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「ばけばけ」泣きながら話し、泣きながら聴いた…人種も年齢も違う小泉セツとハーンを結び付けたもの

  • 2025.12.26

「ばけばけ」(NHK)のモデル、小泉セツは11歳の頃から働いてきた苦労人だったが、23歳のとき、41歳のラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と事実婚する(のちに入籍)。2人のひ孫・小泉凡さんは「セツが幼い頃から胸に宿した物語世界の豊かさを、ハーンは求め続けた」という――。

※本稿は、小泉凡『セツと八雲』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

『怪談』執筆中は“ゾーン”に入った

いつでも書き物にいそしみたい八雲は、きれい好きなセツからすると、ちょっと困った人でもありました。

〈私は部屋から庭から、綺麗に、毎日二度ぐらいも掃除せねば気のすまぬ性ですが、ヘルンはあのバタバタとはたく音が大嫌いで、『その掃除はあなたの病気です』といつも申しました。学校へ参ります日には、その留守中に綺麗に片付けて、掃除しておくのですが、在宅の日には朝起きまして、顔を洗い食事を致します間にちゃんとしておきました。このほか掃除をさせて下さいと頼みます時には、ただ五分とか六分とかいう約束で、承知してくれるのです。その間、庭など散歩したり廊下をあちこち歩いたりしていました〉(小泉セツ『思ひ出の記』)

執筆している間、八雲は「ゾーン」に入ります。ランプから黒煙が出てしまい、室内が暗くなってしまっても、気づかずに書き続けるほどでした。

〈著述に熱心にふけっている時、よくありもしない物を見たり、聞いたり致しますので、私は心配のあまり、あまり熱心になりすぎぬよう、もう少し考えぬようにしてくれるとよいが、とよく思いました。松江の頃には私はまだ年は若いし、ヘルンは気が違うのではないかと心配致しまして、ある時西田さんにたずねた事がございました。あまり深く熱心になり過ぎるからであるという事が次第にわかって参りました〉(同前)

そんな風に肩を寄せ合うセツと出会わなければ、八雲はラフカディオ・ハーンのままでした。小泉八雲となることもなく、『怪談』で知られる文豪に「ばける」こともなかったでしょう。

小泉八雲と妻セツ
小泉八雲と妻セツ
前夫の出奔で「死にたくなった」

八雲が松江に来てまもなく聴いた怪談は「鳥取の布団」でした。紀行文「日本海に沿って」では旅の途中、宿の女中から聞かされたことになっていますが、実際はセツが語り伝えたようです。

そしてこの物語は、ほかならぬ鳥取出身の前夫、為二から教えられたのでした。セツは彼の出奔によって、死にたくなるほど悲しい思いをさせられた、といいます。でも、為二に聞かされた哀切なお話は忘れられなかった。とことん物語を愛するセツならではの感受性だと思います。

前夫・為二が語った「鳥取の布団」

「鳥取の布団」はこんな話です。鳥取で小さな宿屋が開業し、一人の旅商人の男が泊まった。布団から「あにさん寒かろう」「おまえも寒かろう」という子どもの声が聞こえてくるのに目を覚まし、幽霊だと訴えた。

宿の主人は最初、そんな話を相手にしなかったのですが、同じような現象が続き、とうとう主人自身も布団がしゃべる声を聞いてしまったそうです。原因を突き止めるため、布団を購入した古道具屋に事情を尋ねると、こんな悲しいわけが明らかになりました。

その布団は、鳥取の町はずれにある小さな貸屋の家主から古道具屋が買い入れたものでした。その貸屋には、貧しい夫婦と二人の男の子が住んでいましたが、夫婦は息子たちを残して相次いで死んでしまいました。残された二人は家財道具や両親の残した着物を売り払い、どうにか暮らしてきましたが、ついに一枚の薄い布団を残して売るものがなくなってしまいます。

大寒の日、兄弟は布団にくるまり、「あにさん寒かろう」「おまえも寒かろう」と寒さに震えていた。やがて冷酷な家主がやってきて、家賃の代わりに最後の布団を奪い取り、二人を雪の中に追い出してしまった。かわいそうな兄弟は行くあてもなく、少しでも雪をしのごうと、追い出された家の軒先に入って抱き合いながら眠ってしまった。神様は二人の体に新しい真っ白な布団をかけておやりになった。もう寒いことも怖いことも感じなかった。しばらく後に二人の亡骸は見つかり、千手観音堂の墓地に葬られた。

