1. トップ
  2. 恋愛
  3. だから92歳まで現役編集者として毎日出社した…「とと姉ちゃん」のモデル大橋鎭子が遺したラストメッセージ

だから92歳まで現役編集者として毎日出社した…「とと姉ちゃん」のモデル大橋鎭子が遺したラストメッセージ

  • 2025.12.4

高畑充希主演の朝ドラ「とと姉ちゃん」(NHK、2016年制作)の再放送が終了する。ライターの田幸和歌子さんは「同作では出版にはなんの関わりもなかったヒロインが雑誌を創刊し成功していく様が描かれた。モデルになった『暮しの手帖』社の創業者・大橋鎭子さんは老年まで現役を貫き93歳まで生きた」という――。

『暮しの手帖』創刊号、1948年9月
『暮しの手帖』創刊号、1948年9月(写真=暮しの手帖社/花森安治の装釘世界/PD-Japan/Wikimedia Commons)
ヒロインのモデルになった出版社社長

再放送中の朝ドラ「とと姉ちゃん」が終盤を迎えている。雑誌『暮しの手帖』創刊者の大橋鎭子(1920年3月10日〜2013年3月23日)の人生をモデルに描いた同作は、高畑充希、相楽樹、杉咲花が演じる三姉妹の絆と自立を軸に描かれた物語となっている。

ドラマではヒロイン・常子が口グセの「どうしたもんじゃろのぉ」を言うと、誰かが助けてくれる展開が多いが、実際の大橋鎭子は「お節介」を自認し、人と人とのつながりを大事にする人だったようだ。史実から大橋鎭子の人生を振り返ってみたい。

大橋鎭子は1920年3月10日、父・武雄と母・久子夫婦の長女として東京・麹町に生まれる。自伝『「暮しの手帖」とわたし』(暮しの手帖社)によると、父が北海道の工場長になったことから、1歳で北海道に移住。北海道では豊かな自然の中、近所の子ども達の「ガキ大将」としてのびのび過ごしていたが、次女・晴子、三女・芳子が生まれた後に武雄が肺結核を患ったことで、東京に戻ることに。武雄は仕事をやめ、一家は武雄の祖母の家で暮らし始める。

西島秀俊が演じた父親を小5で亡くす

貧しい暮らしの中でも母は美術学校で手編みのセーターやビーズの刺繍の服を娘達にこしらえ、三姉妹は「母に守られて、まるで王女様のような思いを味わいながら」(『暮しの手帖別冊 しずこさん「暮しの手帖」を創った大橋鎭子』暮しの手帖社)幸せに過ごしていた。しかし、そんな日々は父の死で終わる。鎭子が小学5年生の時、父は鎭子を枕元に呼び、こう告げた。

「お父さんは、みんなが大きくなるまで、生きていたかった。でもそれがダメになってしまった。鎭子は一番大きいのだから、お母さんを助けて、晴子と芳子の面倒をみてあげなさい」

それが父親代わりを務める「とと姉ちゃん」の由来であり、鎭子の人生の指針となる。このいきさつはドラマでも描かれた。

小学校卒業後、鎭子は東京府立第六高等女学校に進学。ドラマではヒロイン・常子(高畑充希)が家族のために練り歯磨きを手作りするエピソードが登場するが、これは史実通り。鎭子が歯の悪い母のために歯医者に聞いて練り歯磨きを作ると、それが友達と父母の間で評判となり、一家総出で練り歯磨き「オーシー(大橋・鎭子)歯磨き」作りに邁進する。だが、支援してくれる予定だった同級生一家にトラブルが生じ、販売は中止になり、貧乏暮らしは続く。

母親や妹を養うため、キャリアを模索

鎭子は女学校を卒業すると、家計を支えるため日本興業銀行に入行する。当時は、女学校卒業後は嫁ぐのが当たり前だった時代だ。しかし、興銀では調査月報の編集を任され、その経験が後に編集者として大いに生かされることとなる。

