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千利休のひ孫「一翁宗守(いちおうそうしゅ)」侘び茶を極めた、その数奇な一生

  • 2025.12.9
撮影=森山雅智

千利休のひ孫にあたる一翁宗守。利休のみならず、父宗旦らを追って家の再興に尽力し、 自らの茶の道を切り開いていきました。その数奇な一生と教えを繙きます。

このたびの法要で祭壇の上に掲げられた一翁宗守像の掛軸「一翁宗守画像真伯宗守賛」(官休庵蔵)。現在までに唯一伝わる一翁宗守の姿を描いた画。 撮影=森山雅智

利休のひ孫に生まれて。巧者に倣った茶人としての歩み

一翁宗守とはどのような人物で、のちの「官休庵(かんきゅうあん)」の茶にどのような影響を及ぼしたのでしょうか?歴史を繙くと、異色の生涯であったことがわかります。

利休が秀吉によって切腹させられると、千家は断絶し一家離散となりました。一時は途絶えた家の再興に尽力したのが息子の少庵と孫の宗旦でした。宗旦は先妻との間に長男・閑翁宗拙(かんおうそうせつ)と次男・一翁をもうけ、後妻との間に三男・江岑宗左(こうしんそうさ)と四男・仙叟宗室(せんそうそうしつ)が生まれました。一時期鬱を患っていた宗旦は、自身は仕官できずに経済的な不安を抱えており、息子たちの就職先を案じていました。

一翁は、時期は不明ですが若いころに蒔絵(まきえ)屋の吉岡家に養子に出されます。吉岡家は江戸にも店を構える大店で、一翁はたびたび江戸にも滞在しました。一翁在判の塗りの棗が数多く残っているのも、その経歴と関係がありそうです。しかし茶の湯から完全に離れたわけではありません。45歳のときに茶室を造ったことが記録に残っており、これが「官休庵」の源流かと考えられています。

同時期に吉岡家を隠居し、大徳寺の玉舟宗璠和尚(ぎょくしゅうそうばん)のもとで得度し「宗守」の号を授かりました。この「宗守」は以後、武者小路千家の歴代家元が襲名するならわしとなっています。

権力と近しかった利休とは異なり、「乞食(こじき)宗旦」と異名をもつほど徹底して質素に努めたのが宗旦で、その侘び茶を継承し極めようとしたのが一翁でした。宗旦が没した年に一翁は千家に復し、少なくともこのころには吉岡姓ではなく千宗守と名乗っていました。6年後、60歳のときに高松松平家の茶道指南役に就き、より広く利休の茶を伝えていきました。

竹茶杓 銘「お児(ちご)」一翁作 共筒(個人蔵)。一翁が茶杓も筒も自作。半身の黒い部分を稚児の下げ髪に見立てたか。 撮影=森山雅智


一翁の弟子筋がまとめた『千宗守覚書』の伝書には、一翁の茶の湯観に触れて「茶の湯には特別な習いはなく、茶の湯の巧者について学ぶことが肝要だ」と書かれています。利休ならびに宗旦が体現した侘び茶は文字や言説を通して学ぶものではなく、心から心へと継承されるものだと一翁は述べているわけです。

茶の家に生まれながらも数奇な運命を歩み、晩年になって己の茶を切り開いた一翁。自ら名乗った「似休斎(じきゅうさい)」の号からは利休への敬慕がうかがえます。利休没後80年余りが経った当時、多くの流派が創設される分派の時期において、利休正風の茶の湯を継ぐという意識を、一翁はことのほか強くもっていたのでしょう。

利休が長次郎に作らせた赤樂茶碗(あからくちゃわん)「木守」を一翁が写したもの。オリジナルは関東大震災で焼失し、破片を用いた復元品が残るのみ。内箱に一翁筆の書き付けがある。 撮影=森山雅智

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(12/10公開予定)

【参考文献】一翁宗守を知る

『千一翁宗守 宗旦の子に生まれて』
木津宗詮著/宮帯出版社

Hearst Owned

武者小路千家家元教授であり、木津家七代の著者が一翁に関する新事実を突き止め、数少ない資料を丹念に照会しながら、謎の多い一翁の生涯をつまびらかに伝える渾身の評伝。茶道文化学術奨励賞受賞。

撮影=森山雅智 取材・文=松原麻理 協力=佐藤文彦『起風』編集部 編集=八木あきほ、西原 史(ともに婦人画報編集部)

『婦人画報』2026年1月号より

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