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「もてあそばれた悔しさにめちゃくちゃに心乱れて」16歳の舞妓が恋人のために左手の小指を詰めた衝撃事件

  • 2025.12.6

大正時代、今でいう芸能人のように注目された芸者たちがいた。ノンフィクション作家の平山亜佐子さんは「ブロマイド写真が多数残る照葉は、16歳のとき、左手の小指を詰めるという行動に出て、世間を揺るがすスキャンダルになった」という――。

※本稿は、平山亜佐子『戦前 エキセントリックウーマン列伝』(左右社)の一部を再編集したものです。

大正の芸者ブームでも異彩を放った「照葉」

日露戦争後から大正にかけて芸者が持て囃はやされた時代がある。「酒は正宗まさむね、芸者は萬龍まんりゅう」と謳われた萬龍、絵葉書に仕立てた洋装姿のブロマイドが飛ぶように売れた八千代、三越のポスターが有名な栄龍、森鴎外の小説『百物語』のモデルにもなったぽん太など、東西の美妓たちが雑誌のグラビア、美人コンテスト、夜の料亭で華を競った。どんなに人気があってもいつかは上がる(引退する)のが芸者の運命。運が良ければ華族の妻に収まるが、行方のわからなくなった者も多い。そんな一世を風靡した芸者のなかでもとくに波瀾万丈だったのが照葉てるはである。

照葉の本名は高岡たつ、1896(明治29)年4月22日、大阪南区上本町の鍛冶職人のもとに生まれた。母は2歳のときに亡くなり、父は飲んだくれというわけで7歳で叔母に預けられた。叔母の稼業は弁当の仕出し屋で、花見の時期には奈良の興福寺に掛け茶屋を出す。1年で一番の稼ぎ時であるため、たつも学校を休んで手伝った。小さなたつは茶屋でも人気者だった。

この頃、叔母の趣味で舞を習っていたが、ある日突然やってきた父が舞の師匠に相談し、本人の知らぬ間に舞妓にさせる話をまとめてしまった。このとき連れて行かれたのが、後々までたつが常どんと呼んで頼りにした富田屋(貸座敷)の男衆(芸者の世話人)、橋本常次郎である。

たつは5代目尾上菊五郎の愛妾で大阪の宗右衛門町でお茶屋をしている辻井お梅という女性のところに見習いにいくが、易で見てもらったら相性が悪いと一方的に言われ、貸座敷兼置屋の加賀屋の養女となった。このとき養育料の名目で父に払われたたつの値段は250円だったという。

美貌で評判に、15歳で舞妓デビュー

たつの「姉さん」(先輩)になったのは当時もっとも隆盛を誇った名妓の1人、八千代。とはいえ風呂のお供から化粧の水の用意までさせられるばかりで、人気芸者らしく八千代はたつを歯牙にもかけなかった。

たつはときどき見習いとして宴席に出たが、暇さえあれば禁じられていた『文藝倶楽部』などを手にとった。芸者の悲恋物語などを読んでぼんやりと恋に憧れた。

15歳のとき、いよいよ千代葉として舞妓デビューとなった。髪型も着物もすべて京都風につくり、お披露目の日は朝から23時まで座敷を回って、ついてきた常どんをふらふらにさせた。

また「ご祝儀の式」の費用は本来は姉さんの八千代の旦那が負担するところを富田屋が自前で出したほど、千代葉に力を入れていた。実際、衣装をつけた千代葉は見違えるほどに美しく、日本画から抜け出てきたようであった。

照葉と恋仲になった歌舞伎役者・二代目市川松蔦(1886~1940)
照葉と恋仲になった歌舞伎役者・二代目市川松蔦(1886~1940)(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
姉分の八千代が照葉にしたひどい仕打ち

宴会予約は引きも切らずやってきた。それを面白く思っていなかった姉さんの八千代は、デビュー1カ月半後の千代葉を呼び出して、旅館に連れて行った。待っていたのは八千代の舞妓時代の旦那。八千代は千代葉に囁いた。

「分かってるやろ……あんたもあれだけ見習いもしてきているのやさかい、舞妓に出たらどう、というぐらいの覚悟はしているやろ。姉ちゃんら、あんたの年より1年も前に、役目をしたんだっせ。またあんたに、こうして役目をさすのが、あての役目やさかいに、これだけは聞いてもらわんと、あての役目が済まんねん」(『黒髪懺悔 照葉手記』)。

こうして突然、千代葉はほとんど知らない男性相手に「役目」をさせられることとなった。まだ月経も見ない年齢だった。後に、八千代が加賀屋の義母も常どんも通さずに勝手に決めてしまったと知った。

そんなことがあってから、千代葉は警戒するようになった。幸い、人気があったので我儘わがままも通すことができ、紳士的な旦那らとだけ接していたものの、先方が処女だと思いこんで優しく接していることを知ってつらかった。