その一方で、学びたい意欲に取りつかれた鎭子は興銀を3年で辞め、日本女子大学に進学。ところが、体調を崩し、11月に退学する。それでも鎭子はあきらめなかった。

再び活字の仕事をしたいと思い始めていた頃、新聞の求人欄で見つけた日本読書新聞社に入社。編集長の田所太郎や、後に作家となる柴田錬三郎と共に働くが、その年12月に真珠湾攻撃が起こり、日本は太平洋戦争に突入する。しかし、物資が不足する戦時中も、鎭子は砂糖や汽車の切符など、編集部員に頼まれるとあらゆるものを入手し、柴田に後に「仕事はもちろん、日常茶飯事にこれほど重宝な人間は、またとあるまいと思われる」と記されるほどだった。そこには、鎭子が知らない人にも頼み込み、徐々に打ち解け、協力して集めてもらった背景があったようだ(『暮しの手帖別冊 しずこさん「暮しの手帖」を創った大橋鎭子』)。

1945年3月10日、東京大空襲が発生。幸い大橋家には被害がなかったが、空襲に備えて広大な空き地を作るために家が取り壊され、悲しみにくれる中、それでも鎭子は防空壕の中ですでに戦後を見据え、家族のために自分は何ができるのかを考えていた。

「年が近い女性になら読んでもらえる」

最初に考えたのは、父方の祖父が営んでいた材木商。空襲で焼け出された人達には家が必要になると考えたためだが、これは女の仕事ではないと母に反対され、次に洋裁店や、当時流行りの喫茶店なども検討する。しかし、どちらも家の前を通る人だけを相手にする小さな商いであることや、競合の多さで断念し、最後に思いついたのが、「知恵を売る」仕事=本や雑誌を作って出版することだった。そこにはこんな思いがあった。

「わたしは戦時中の女学生でしたから、あまり勉強もしていなくて、何も知りません。ですから、わたしの知らないことや、知りたいことを調べて、それを出版したら、わたしの歳より、上へ5年、下へ5年、合わせて10年の世代の人たちが読んでくださると思います。そんな女の人たちのための出版をやりたいと思います」(『しずこさん』暮しの手帖社)

敗戦後に日本読書新聞は復刊されたものの、鎭子は自分で事業を始めることを考え、編集長の田所に相談すると、田所が出版に力のある人物を紹介してくれた。それが花森安治である。

鎭子のメンターとなった名編集者・花森安治

ドラマでは花森をモデルとする花山伊佐次(唐沢寿明)は、常子から編集長就任を頼まれ、頑なに断る様が描かれていた。花山は自身が作った標語が原因で多くの戦死者を出したという自責で断筆を決めていたためだ。

一方、史実では、花森は鎭子に「女の人のための雑誌を作りたい」と相談されたとき、その場ですぐ快諾している。理由は、鎭子の親孝行の思いに心打たれたことが1つ。新聞在籍時に鎭子が川端康成の原稿をとってきた現場に、たまたま花森が居合わせたこともあった。しかし、何より花森には心に決めた強い思いがあった。花森は「ひとつ約束してほしいこと」として、明確な条件を打ち出している。

「もう二度とこんな恐ろしい戦争をしないような世の中にしていくためのものを作りたいということだ。戦争は恐ろしい。なんでもない人たちを巻きこんで、末は死にまで追い込んでしまう。戦争を反対しなくてはいけない」(『「暮しの手帖」とわたし』)

花森は大政翼賛会の宣伝部にいた経験があり、自らが戦争動員の装置の一部だったことを痛烈に自覚していた。「欲しがりません 勝つまでは」を一般応募作品から選定・採用したのも花森だった。『花森安治の仕事』(酒井寛、暮しの手帖社)では、大橋の依頼を受けたときの花森の返答が、こう綴られている。

「こんどの戦争に、女の人は責任がない。それなのに、ひどい目にあった。ぼくには責任がある。女の人がしあわせで、みんなにあったかい家庭があれば、戦争は起こらなかったと思う。だから、君の仕事に、ぼくは協力しよう」

『暮しの手帖』創刊者の花森安治(左)と大橋鎭子
『暮しの手帖』創刊者の花森安治(左)と大橋鎭子(画像=雑誌『暮しの手帖』プレスリリースより)
着物を「直線裁ち」する洋服を提案

