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関係した男たちは誰も彼女を救わなかった…美貌ゆえ妾にされ、束縛され続けた芸者が取った「最終手段」

  • 2025.12.6

大正の華やかな時代から戦中・戦後も生き抜いた女性がいる。ノンフィクション作家の平山亜佐子さんは「16歳で恋人のため小指を詰めた芸者の照葉は、その後も男たちに翻弄されたが、平成6年まで生きた」という――。

※本稿は、平山亜佐子『戦前 エキセントリックウーマン列伝』(左右社)の一部を再編集したものです。

羽子板を持つ大阪の芸者・照葉。1920年に作られた絵葉書
羽子板を持つ大阪の芸者・照葉。1920年に作られた絵葉書(写真=Flickr/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
指を詰めた後“ソクバク男”の妾にされる

16歳の秋になった頃、独身で資産家で遊び方も綺麗な江藤恒策という旦那がついて1年間の贅沢三昧ぜいたくざんまいをさせてくれた。ところが気晴らしに箱根に行った時、江藤から実は結婚していると告げられる。

さらに、仕事が軌道に乗るまで今までのように気ままにさせておけないから妾として落籍したいとのこと。照葉が断ると、いきなり鋏はさみで照葉の髪を切った。「髪がなければお前は芸妓をやめるだろう」。なすすべもなく花街から足を洗い、あれほど嫌だった妾生活に入った。男の異常な束縛に6年間耐え忍び、やっと逃れた時には23歳になっていた。

1919(大正8)年、戸籍上の親である常どんの元に戻った照葉は大阪南地で再び芸者に出た。ブロマイドのおかげか人気は衰えておらず、あちこちの座敷をこなす日々。

大阪の株仲買人と結婚、アメリカへ渡る

そこで出会ったのが北新地の若き株仲買人、小田末造だった。洋行帰りでハイカラだが自慢もせず、賑やかで陽気な性格に惹かれた。小田は女房になってくれたら新婚旅行にアメリカに連れて行くと言う。照葉は話を反故にされたら即離婚すると約束をして結婚した。

数カ月後、照葉は小田とアメリカ行きの船に乗っていた。

サンフランシスコやロサンゼルスを訪れ、ハリウッドでは早川雪洲と懇意になった。小田が帝国キネマ演芸株式会社の重役になったためなんとか雪洲を取り込もうと企んだが、とはいえ照葉と仲良くなられては困ると思い、彼女をホテルに閉じ込めて、自分だけが毎晩遊びまわっていた。

アメリカ人の少女と恋に落ち、ホテルで同棲

退屈になった照葉は6月から郊外の女学校の寄宿舎に入ることにした。

学校では英語とダンスを習っていたが、生徒の1人、ヒルデガルドという少女と恋仲になる。

タバコが見つかってふたりともが追い出されたのを幸いに、ホテルで同棲を始めた。しかしそれも束の間、小田に見つかり強制的に帰国することになった。

9カ月のアメリカ生活を終えて帰ると新聞や雑誌は先を争って小田照葉夫人の帰朝談を載せた。照葉は離婚の機会を窺っていたが、姑が同居することになり、反対に夫はほとんど家に寄り付かず生活は辛くなるばかり。さらに1921(大正10)年の正月、突然夫の命令で帝国キネマの映画『愛の扉』に主演することになった。しかも28歳なのに18歳の役だった。

夫に強引に映画女優にされ自殺未遂

照葉は嫌がったが、小田は妻を徹底的に利用するつもりだった。演技の経験もないため何度もNGを出したが、それでも家にいるよりましだった。結果、映画は大入満員、照葉は家出を繰り返し、好きでもない俳優に身をまかせた後に箱根に逃げることまでしたがその度に連れ戻され、自殺未遂を起こした。

1923(大正12)年12月、小田はいよいよ当たらなくなった相場の仕事に見切りをつけ、早川雪洲と組んで映画会社を起こそうと思いつき、照葉とともにサンフランシスコ、ニューヨーク、ロンドンへ旅立った。ロンドンで合流した雪洲が公演の都合でパリに行くというので移動、小田はひとりニューヨークに行くと言い残して照葉をパリに置いておいた。

映画スター・早川雪洲(1889~1973年)の宣伝写真、1918年
映画スター・早川雪洲(1889~1973年)の宣伝写真、1918年(写真=Fred Hartsook/Imperio Retro/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

どうやら愛人に会いに行ったようだったが、おかげで照葉はやっと羽を伸ばすことができ、パリで見知らぬ男性とアバンチュールも楽しんだ。何も知らない小田が5カ月ぶりに戻って来ると一緒に帰国の途についた。

「雪洲映画プロダクション」がどうやら軌道に乗り、小田は相場も再開、東京と大阪を行き来するようになり、照葉の見張りに黒龍会(右翼団体)関係の青年、萩原止雄をつけた。これが仇となり、ふたりは出奔、大阪に住みついた。お茶屋の主人からの誘いで勝手知ったる宗右衛門町でバーを開業。1925(大正14)年晩秋にやっと離婚が成立した。

女優としては評価されず、自伝を出すが…

萩原がバー勤めを嫌ったために、照葉は今度は自らの意思で出雲照葉という名で松竹映画『奔流』に出た。しかし評判が悪かったためにその後の仕事がないので、東京日日新聞記者に相談。

