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踊るために「子どもが欲しい」とせがむ夫と離婚した…フラメンコに人生を捧げた「94歳の現役ダンサー」の来歴

  • 2025.11.30

94歳の今も舞台に立つフラメンコダンサーがいる。小松原庸子さんはスペインを代表する伝統舞踊フラメンコを日本で広めた立役者だ。踊るために35歳で夫と離婚し、フラメンコにすべてを捧げてきた。なぜ小松原さんは踊り続けるのか。ノンフィクション作家の黒川祥子さんが取材した――。

和と洋の踊り、演劇を経験してフラメンコに

日本フラメンコ界の創始者であり、94歳になってもなお、レッスン場に立ち、指導者としての腕を振るう小松原庸子さん。生まれは東京下町、父が三味線の常磐津の師匠という家に育つ。常磐津が子守唄であり、芸事に生きる人々の発する空気を当たり前のように呼吸して過ごした。

幼い頃には日本舞踊を学び、15歳からはバレエ団に入門して、和と洋の踊りをその身に叩き込んだ。20代は俳優座に入所し、演劇の世界に没入、舞台に立って演じるだけでなく、舞台芸術の作り手の一人としても研鑽を積んだ。

その小松原さんが一生の仕事だと確信したフラメンコに出会ったのは、29歳の時だった。来日したピラール・ロペスさんが率いる公演を見て、いっぺんに恋に落ちた。画家の夫がヨーロッパから買ってきた一枚のフラメンコダンサーのレコードを、擦り切れるまで聴いた。小松原さんがスペインに旅立つのは、必然だった。これほどまでに沸き立つ血を、抑えられるわけがない。

まだ海外旅行が珍しかった1962年、小松原さんは夫と兄に見送られ、単身で旅立ち、生活拠点をスペインに移す。フラメンコの魂を、溢れるほど浴びるため。

小松原さんは、スペインの大地から自らの“フラメンコ人生”をスタートさせた。

1962年、単身でスペインに発つ小松原さん。
1962年、単身でスペインに発つ小松原さん。
シャキシャキと音がするのは美味しい店の証拠

「最初はマドリードに滞在して、3食作ってくれる下宿屋さんに住んで、スペイン語の学校へ行きました。スペイン語なんか、何も知らなくて行っているわけだから」

スペイン語の事前学習もなく、いきなり住んでしまうほど、フラメンコへの思いが心細さや不安を凌駕していたのだ。もちろん、もともと怖いもの知らずの大胆不敵な女性でもあった。夜、好奇心に任せて、一人で初めての店に飛び込むことも頻繁にあった。

「マドリードの中心街で遅くまでやっているバルがあって、お店を覗いてみると、シャキシャキっていう音がうるさいんですよ。見ると、ムール貝の殻の音だったんです。スペイン人って、ムール貝が好きなんですが、食べたムール貝の殻を全部、床に捨てるんですよ。掃除なんかしないから、殻がいっぱい落ちてあるところは美味しい証拠。シャキシャキって、なんとも言えない音で、その印象が忘れられないですね。思わず、一人で食べに入りました。ムール貝、美味しいですよー。スペインのお料理は、なんでも本当に美味しかった。もちろん、スペイン語もずいぶんと勉強しました」

フラメンコ発祥の地、セビージャへ

フラメンコを学ぶには、やはりフラメンコ発祥の地、アンダルシアに行かなければならない。小松原さんはスペイン南部に位置するアンダルシア州の州都、セビージャを自らの本拠地とした。ここで紹介された指導者が、ビクトリア・エウハニアさん。ベティの愛称で知られた、名ダンサーだった。

「ベティ先生は、本当に美女。エリザベス・テイラーにそっくりで、踊りがものすごく上手だった。フラメンコの創始者と言われるグラン・アントニオのパートナーで、結婚で表舞台に立つのをやめて、指導だけをしていたの。『教えるのだけは、やめたくない』と夫にお願いして、認めてもらっていたんですね」

ベティ先生(右)のレッスンを受ける。
ベティ先生(右)のレッスンを受ける。

当時、日本人の生徒が3〜4人ほどいたが、彼女らは、「先生は喋ってばかりで何も教えてくれない。月謝がもったいないからやめる」、とベティ先生の指導への不満を募らせていた。

「そんなことはない。お話しされるのは、雑談ではなくて芸事の話ばかり。先生のおっしゃることを『そうだなー』、『ああだなー』って、いろいろ学ばせていただいた」と、小松原さんは受け取っていた。