ドラマの表現は比較的マイルドで、「反戦」の思想はあまり描かれていないが、花森にとっては『暮しの手帖』は戦争への贖罪の雑誌だったのだ。

1946年、鎭子は花森、妹の晴子・芳子、横山啓一とともに銀座に「衣装研究所」を設立。鎭子が社長に、花森が編集長になり、『スタイルブック』を刊行する。戦後すぐは「食」も「住」も手に入らない中、「衣」だけはタンスに昔からの着物があるだろうと考えたためだ。

東京帝国大学で美学を専攻した花森がデザインを手掛け、鎭子たち三姉妹と母・久子が着物をほどいて「直線裁ち」の洋服を作り、着て、花森がその姿を写生してスタイル画を描き、文章を書き、表紙も型紙も全て作る。この家庭内の手作りのような『スタイルブック』は、売れに売れた。1948年にはそこに「食」「住」を加え、新しい雑誌『美しい暮しの手帖』(5年後に『暮しの手帖』と改題)が誕生する。当時の婦人雑誌は、スターが誌面を飾るものが多かった中、「ふつうの人々の暮らし」に寄り添う同誌は、まだまだ戦争の傷跡が生々しい時代の多くの女性達に受け入れられていった。

食パン4万枚を焼く商品テスト

ドラマでは、常子たちが発行する雑誌『あなたの暮し』が商品試験を実施し、トースターなどの製品を徹底検証する様子が描かれた。試験で酷評されたメーカーからの嫌がらせや批判が新聞記事にまで拡大し、常子たちは商品試験に不正がないことを証明するために公開試験を行うというドラマチックな展開もあった。

しかし、実際の『暮しの手帖』の商品テストは、ドラマをはるかに凌駕する過酷さだった。トースターの商品テストでは食パン4万3088枚を実際に焼き続け、その膨大なトーストを積み上げた写真を掲載。石油ストーブの実験では花森の指図でわざとストーブを倒して発火させ、ベビーカーでは100km歩行して耐久性を検証し、配線器具ではプラグを5000回にわたり抜き差しを繰り返した。フライパンや魚焼きアミのテストでは1カ月間、朝から晩までキャベツや菜っ葉を炒め続け魚を焼き続け、男子靴のテストでは35人の男性モニターに細かくうるさい条件下で1年間1日も欠かさず履き通してもらうなど、大変な手間と時間と費用をかけている。

焼き色の異なる2枚のトーストと、焼いていない食パン
※写真はイメージです
誰もが認めた鎭子のマネジメント能力

『暮しの手帖』の最大の特徴は、「広告を一切とらない」という姿勢にあった。スポンサーに左右されず、企業の顔色を窺わず、生活者目線の批評を貫くこと――その理想を守るため、経営は常に厳しく、職員の生活は相当な節約を強いられたが、花森はいっさい妥協しなかった。

花森は天才的な編集者であり、デザイナーであり、思想家だったが、それだけでは雑誌は作れない。原稿の進行管理、印刷所との折衝、配本の調整、資金繰り。花森の理想を、実際の雑誌として形にし、読者に届けるためには、経営者で編集者でもある鎭子の地道な仕事が不可欠だった。

そんな二人の関係性を象徴するエピソードがある。

昭和天皇の第一皇女に依頼した原稿

戦後、食糧難に人々が苦しむ中で「皇室はマッカーサーの特別の庇護のもとで、ゆうゆうと暮らしておられる」という噂があった。そこで、皇室が実際にどんな暮らしをしているのか綴ってもらおうと、鎭子が昭和天皇の長女・東久邇宮成子ひがしくにみやしげこへの原稿依頼を企画、花森が賛同する。

しかし、東久邇宮成子が書いた原稿に、なんと花森は「面白くもなんともない。書き直してもらいなさい」とダメ出し。それをそのまま伝えるわけにはいかず、鎭子が自分の勘違いで原稿4、5枚とお願いしたものの、本当は10枚ほど必要だったと嘘をつき、書き足してもらったものが『暮しの手帖』第5号に「やりくりの記 東久邇宮成子」として掲載されたのだった。

照宮成子内親王と盛厚王の結婚式
照宮成子内親王と盛厚王の結婚式、1943年10月18日、毎日新聞社『日本の肖像』より(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

1978年1月14日、花森安治は心筋梗塞で、66歳で急逝する。花森の遺志を継ぎ、編集長となった鎭子は、「生活者に寄り添う」姿勢を守り続け、広告を載せない方針も貫いた。

坂口健太郎演じる星野のような男性は?