書きものを勧められ『サンデー毎日』や『週刊朝日』に原稿を書き、作家の村松梢風を紹介されて自伝『照葉懺悔』も出した。また、中央公論の嶋中雄作に借金を頼み、なんとか食い繋いでいたが、一向に働こうとしない萩原にだんだん愛想が尽きてきた。

大阪に仕事のあてでもあるかと出かけたが、神戸でまたもや芸者になるしかなかった。

1928(昭和3)年2月にお披露目を済ませたが、萩原が訪ねてきてしまい、男がいるとわかると置屋の主人に脅されて襲われそうになった。照葉は着の身着のままで逃げ出して、大阪の知り合いのお茶屋に駆け込んだ。そこではちょうど道頓堀の中座の前にバーを1軒買ったからマダムにならないかとの依頼。照葉は2つ返事で承諾した。

再び芸者→バーのマダム→故郷の奈良へ

同年6月15日に「テルハの酒場」がオープン。大阪となれば顔の広い照葉、客は絶え間なくやってきて店は大繁盛した。しかし10月のある日、客に嫉妬した萩原が店で暴れたため、またもや照葉は着の身着のままで逃げ出して奈良の従兄弟夫婦の家に身を隠した。

萩原が方々を探しているという噂を聞き、従兄弟夫婦宅の敷地内の奥の蔵に身を潜めて暮らしていたが、とうとう突き止められた。萩原は10日間母屋に通い、「一生奈良にいる気ならそれでもいいが、その代わり奈良を一歩でも出たら承知しない」と言って1000円用意すれば帰ると言い捨てて去った。照葉は知り合いの記者に相談し、萬里閣書房(後に自伝を出版)に用立ててもらって萩原に返した。しかし、この1件でつくづく我が身を反省した。

照葉は従兄弟夫婦の敷地内の蔵で質素に生活をしながら、俳句を覚えて「ホトトギス」の同人になった。また、嶋中雄作から毎月50円の原稿料を出すから何か書きなさいとの申し出を受け、原稿を書き始めた。置屋で嫌がられた文芸趣味がこんなところで役立った。近所の観音様に参拝することも増え、出家について考え始めた。

ついに出家、「平家物語」の祇王寺を再興

1934(昭和9)年、照葉は奈良県檀原市久米町にある久米寺で得度し、高岡智照尼となった後、無住でひどく寂れて檀家もいない祇王寺に入った。その際にずっと近くにいた又従兄弟の高島清一という男もともに入庵、高島は寺男となった。口さがのない人たちは色男だと噂したが、そのような関係ではなかった。

智照は篤志家の喜捨や短冊の揮毫などで生計を立て、元鼈甲職人の高島は茶筅を作り全国に顧客を持った。祇王寺は拝観料をとらなかったが、観光客が仏間の障子を破ったり智照にカメラを向けたりすることが増え、1964(昭和39)年からとるようになり、生活が安定した。

出家し高岡智照となった照葉
出家し高岡智照となった照葉(写真=『アサヒグラフ』1948年10月13日号より/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
早く世を去りたいと願うが、平成まで生きる

1973(昭和48)年11月に高島が死去。11年後に出版された『花喰鳥 京都祇王寺庵主自伝』のあとがきには「70歳で死ねたら……80歳で死ねたら……今年こそは、今年こそはと頭で思うだけ」と書いたが、それから10年生きて1994年(平成6年)10月22日に98年の天寿を全うした。

なお、1938(昭和13)年の夏、突然萩原が祇王寺に現れた。白い麻の服を着こなしてさっぱりとした笑顔で「あの時は、いろいろとあなたにご迷惑をおかけしました。お元気そうで一安心です」と言い、当時貴重な食料品や石鹸を置いていった。その後、出世して実業家になったという。

平山亜佐子『戦前 エキセントリックウーマン列伝』(左右社)
平山亜佐子『戦前 エキセントリックウーマン列伝』(左右社)

また、照葉が唯一結婚した相場師の小田は1942(昭和17)年、よれよれの国民服を着てこれまた祇王寺にやってきた。出兵前の挨拶に寄ったとのことで「どうせ野たれ死にするなら、南方へ行って好きなアメリカ人に撃たれて死にたい、今日は今生の別れに来た」という。戦後、小田の上官より小田がニューギニアで戦死したこと、生前「わしの魂のいく所はたつ子の傍以外にない」と話していたことを知らされた。

照葉は常に男に悩まされ振り回されてきたが、男運がないというよりも、近寄る男を狂わせてしまうのかも知れない。

そのように生まれついた女が安らぎを得るためには尼になるしかないのだろうか。なぜ女が頭を丸めなければならないのか。

男性中心社会の限界として、なんとなく釈然としないものがある。

平山 亜佐子(ひらやま・あさこ)
文筆家
文筆家、挿話収集家。戦前文化、教科書に載らない女性の調査を得意とする。著書に『20世紀破天荒セレブ ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会)、『明治大正昭和 不良少女伝 莫連女と少女ギャング団』(河出書房新社、ちくま文庫)、『戦前尖端語辞典』(編著、左右社)、『問題の女 本荘幽蘭伝』(平凡社)、『明治大正昭和 化け込み婦人記者奮闘記』(左右社)など。

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