カスタネットの音、手拍子の音

ベティ先生のフラメンコのどこが好きだったかを尋ねた瞬間、小松原さんは手にしていたコーヒーカップをさっと置いた。

「音、ですね。カスタネットの音、そして手拍子。カスタネットもすごくいいけれど、手拍子は、未だにベティ先生のようには叩けないですよ。あんなに素晴らしい音って、ないですよ」

半年ほどで帰るつもりが、1年、2年と過ぎた。

「ベティ先生の指導を受けて、すっかり踊ることに夢中になってしまったんです。せっかくここまできたのだから、もう少し、もう少しって、1年が2年になり、3年近くになっちゃって、兄から烈火の如く怒られて帰国しました。兄がお金を送ってくれなくなっちゃうから」

好きな人より、子どもより、フラメンコ

ひとまず帰国したものの、小松原さんはスペインに戻りたくてたまらない。なんとか、夫と兄を説得して2度目のスペイン行きを決めた。飛行機のタラップから再び見送る2人に手を振ったのは、1964年、小松原さんが33歳の時だった。

今回もセビージャへ行ったのだが、マドリードにもその名が轟く舞踊家がいると聞いて、さっそく見に行った。

エンリケ先生の迫力ある舞台。
エンリケ先生の迫力ある舞台。

「タブラオという小さいフラメンコバーで、その方が夜になると踊るって聞いたんです。行ってみると、お腹の出たおデブちゃんで足を引きずっているおじさんが、やおら立ち上がって、舞台の階段5、6段を、足を引いて上って行くんです。杖を持っていて、ギタリストに何かを喋ったなと思ってみていると、“ジャマーダ”で、床をダン、ダン、ダンって蹴ったんです。その瞬間、サーっと血の気が引きました。本当にすごかった。とにかく、気迫がものすごい。世界の色が、一瞬で変わりました。あの瞬間のことは、私は生涯、忘れられないと思います」

足が悪くても、ナンバーワンの師匠に

それが、エンリケ先生だった。子どもの頃、左足に腫瘍を患い、足を引きずって歩くようになった。

「足が悪かったのに、踊りが好きでやめられない。母親が踊りを習わせて、スペインナンバーワンのお師匠さんになった。自分で、『エル・コホ』(びっこ)のエンリケと芸名をつけたんです。技術なんかじゃない、踊ることは生きることなんだということを、エンリケ先生の踊りを見て心から思いました。講演後、『私に、踊りを教えてください』とお願いしました。私、人見知りをしないので」

エンリケ先生と語り合う小松原さん。
エンリケ先生と語り合う小松原さん。

エンリケ先生との出会いがいかに幸運であったか、小松原さんは今もしみじみと噛み締める。

「エンリケ先生は普段は、お茶目なんですよ。スペイン人って大抵、けちんぼなの。特に、エンリケ先生は。お稽古が終わるや、『喉、乾いたよー』って必ず言うんです、独り言のように。それなら、お水でも飲めばいいのに、エンリケ先生はビールが飲みたい。それも、自分で買うのが嫌。だから、お稽古が終わったら、先生にそう言われないうちに、私が駆け出してビールを買ってくるの。芸事を教える家で育ったから、先生へのご祝儀は当たり前という世界にいたので、私もつい、先生には“つけ届け”をしちゃう。だから、可愛がられちゃうんですよ」

「フラメンコは、芸術ではない」

エンリケ先生のもとで、小松原さんはフラメンコの何たるかを心に刻んだ。

「フラメンコは、ジプシーが生きるために踊るもの。芸術ではない。歌ったり、踊ったり、ギターを弾いたりすることは、生活になくてはならないもの。かつて、ジプシーの人たちはずいぶん蔑さげすまれていたけれど、今は違います。もう、そんなことはない。ベティ先生、エンリケ先生と、私は本当に先生に恵まれたと思います。もともと、私はためらうということはない性格だし、この人がいいって聞くと、すぐに行っちゃう」

フラメンコの真髄にどっぷり浸かっていた日々に、兄から「とにかく、早く帰国しろ」と怒りの連絡があり、小松原さんは1965年に帰国した。そこに待っていたのは、大きな決断だった。

「私ももう30代。彼をこれ以上、待たせるわけには行かなかった。彼からどうしても子どもが欲しいと言われました。私からは、私が子どもを産んだら、どんな子どもになるかわからないから、『子どもだけはダメ』って彼に言いました。2人で話し合い、『お互い、好きな道でいきましょう』と離婚を選択しました。子どもを産むことは、どうしても考えられなかったんです。彼は別の方と結婚し、息子を持ちました。生涯でたった一人、愛した人でした。踊ることは、生きること。だから、あんなに好きだった人とも、すんなりと別れられるんですよね。私の人生、フラメンコに捧げたのか、捧げられたのか。私の一生の仕事だという、確信があったのだと思います」