羽子板を持つ大阪の芸者・照葉。1920年に作られた絵葉書
羽子板を持つ大阪の芸者・照葉。1920年に作られた絵葉書(写真=Flickr/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
歌舞伎役者と恋に落ちるが、自由はなかった

千代葉がはじめて自分から好きになったのは歌舞伎役者、2代目市川松蔦しょうちょう、お座敷で会って以来の一目惚れだった。しかし、常どんは若くて器量の良い鼈甲問屋の音峰宗兵衛という旦那を押し付けてきた。千代葉は気が進まなかったが、別の旦那が落籍しようと目の色を変えてきたので音峰の座敷に出るようになる。2人の噂はあっという間に広がり、舞妓のくせに生意気だと芸者や仲間の舞妓にも無視された。松蔦は東京に帰ってしまい、四面楚歌の千代葉の孤独を埋めたのは音峰だった。音峰には妻があったが千代葉のために離婚し、ゆくゆくは妻にすると約束した。

しかし、幸せは長く続かなかった。音峰と千代葉が仲良く別府に旅行した際、千代葉が鏡袋に入れたまますっかり忘れていた松蔦の写真を音峰に見つかった。気を悪くした音峰はそれきり帰ってしまい、年末にも遊びに来なかった。

明けて1月3日、千代葉が客と飲んでいると音峰が他の座敷にいることがわかった。しかしいつまで経っても千代葉を呼ばない。夜更けに駆けつけてみると他の客といたことを責められ、浮気者と謗そしられて縁切りを言い渡された。千代葉はやましいことはないと言ったが聞き入れられず、玉突きに出かける音峰をなすすべもなく見送った。

なんとか身の潔白を証明したいと思った千代葉は指を詰めることを思いついた。

浮気していないと証明するため左手の小指を

以前歌舞伎の「五大力恋緘ごだいりきこいのふうじめ」で恋人に誤解された菊野という女が指を詰めるシーンを思い出したからだった。この時の気持ちを後に「唯ただ、自分の自尊心を傷きずつけられた――、人格を見損なわれた――、無い罪を被せられた――、と云う憤激と一途に欺かれた、もてあそばれたと云う口惜しさに常識も分別もめちゃくちゃに乱れてしまって(中略)富田屋の千代葉は舞子でも斯こんなものだと世間に示してやりたい……(中略)と幼稚な子供心にも憤怒の情を抑えかねました」(『照葉懺悔』)と記している。

仲居もおかみさんも寝静まり、1人になった千代葉はそっとおかみさんの鏡台から剃刀かみそりを取り出した。そして出血を防ぐために三味線の弦を1本切って左の小指に強く巻いた。洗面所に忍び込むと剃刀を静かに左の小指の上に乗せ、手元が狂わないよう舞の扇の「要返し」の持ち方で上からハンカチをのせて右手で叩きつけた。切れたかわからなかったので3、4回叩きつけるとハンカチが血に染まり、見てみると剃刀が指の真ん中まで埋まっていた。

指を詰めたことで良くも悪くも有名に…

すぐに切れた指をハンカチで包んで袂に入れ、タオルで巻いた手を袖に隠して音峰のいる玉突き場に行くと「これあんたにあげまっさ」と男の手に指を掴ませて飛び出した。驚いた音峰が追いかけてきてすぐに病院に連れていかれたが指も音峰も再びくっつくことはなかった。

大阪に居づらくなった千代葉は、常どんの手引きで東京新橋の新叶屋に5年3000円で預けられた。その際、富田屋の籍を抜かれ常どんの養女にされた。姉さんの八千代が指を詰めるような女は妹分にしたくないと騒いだようだった。

平山亜佐子『戦前 エキセントリックウーマン列伝』(左右社)
平山亜佐子『戦前 エキセントリックウーマン列伝』(左右社)

かくて1911(明治44)年7月、千代葉は半玉(舞妓の関東での呼び名)の照葉となった。

この時点でもまだ16歳だった。

男のために指を切った半玉を見ようと照葉の人気はうなぎのぼりになった。ブロマイドがよく売れ、複製が出回ったために撮影時の話の聞き取りに照葉が裁判所に呼び出されるほどだった。

雑誌には1回の座敷に2000円を払った某、1500円を払った某と書き立てられた(「照葉の引っ張り凧」)。落籍の話はいくつもあったが、照葉は妾では嫌だった。正妻になれなくても、せめて妻のない男に身請けされたいと強く願った。

平山 亜佐子(ひらやま・あさこ)
文筆家
文筆家、挿話収集家。戦前文化、教科書に載らない女性の調査を得意とする。著書に『20世紀破天荒セレブ ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会)、『明治大正昭和 不良少女伝 莫連女と少女ギャング団』(河出書房新社、ちくま文庫)、『戦前尖端語辞典』(編著、左右社)、『問題の女 本荘幽蘭伝』(平凡社)、『明治大正昭和 化け込み婦人記者奮闘記』(左右社)など。

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