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朝ドラ「マッサン」のモデル竹鶴政孝の妻は故郷を捨てる覚悟で日本に渡った…「同情がロマンスに変わった」瞬間

  • 2025.12.26

ニッカウヰスキー創業者・竹鶴政孝夫妻の人生をモデルにした「マッサン」(NHK)が再放送中だ。朝ドラに詳しい田幸和歌子さんは「1920年ごろスコットランドに単身渡り、白人女性と結婚した竹鶴氏は波乱万丈な人生を歩んだ」という――。

北海道・余市のニッカウヰスキー蒸留所
北海道・余市のニッカウヰスキー蒸留所 ※写真はイメージです
ニッカウヰスキー創業者、竹鶴政孝

2014年から2015年にかけて放送され、大きな話題を呼んだNHK連続テレビ小説「マッサン」の再放送が始まった。玉山鉄二が演じる主人公・亀山政春のモデルとなったのは、ニッカウヰスキーの創業者であり、「日本のウイスキーの父」と称される竹鶴政孝(1894~1979年)である。

100年前、本場スコットランドに単身渡り、「門外不出」とされていたウイスキー製造の秘密を学び、さらにはスコットランド人女性と国際結婚して帰国するという、当時としては型破りな人生を歩んだ竹鶴。その原動力となったバイタリティと、時代を見通す先見性はどこから生まれたのか。再放送を機に、実際の竹鶴政孝の足跡をたどってみたい。

竹鶴政孝は1894年、広島県賀茂郡竹原町(現・竹原市)で父・敬次郎、母・チョウ夫婦のもとに生まれた。生家は享保18年(1733年)から続く老舗の造り酒屋「竹鶴酒造」である。政孝は杜氏たちが米を洗い、麹をつくり、醪を仕込む姿を間近で見て育った。遊び場は酒蔵だ。新酒をしぼる時期には“新酒のたち”の祝いを指折り数えて待ち、春になると酒袋が置かれた広場でかくれんぼをした。

兄二人が嫌がり、酒蔵の後継者に

父は酒づくりに厳しい人で、「酒は、つくる人の心が移るもんじゃ」を口グセとしていた。政孝は後に「酒づくりのきびしさは、いつのまにか父を通して、私の血や肉になっていたようである」と自伝『ウイスキーと私』(NHK出版)で振り返っている。

ドラマでは4人兄弟として描かれたが、実際には四男五女の9人兄弟で、政孝は三男。長男、次男が家業を継ぐ気がなかったため、政孝に白羽の矢が立った。とはいえ、不思議な導きもあった。少年時代はかなりの暴れん坊で、8歳の頃には階段から転がり落ちて鼻を強打。本人は後年、「人が感じない“におい”を感じるようになり、のちに酒類の芳香を人一倍きき分けられるようになった」(同)と回想している。

当初は「酒屋という古めかしい商売には抵抗を感じ」ていた政孝だが、大阪高等工業学校(現・大阪大学工学部)醸造科へ進学。在学中にウイスキーに魅せられると、先輩・岩井喜一郎の伝手で大阪の摂津酒造を訪ね、阿部喜兵衛社長に直談判。卒業前の“押しかけ入社”で洋酒づくりの道に飛び込んだ。

社長命令でスコットランドへ渡る

何でも吸収しようと意気込む政孝は、蒸留のベテランから「お前には、まだ早い」「学校出になにができるか」とうるさがられるほどだったが、その姿勢が認められ、入社早々に洋酒関係の主任に抜擢される。12月の徴兵検査では「アルコールは火薬製造に必要」との理由で乙種となり、徴兵を免れた。すると阿部社長から特命が下る。スコットランドへ渡り、本場のウイスキー製造技術を学んでこい、と。

息子の帰りを待ちわびていた両親は落胆したが、阿部社長が広島まで足を運んで説得。家業を親類に譲ることを決め、かくして24歳の青年は前人未到の使命を背負って1918年、海を渡った。

政孝のバイタリティは海の向こうでますます発揮される。今のように移動手段がなかった時代、政孝がアメリカ経由で英国を目指す途中、第1次大戦のさなかで渡航許可が下りず、足止めを食らう。しかし、下宿屋の主人の入れ知恵でウィルソン大統領に電報を送り、翌朝手続きが完了。軍用船で大西洋を渡り、リバプールに到着した。

スコットランドのエディンバラ大学
スコットランドのエディンバラ大学 ※写真はイメージです
大学で挫折し「苦シイ洋行ダナー」

最初に訪れたエディンバラ大学には理学でウイスキー研究ができる専攻科がなかったため、グラスゴー大学とロイヤル工科大学(現・ストラスクライド大学)を訪ね、聴講生として化学を学びながら、図書館でウイスキーに関する書物を読み漁った。だが座学には限界があった。教室で得られる知識は、すでに日本で習得した内容と大差なかったのだ。

政孝は焦った。異国の地でたった一人、言葉も十分に通じない。当時繰り返し読んだというネットルトンのウイスキーの本には「苦シイ洋行ダナー」「毎日が苦しい、しかし頑張り耐えねばならぬ」と日本語で走り書きが残されている。くじけそうになる自分を、政孝は必死で奮い立たせていた。

転機は1919年4月に訪れた。政孝は意を決してスペイサイド地方へ向かい、蒸溜所の門を叩いて回った。紹介状もなく、ただ「学ばせてほしい」という一念だけを武器に。その執念が実を結び、ロングモーン蒸溜所が受け入れを許可してくれた。