小泉セツ、20歳のころ
小泉セツ、20歳のころ
「あなた、私の手伝いできる人」

この話を聞いて哀れに思った宿屋の主人は、布団を寺に寄進して、二人の兄弟を供養してもらいました。布団がものを言うことはなくなったそうです……。

幼い頃から物語の世界にひたってきたセツにかかると、こんな情景も八雲の目に浮かぶような響きで迫ってきたのでしょう。

「あなた、私の手伝いできる人です」

聴き終わった八雲は、たいへん喜びました。再話文学の創作を支える「リテラリー・アシスタント」のセツが誕生した瞬間でした。

ダブリンでは乳母のキャサリン、シンシナティでは最初の結婚相手マティ、マルティニークではお手伝いさんのシリリアと、その地その地で伝承を語る女性が八雲のそばにいたものでした。八雲はそうした女性にどこか母性を求めていたのでしょう。

セツの怪談語りには凄みがあった

セツの語りは、ひときわ凄すごみを感じさせました。幼い頃から胸に宿した物語が八雲と出会い、伏流水のように湧きだします。話の筋だけでなく、ストーリーに応じた声音や表情が、八雲の再話文学に欠かせない要素になったのです。

小泉凡『セツと八雲』(朝日新書)
小泉凡『セツと八雲』(朝日新書)

ほかにもたくさんの民話を語り聞かせることができました。雪女や狐きつね、河童かっぱの息吹を感じさせる物語……。最も近い八雲にその才を認められたこと。それは娘時代から苦労を重ねてきたセツにとって、自分の居場所を見つけた瞬間とも言えます。

11歳の頃から家のため、働きに働いてきました。回り道をしましたが、八雲と一緒になり、本来宿していた力を見いだされたように感じられたでしょう。

セツと出会い、あまたの民話を伝え聞いてゆく八雲が、ひときわ好んだ怪談があります。幽霊が子育てをする「飴あめを買う女」という物語です。舞台となった松江にある大雄寺だいおうじは今も八雲ゆかりの寺として親しまれ、随筆「神々の国の首都」に織り込まれています。

『怪談(KWAIDAN)』の誕生

最も身近な女性を「語り部」とし、伝承者として再話した物語を紡いでゆく。そんな風に八雲とセツの、創作上も支え合う間柄が築かれてゆきます。

話によって八雲は泣き、セツも泣いて話し、泣いて聴いて、書いたものだといいます。八雲が他界した1904(明治37)年に刊行された『怪談』が『KWAIDAN』と表記されているのは、セツが出雲の言葉で話したからです。

ラフカディオ・ハーン『Kwaidan(怪談)』1904年、シンシナティ・ハミルトン郡公共図書館所蔵
ラフカディオ・ハーン『Kwaidan(怪談)』1904年、シンシナティ・ハミルトン郡公共図書館所蔵

知っている怪談だけでなく、後に古書店を巡り、素材を探すのもセツの役割となります。

八雲に怪談を聞かせる情景をセツは後に、『思ひ出の記』にこう書き残しています。

〈淋しそうな夜、ランプの心(芯)を下げて怪談を致しました。ヘルンは私に物を聞くにも、その時にはことに声を低くして息を殺して恐ろしそうにして、私の話を聞いているのです。その聞いている風がまたいかにも恐ろしくてならぬ様子ですから、自然と私の話にも力がこもるのです〉

こんな風に語り聞かせていると、八雲からリクエストがとんできます。

〈私が昔話をヘルンに致します時には、いつも始めにその話の筋を大体申します。面白いとなると、その筋を書いておきます。それから詳しく話せと申します。それから幾度となく話させます〉

セツの語りに惚ほれ込んだ八雲は、こう言うのです。

〈本を見る、いけません。ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考えでなければ、いけません〉

「表情の変わり方がなかなかひどい」

だから、自分の物にしてしまっていなければならず、セツは夢にまで見るようになりました。そして興が乗ってくると八雲の表情が変わってきます。

〈話が面白いとなると、いつも非常に真面目にあらたまるのでございます。顔の色が変わりまして目が鋭く恐ろしくなります。その様子の変わり方がなかなかひどいのです〉

ひとつ付け加えるなら、八雲は日本語が不自由でしたから、ただ本の朗読をされるばかりでは寓意も情景も分からないところが生じたのでしょう。そういう意味でも、セツがいろいろと補わないといけなかったのだと思います。

小泉 凡(こいずみ・ぼん)
小泉八雲記念館館長
1961(昭和36)年、東京都生まれ。成城大学大学院で民俗学を専攻し、87年から曽祖父・小泉八雲ゆかりの松江市で暮らす。小泉八雲記念館館長、焼津小泉八雲記念館名誉館長、島根県立大学短期大学部名誉教授を務める。著書に『怪談四代記 八雲のいたずら』(講談社)、『小泉八雲と妖怪』(玉川大学出版部)など。撮影=朝日新聞出版写真映像部・佐藤創紀

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