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“鉄の女”はなぜ生まれるのか──社会に蔓延る「男/女らしさ」を解体する【TAIRAのノンバイナリーな世界 vol.10】

  • 2025.11.13

Tairaの臨床モデル学 / Taira's Gender Studiesで、モデルの視点から社会を多角的に考察してきたTairaによる新連載「TAIRAのノンバイナリーな世界」では、日頃から何気なく成り立っている身の回りの「組み分け」にスポットライトを当てる。

曖昧なことやラベルを持たないことに不安を抱きがちで、なにかと白黒つけたがる私たち(と世間)だけど、こんなにも多彩な個性や価値観が共生する世界を、ゼロか100かで測れるのか。日常に潜む多くの「組み分け」を仕分けるものさしを改めて観察し直してみると、新しい世界や価値観に気づけるかもしれない。

モデルでライターのTairaが物事の二項対立的(バイナリー)な見方を取り払い、さまざまなトピックを「ノンバイナリー」に捉え直していく。

vol.10 男らしさ/女らしさ

Q1. “男らしさ”って何だろう?

多様な価値観が語られるようになった今でも、「男らしい人がタイプ」といった言葉をよく耳にする。なんとなく普遍的な概念のように扱われる「男らしさ」だけど、その輪郭は時代や文化の変化に応じて書き換えられてきた。そして、そんな変遷はファッションにも顕著に現れている。

たとえば18世紀ヨーロッパでは、ピンクは力強さの象徴である赤を薄めた色として“男らしい”色とされた。逆に青は聖母を想起させる繊細な色として、“女らしさ”を象徴したそう。また、現代では“女性的”なアイテムとされるハイヒールも、元を辿れば騎馬用として発展したもの。上流階級の男性たちが煌びやかな衣装や化粧、かつらとともに身につけて、特権と地位を誇示するステイタスシンボルとして機能していたとのこと。こうした事例は、共有された性別のイメージが実は驚くほど移り気で、「男らしさ」とは各時代の社会が“男性”に期待する役割を映し出した鏡であることを示唆しているのではないだろうか。19世紀の産業革命期を経て、「男は働き、女は家庭を守る」という性別役割分業が強固なものとして根付いたと言われているけれど、当時の“男性”に求められていた肉体労働や経済的成功などを取り巻く価値観としての「男らしさ」の名残が、今日でもその中核を成しているように思う。

そんななか、昨今のイギリスでは「Toxic Masculinity (有害な男らしさ)」という言葉が日常レベルの会話で飛び交っていて、個人的にこの議論がどこに向かうのか興味深く見ている。この言葉は“男らしい男性”を責めるためにあるのではなく、むしろ社会が作り上げた過剰な“男らしさ”の規範を批判するコンテクストで用いられている。男性に「男らしく」振る舞おうとさせる社会的圧力が働いた結果、暴力的・支配的・感情抑圧的な要素が過剰に強調され、その結果として本人にも他者にも害が及んでいるのではないかという観点から、その有害さを見直す言葉として機能している。これまでも、家父長制などの女性を抑圧する男性性は批判されてきたけれど、男性自身をも苦しめる「男らしさ」に焦点を当てることは個人的にポジティブな動きだと考えている。

一方で、果たしてこれらの語りは「男らしさ」という枠組みを保持したまま、その中身を書き換えようとしているのか。それとも概念そのものの必要性を問い直し始めているのか......時折立ち止まって考える。確かなのは、「男らしさ」が固定された本質ではなく、私たち自身に開かれた流動的な概念であるということ。もしかするとそんな認識がより自由で多様な在り方への扉を開くのかもしれない。

Q2. “女らしさ”って何だろう?

Q1での考察と同様、「女らしさ」も文化や時代ごとに社会が作り上げてきた「理想の女性像」に期待される言説の鏡として捉えられる。「優しく、思いやりがある」「繊細で物腰が柔らかい」「控えめで、謙虚」といった特性が語られている印象が強い。長らくケアテイカーとしての役割を期待されてきた“女性”には、やはり産業革命以降に確立されてきた良妻賢母の価値観が今なお根強く求められているのだろう。こうした「女らしさ」は、女性を社会的に弱い立場に縛り付ける言説として働いているとも批判されてきた。出生児に割り当てられた性別が女性であるというだけで、「感情的である=理性がない」「優しくて物腰が柔らかい=リーダーに向かない」のように、個人に制約をかけてしまうからだ。結果として昨今の社会では、権威的な役職に就く女性が“男らしさ”を内面化することを余儀なくされている構図があるよう感じている。

日本初の女性首相に高市早苗が就任したニュースは記憶に新しい。彼女は、かつて「Iron Lady(鉄の女)」という異名で知られた英元首相のマーガレット・サッチャーを憧れの存在としてあげている。当時のイギリス社会は現代よりも男尊女卑の風潮が強く、“女性”であること自体が強い反発を招いた。サッチャーが「鉄の女」と呼ばれるに至った背景には、リーダーとしての威厳を得るために、見た目や振る舞いを通して「男らしさ」を演じざるを得なかったとも言われている。そんな葛藤は、映画プラダを着た悪魔』の“悪魔”、ミランダの在り方にも表象されているように思う。リーダーとしての役割を担う存在が物腰の柔らかい姿勢の場合、それが男性なら「親しみやすい」と好意的に受け取られるが、女性であれば「頼りない」と否定的に評価されてしまう傾向があるように感じる。一方で、「男らしさ」の内面化が行きすぎると、「キツい女」「女を捨てている」といった言葉で切り捨てられる。さらに、“女性”であるというだけで、メイクやファッションといった外見が注目され、美しさを享受することを求められる。

