(倉沢杏菜)との関係は?

2026年NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。当時の文化や時代背景、登場人物について、戦国武将や城、水軍などに詳しい作家・鷹橋 忍さんが深掘りし、ドラマを見るのがもっと楽しくなるような記事を月1回お届けします。今回のテーマは、主人公・小一郎とその家族についてです。

NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の放送がスタートしました。仲野太賀さんが演じる主人公・小一郎(のちの豊臣秀長/ここでは秀長で統一)と、池松壮亮さんが演じる兄・藤吉郎(のちの豊臣秀吉/ここでは秀吉で統一)の息が合ったやりとりは、真実に兄弟のようでしたね。今回は秀長を中心に、その家族もご紹介したいと思います。

秀長と母

秀長は天文9年(1540)に、尾張国愛知郡中々村(愛知県名古屋市中村区)で生まれたと考えられています。

天文6年(1537)の生まれとされる兄・秀吉より3歳年下、小栗旬さんが演じる天文3年(1534)生まれの織田信長より6歳年下となります。

秀長の母は、法名を天瑞寺殿(てんずいじでん)といいます。実名は「仲(なか)」、「なか」などとされており、ドラマでも坂井真紀さんが演じる秀長の母は「なか」と称していますが、信頼のおける史料では確認できず、実名は不詳です。

天瑞寺殿(なか)は秀吉が天正13年(1585)に関白に任官すると、関白の母の呼び名である「大政所(おおまんどころ)」と称されるようになります。

天瑞寺殿(なか)の出自ははっきりとしていませんが、永正14年(1517)に尾張国愛知郡御器所(ごきそ)村(名古屋市昭和区)で生まれたとされ、御器所村の有力住人の娘と推察されています(柴裕之『秀吉と秀長「豊臣兄弟」の天下一統』)。

秀長の姉と妹

秀長の他に、法名・瑞龍院殿(ずいりゅういんでん/ドラマでは宮澤エマさんが演じる「とも」)、秀吉、法名・南明院殿(なんめいいんでん/ドラマでは倉沢杏菜さんが演じる「あさひ」)が、天瑞寺殿(なか)の子だといわれます。

瑞龍院殿(とも)は秀吉、秀長の姉で、天文元年(1532)の生まれとされます。実名は「智(とも)」といわれますが、こちらも確かな史料では確認できません。

瑞龍院殿(とも)の長男・秀次は、秀吉の後継者となり、関白に任官し当主となりますが、謀反を疑われ、悲劇的な最期を迎えます(秀次事件)。

妹の南明院殿(あさひ)は、天文12年(1543)に生まれたとされます。実名は「朝日」、「旭」とされますが、同時代の史料からは確認できません。

南明院殿(あさひ)は、のちに松下洸平さんが演じる徳川家康に、正妻として嫁ぐことになります。

秀長の父

秀長の父に関しては、諸説があります。順を追って、ご紹介しましょう。

徳川将軍家旗本・土屋知貞(ともさだ)がまとめた「太閤素生記」(『新訂増補 史籍集覧 第23冊』所収)によれば、秀長の母・天瑞寺殿(なか)は、中々村の住人である木下弥右衛門に嫁ぎました。

弥右衛門は信長の父・織田信秀に足軽として仕えていましたが、負傷したため、中々村で百姓になったといいます。

天瑞寺殿(なか)と弥右衛門の間には、瑞龍院殿(とも)と秀吉の一女一男が誕生しましたが、弥右衛門は天文12年(1543)に亡くなってしまいます。

夫と死別した天瑞寺殿(なか)は、中々村出身で織田信秀に仕えていた筑阿弥(ちくあみ/竹阿弥とも)と再婚し、秀長と南明院殿(あさひ)が生まれたことが記されています。そのため、秀吉と秀長は異父同母兄弟とされてきました。

ですが、秀長の生年は弥右衛門が死去する前の天文9年(1540)であり、妹の南明院殿(あさひ)も弥右衛門が死去した天文12年(1543)に生まれたとされることなどから、秀長と南明院殿(あさひ)も弥右衛門の子であり、秀長と秀吉は同父同母の兄弟とみてもよいとする説があります(小和田哲男『豊臣秀長 秀吉と泰平の世をめざした、もう一人の天下人』)。

また、筑阿弥は弥右衛門の出家名で、二人は同一人物とみることもできるともいいます(黒田基樹『羽柴秀長の生涯 秀吉を支えた「補佐役」の実像』)。

その他、天瑞寺殿(なか)は弥右衛門の存命中に彼と離縁し、筑阿弥と再婚したとの伝承も存在し、やはり秀長と秀吉は異父兄弟とみる説もありますが(福田千鶴『豊臣家の女たち』)、ここではとりあえず、同父同母の兄弟とする説を採ります。秀長の父に関して、今後、ドラマで描かれるのでしょうか。

秀吉は信長の草履を温めていない?

親が亡くなった時、秀吉は7歳、秀長は4歳でした。残された男子はどちらも幼少のため、百姓を営むのは困難だったと思われます。

黒田基樹『羽柴秀長の生涯 秀吉を支えた「補佐役」の実像』によれば、耕地は村の有力者や親類に預けられ、秀長たちの一家は他の百姓家で奉公するようになったとみられています。

秀吉は10歳の時に家を出て、各地を廻って奉公し、永禄元年(1558)22歳の時に尾張国に戻ったとされます。

そして、清須城(愛知県清須市)の城主となっていた織田信長に、小者(こもの)として仕えたとみなされるとしています。小者とは「雑用を仕事とする者」のことです。

草履取り(主君の出立時に草履を揃えて出すこと)も小者の役目の一つですが、秀吉が信長の草履を懐で温めたという有名な逸話は、創作であると考えられています(呉座勇一『真説 豊臣兄弟とその一族』)。

その後、秀吉は織田家内部で頭角を現わし、出世の階段を駆け上がっていくことになります。

秀長も信長の家臣に

一方、秀長については史料がないため、この頃の彼がどのような生活を送っていたのかは定かでありません。

やがて秀長も中々村を出て、信長に仕えるようになります。その時期は不明ですが、秀吉が「木下藤吉郎」と称するようになった永禄5年(1562)以降ではないかと推定されています。

織田家の家臣となった秀長は、「木下小一郎長秀」を称します。実名「長秀」の「長」は、信長から与えられた偏諱(へんき/実名の一字)だと考えられています(以上、柴裕之『秀吉と秀長「豊臣兄弟」の天下一統』)。

秀吉、秀長兄弟による奇跡の下克上の幕が開きました。

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