舞踊団創設、フラメンコを舞台芸術に

1969年、小松原さんは「小松原庸子スペイン舞踊団」を創立。それは日本で初めての、フラメンコ舞踊団となった。

「お稽古場を作って、生徒を募集して教えました。父が師匠だったので、教えるのも好きなんですよ。教えながら、自分も勉強するという。舞踊団で、年に2回はスペインに行っていましたね。結成して割と早い時期に、エンリケ先生を日本に招聘して、フラメンコ公演も行いました。皆さん、感動されていましたね」

小松原庸子さん

舞踊団結成記念公演という大きな舞台に、小松原さんは、スペインの劇作家フェデリコ・ガルシーア・ロルカの傑作戯曲「血の婚礼」を選んだ。フラメンコに演劇的要素を取り入れた舞台として、小松原さんは作り上げた。それは、今までにない全く新しいジャンルの作品となった。

ただ踊るだけでなく、演劇性を求めた舞台

これまで数々の舞台を創り上げてきた小松原さんに、最も印象に残っている公演を挙げてもらった。

「『ゴヤ』ですね。作家の堀田善衞先生の『ゴヤ スペイン・光と影』を読んで感激して、舞台にして。その作品は、スペインでも賞をいただきました。クラブなど小さな酒場で踊るのも好きだけど、舞台を作るというのも好きでしたね。俳優座の経験は、大きかったと思います。ただ踊るだけでなく、私はすごく演劇性を求めたんです。だから、これまでのこと全部が役に立ちましたね」

「小松原庸子スペイン舞踊団」は、これまで数多く、国内外での公演を行ってきたが、この「ゴヤ」は1984年、国外の舞踊団として初めてスペインから招かれ、セビージャ、バルセロナ、マドリードで公演を行い、大きな成功を収めた。以降、「舞踊団」のスペイン公演はことごとく大きな感動をもって迎えられてきた。

「自分で舞踊団を作って、スペインで講演をした例って、ほかにないと思いますよ」

サラリとこう話す。その時は、さらっと聞いていたが、後から考えると、とんでもない功績を小松原さんは語っていたのだと気づく。

「私、酔わないの。飲んでも、どうってことない」

今年で、94歳。20年前に膝の手術をしただけで、病気は一つもない。20歳下の女性に身の回りの世話をしてもらっていたが、その方が認知症になり、今は小松原さんのほうが彼女をケアする側になっている。楽しみはお酒。それも、日本酒だ。

「私、酔わないの。1本や2本飲んでも、どうってことない。お燗した日本酒に、お刺身が最高。お酒を覚えたのは、お屠蘇とそ。あまりお酒が飲めない兄がひっくり返っている横で、私はお代わりしていました。今はもう大酒は飲まないけれど、美味しいものを食べるときは、どうしてもお酒が必要ですね。やっぱり、日本酒が一番好き」
「94歳まで、幸せな人生でした。結婚もしたし。まあ、別れちゃったけど。恵まれた人生だったと思います。わがままを通して、ここまで来られたのだから」

高円寺・氷川神社で開催された「真夏の夜のフラメンコ」(2025年8月)。
高円寺・氷川神社で開催された「真夏の夜のフラメンコ」(2025年8月)。

2025年8月9日夕、高円寺駅そばの氷川神社は一夜限りの祝祭空間と化した。「小松原庸子スペイン舞踊団」による「真夏の夜のフラメンコ」が、神社の境内で開催された。1971年以来、毎年、日比谷野音で行われてきた野外フェスが、今回より高円寺開催となったのだ。

艶やかな衣装が宵闇に舞い、カスタネット、手拍子、床を踏み鳴らす音、ギター、歌と、さまざまな音とリズムが腹の底にどしんと響く、ジプシーの魂の表現に酔いしれた夜。心地よい風に吹かれながら、いつか、94歳が踊るフラメンコにどっぷり浸りたいと心から願っていた。

黒川 祥子(くろかわ・しょうこ)
ノンフィクション作家
福島県生まれ。ノンフィクション作家。東京女子大卒。2013年、『誕生日を知らない女の子 虐待――その後の子どもたち』(集英社)で、第11 回開高健ノンフィクション賞を受賞。このほか『8050問題 中高年ひきこもり、7つの家族の再生物語』(集英社)、『県立!再チャレンジ高校』(講談社現代新書)、『シングルマザー、その後』(集英社新書)、『母と娘。それでも生きることにした』(集英社インターナショナル)などがある。

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