「Toxic Femininity(有害な女らしさ)」という言葉はあまり一般化されていないけれど、「女らしさ」にも多層的に有害な規範が潜んでいるのではないかと私は思う。

“〜らしさ”は、ヘアスタイルやファッションでも判断されがちだ。その固定概念はどこから来るのだろうか。
“〜らしさ”は、ヘアスタイルやファッションでも判断されがちだ。その固定概念はどこから来るのだろうか。
「男らしさ」「女らしさ」ってなんだろう? 自分のなかの規範に気付いてみて。
「男らしさ」「女らしさ」ってなんだろう? 自分のなかの規範に気付いてみて。

Q3. “男らしさ”と“女らしさ”はどうやって仕分けられてるの?

私たちは誰しも、生まれた瞬間から社会活動に参加している。「〜らしさ」の感覚は、家族をはじめとする周囲からの声や日々のやりとりを通して、少しずつ内面化されていくものだ。これまで考察してきたようにそこに明確な定義は存在しない。なんとなく共有された規範として社会に漂い、いつのまにか私たちの行動や思考を方向づけている。つまり「男らしさ/女らしさ」とは、誰かに明示的に教えられるものというよりも、環境に適応する過程で学び、身につけていく一種の社会的スキルのように捉えられる。

自分の幼少期を振り返っても、周りの大人からかけられる言葉や、学校などの集団行動を通して「男らしさ/女らしさ」を学ぶことが多かったように思う。とくに自分が子どもの頃は、「〇〇(名前)は男の子/女の子なんだから」という言い回しを耳にすることが少なくなかった。自分の言動が“らしくない”と見なされるたびに、子どもながら正される圧力を感じて違和感を憶えながらも、何が許され・許されないのか周囲の反応を敏感に読み取ることで見極めていた。おもちゃ選びやごっこ遊びもまた、そうした「学習」の場だった。子どもたちもまた互いの“監視者”として機能しており、学年が上がると仲良しグループも男・女でなんとなく別れていく。そんななかで私は“物腰の柔らかい男子”として、「男らしさ/女らしさ」の境界線をどこまでプッシュできるのかを伺っていた。加えて、自分が通っていた学校では、裁縫セットや彫刻刀セットなどを、学校側が用意したカタログから選んで購入するという場面が何度かあった。自分が好きなデザインのものを選んでいいはずで、性別が明記されていたわけではないけれど、刷り込まれた“ものさし”によって選択の自由はすでに制限されていた。本当は「女の子らしい」デザインのものが欲しくても、変な目で見られないようにあえてニュートラルなデザインのものをチョイスした記憶がある。

今、自分のまわりには子育てをする友人や知人がいて、かれらによると家庭内で「その子らしさ」を尊重しようと努めていても、保育園や幼稚園といった集団のなかで「ピンクは女の子の色」といったジェンダー規範を子ども自身が学んできてしまうという。以前、地元に帰省した際には「〇〇は男の子なんだから泣かないの!」という声も耳にした。自分の現在の生活ではそういった発言を聞かないからこそ、「今でもそうした声かけがされているのだ」とハッとさせられ、社会が子どもたちに「らしさ」を刷り込む瞬間を見せつけられたような気がした。

Q4. そんな組み分けは必要?

今でもさまざまな場面において、物事を男女二元論で仕分けて捉えようとする傾向が根強く残っている。でももし社会が、そもそも男/女という軸を前提として個々を捉えなかったら? 「男らしさ/女らしさ」という概念そのものが、もはや意味を持たなくなるのではないだろうか。

クィア理論では、多くの人が当たり前のように信じている「男/女」という区分は、生物学的な必然ではなく、社会的に構築された制度にすぎないという立場がある。性別の境界線は思っているほど明確でも普遍的でもない。人を生殖器の形態で仕分けることが“自然”だと考えるのも、実は異性愛を前提とした社会秩序を維持するための一つの取り決めに過ぎないのだ。つまり、「男/女」という枠組みそれ自体が、特定の権力構造を安定させて社会を効率的に機能させるための装置として作用してきている。こういった考え方は、一見現実離れして聞こえてしまうかもしれない。けれどもし人々が「男/女」というカテゴリーに依存せず、「その人らしさ」を基準に他者を見る社会が実現したのなら……。

私は「男らしさ」も「女らしさ」も、誰もが兼ね備えている性質だと考えている。ただ、社会で生きるうちに無意識にそのバランスを調整し、他者との関係性のなかで「らしさ」をチューニングしていく。もし「男/女」という仕分けの前提が取り払われたとき、私たちはより一層、他者や自分自身をより自由なスペクトラムの上で理解できるようになるのかもしれない。

Photos: Courtesy of Taira Text: Taira Editor: Nanami Kobayashi

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