本場の蒸溜所で働き、技法を書き取る

ここでの日々はまさに“修行”だった。大麦を発芽させる製麦から、醗酵、蒸溜、樽での熟成まで、すべての工程を自らの手で体験する。銅製の蒸溜釜を磨き上げ、職人でさえ嫌がる釜の内部掃除を買って出たのは、釜の構造を知りたい一心からだ。この経験が、帰国後に自らポットスチルを設計する際に生きてくる。

ウヰスキーの蒸留所
※写真はイメージです

7月にはエディンバラ近郊のボネスに移った。ここにはカフェ式連続式蒸溜機が稼働するグレーンウイスキーの工場があった。ブレンデッドウイスキーに欠かせないグレーン原酒の製法を学ぶためだ。しかしこの工場ではノートを取ることが禁じられていた。政孝は一計を案じる。ポケットに小さな紙片と短い鉛筆を忍ばせ、トイレに立つたびに見聞きしたことを素早く書き留めた。夜、下宿に戻ってから記憶を辿り、詳細なノートにまとめ直す。この地道な積み重ねが、後に「竹鶴ノート」と呼ばれる歴史的資料となる。

1962年、英国のヒューム外相が来日した際、「ひとりの青年が万年筆とノートでウイスキー製造技術の秘密を盗んでいった」とユーモアを込めて語っている。竹鶴政孝への最大級の賛辞である。あの孤独な留学の日々が、日本のウイスキー文化の礎となったのだ。

裕福な家の娘リタと運命の出会い

ところで、孤独な異国での奮闘が続くなか、政孝がホームシックに陥る頃、運命の出会いが訪れる。1919年のことだった。

グラスゴー大学医学部に通っていたエラという女子学生から、思いがけない頼みごとをされる。「弟のラムゼイが柔道に興味を持っている。教えてもらえないか」。忠海中学時代に柔道部で主将を務めた政孝は、快くエラの実家であるカウン家を訪ねた。

そこで出迎えてくれたのが、エラの姉リタだった。本名はジェシー・ロバータ・カウン。父は医師で、裕福な家庭に育った女性である。政孝は『ウイスキーと私』でこう振り返っている。「大きな、きれいな目で私を見つめていた女性がいた。それがリタだった」

リタもまた、この日本人青年に心惹かれていく。「ひとりで勉強していることへの同情が次第にロマンスに進んだ」とリタは後に語った。異国で孤軍奮闘する姿が、彼女の心を動かしたのだろうか。二人は文学や音楽について語り合い、政孝が持参した鼓とリタのピアノで合奏することもあった。政孝がフランスへワイナリー視察に出かけた折には、帰りに香水を買い求めてリタに贈った。リタは返礼として、スコットランドが誇る国民的詩人ロバート・バーンズの詩集を手渡した。

政孝とリタはグラスゴーで結婚

そして迎えた1919年のクリスマス。カウン家でのパーティーで、思いもよらない出来事が起きる。デザートのクリスマスプディングを切り分けたとき、政孝の皿には銀貨が、リタの皿には指貫が入っていたのだ。スコットランドには古くからの言い伝えがある。銀貨を当てた男性と指貫を当てた女性は、やがて結ばれる運命にある、と。家族が笑いながら二人をひやかすなか、政孝とリタは目を見交わした。これは偶然ではない――そう確信したのではないだろうか。

1920年1月8日、二人はグラスゴーの登記所で結婚した。カウン家の反対により教会での挙式は叶わず、立会人はリタの妹ルーシーとその友人だけという簡素な式だった。日本の竹鶴家も猛反対したが、摂津酒造の阿部社長がヨーロッパに渡ってリタと面会し、その人柄を見極めて結婚を認めた。初夏にはグラスゴーのホテルで阿部社長やロイヤル工科大学のウィルソン教授を招き、祝宴が催された。

祝宴の後、二人は新婚旅行を兼ねてスコットランド西海岸のキャンベルタウンへ向かった。この小さな港町には、最盛期に30を超える蒸溜所がひしめいていたという。政孝はヘーゼルバーン蒸溜所に入り、モルトウイスキーの製造技術とブレンドの技法をさらに磨いた。

竹鶴政孝と妻のリタ
竹鶴政孝と妻のリタ(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
「私たちは日本へ行くべき」とリタ

リタにとって、この港町での日々は格別だった。リタは「何の心配もない、心からくつろげた日々だった」と、後に当時を振り返っている。両家の反対を乗り越え、ようやく夫婦として歩み始めた安堵感。海辺の町で過ごす穏やかな時間。それは嵐の前の静けさだったのかもしれない。

政孝はスコットランドに残ることも考えた。しかし、背中を押したのはリタだった。「あなたの夢は日本でウイスキーを作ること。私たちは日本に行くべきです」。故郷を捨てる覚悟で、リタは夫の夢に人生を賭けた。

1920年、二人は日本への帰途についた。大正時代の日本に白人の妻を連れて帰る。それがどれほどの覚悟を要することだったか。好奇の目、偏見、言葉の壁――二人を待ち受けていたのは、想像を超える苦難の連続だった。

・参考文献
『ウイスキーと私』竹鶴政孝(NHK出版)、『ヒゲのウヰスキー誕生す』川又一英(新潮文庫)、『リタの鐘が鳴る』早瀬利之(朝日文庫)、『リタとウイスキー』オリーブ・チェックランド(日本経済評論社)、ニッカウヰスキー公式サイト

田幸 和歌子(たこう・わかこ)
ライター
1973年長野県生まれ。出版社、広告制作会社勤務を経てフリーライターに。ドラマコラム執筆や著名人インタビュー多数。エンタメ、医療、教育の取材も。著書に『大切なことはみんな朝ドラが教えてくれた』(太田出版)など

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