ところで、ドラマでは花山という名パートナーとは別に、坂口健太郎演じる星野武蔵という植物学者を目指す帝大生との恋愛が描かれた。常子は星野からプロポーズされるが、仕事を優先して断る。その後、星野は戦争から戻ってきて、妻に先立たれ二人の子どもを連れて常子と再会するが、結局は転勤で再び別れるという切ない結末を迎える。しかし史実の鎭子は、仕事と家族を最優先に生き、生涯独身を貫いた。自著でも恋愛・結婚に関する記述は見当たらない。

その一方で、「人との関わり」を何より大切にする人でもあった。鎭子の人柄を象徴するエピソードがある。鎭子が大阪出張帰りの新幹線の中で、夕日に真っ赤に染まった富士山を見たときのことだ。

「とてもきれいだったのに誰も窓の外を見ていないの。もったいないでしょ。思わず私立ち上がって大きな声で、皆さん、赤富士です。めったに見られない赤富士ですよ、って言ったのよ。そしたら眠っていた人も本を読んでいた人もいっせいに窓の外を眺めていたわ。それで東京駅で新幹線を降りるとき、私にありがとうっておっしゃる方や握手をもとめて来る方もいらしたわ」(『「暮しの手帖」とわたし』内「今日も鎭子さんは出社です」横山泰子)

93歳で亡くなる直前まで毎日出社

著名人にも、近所の人にもタクシーの運転手にも同じように、丁寧だけどちょっと親しげな調子で「あなたねえ」と話しかけ、人だかりには必ず近づき、「何をやっているんですか」「何が面白いの」と尋ね、自分の足を使って常に「タネさがし」をしていたという鎭子。

倒れて自宅療養するようになってもその好奇心は衰えず、93歳で亡くなる1年ほど前まで毎日出社し、面白いことを探し続けた。鎭子の妹の娘・阪東紅美子氏によると、その元気の源の一つは「健脚」だったようで、自宅から15分ほどの最寄り駅までは必ず歩き、駅の階段も手すりを使わずにおりて、最後の一段を飛び、周囲をハラハラさせることもあった。

「私が元気なのは、第六(現都立三田高校)のおかげなの。とにかくよく歩かされたのよ」という自慢の健脚が奪われたのは、平成24年6月18日。昼食に出かけようと社屋を出たところで転倒し、救急車で運ばれ、1週間余り入院することとなり、それを機に外出ができなくなり、徐々に食欲がなくなり、寝たきりになってしまったのだ。

編集者として遺したラストメッセージ

しかし、自宅療養するようになっても、探求心は衰えず、分厚い外国の料理本を真剣に眺めていたというから、仕事に復活する日を夢見ていたのかもしれない。90歳を過ぎても、毎日のように編集部に顔を出し、「何かおもしろいことない?」「みなさんに喜んでいただける本を作りましょうよ」と編集部員ひとりひとりに声をかけていたという鎭子。90歳のときの肉声テープではこんな言葉が残っているという。

「何でも、やってみなければ、あたってみなければ、わからないでしょう? だめだったら、ごめんなさいって謝ればいいのよ」

亡くなるときまで、一編集者として好奇心を失わず、面白いこと探しに走り続けた人生だった。

田幸 和歌子(たこう・わかこ)
ライター
1973年長野県生まれ。出版社、広告制作会社勤務を経てフリーライターに。ドラマコラム執筆や著名人インタビュー多数。エンタメ、医療、教育の取材も。著書に『大切なことはみんな朝ドラが教えてくれた』(太田出版)など

元記事で読む
の記事をもっとみる