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ヨシタケシンスケ「偏屈な老人に向けたものが書きたいなと今は思っている」10年以上前の初期スケッチ集が復刻発売【インタビュー】

  • 2026.3.16

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――『じゃあ君が好き』は2005年、『そのうちプラン』は2011年に刊行されたスケッチ集です。復刊にあたり、前者のまえがきに〈変わったり変わらなかったりする部分が可視化されるのは、スケッチや日記のような「本人がずっとやってるもの」の醍醐味のひとつ〉と書かれていましたね。

ヨシタケシンスケ(以下、ヨシタケ):改めてじっくり読む勇気はないんですけど、ぱらぱらと見返すと、このころの僕は元気があったんだなあと感じます。当時も元気溌剌ってわけではないし、今と同じで上昇志向もないから、アップダウンのない、ちょうどいいところをおもしろがろうとする姿勢は変わらないんだけど、今より少し、平熱が高かったんだなと(笑)。

――どのあたりで、ご自身の“元気”を感じますか?

ヨシタケ:見たものを、そのままちゃんと留めようとしていますよね。今の僕は老眼が進んで、当時のようにすぐさまスケッチするというわけにはいかないんですよ。いちいち老眼鏡をかけるのも面倒だし、描くのにも時間がかかってしまうから。かわりに、まずはスマホにテキストで残すようにしているんです。見たものをできるだけそのままに、という姿勢も変わってはいないんだけど、そのぶんテキストが長くなって「つまり言葉にするとこういうことなんだ」ということが、ビジュアルより先に生まれてしまう。

――たしかに、近年の作品は哲学的なものだったり、テキストの長いものが多いですよね。

ヨシタケ:それが悪いってわけじゃないんです。言葉に頼りがちであるということは、言葉に興味があるということでもある。この2作のタイトルのように、人がツッコミを入れたくなるようなフレーズを、いかに短く練りあげるかを考えていた当時と違って、今は、ビジュアルの印象があるわけではない不安や焦りといった感情を、できるだけそのままの状態で表現するにはどんな言葉にするのがいいか、考えるようになった。見るものと描くものの距離は前より遠くなっているのだな、と身体的な変化によって拾いあげるものも変わってくると気づかされたのは、なかなか興味深かったです。

――この2冊のスケッチには、哲学を感じさせるような言葉が添えられているものもあるけれど、言葉にはできない絶妙な仏頂面や、愛おしさを感じる瞬間などがちりばめられていて、その「なんともいえなさ」に惹きつけられます。

ヨシタケ:とくに『そのうちプラン』は、くだらないものと大事なものの密度にこだわったんですよ。日々スケッチを描きためることは、時系列をそのまま残すということでもあって。おもしろい発見が続いたかと思えば、なんでもなさにばかり目がついたり、とにもかくにもつまらないな、という瞬間も訪れる。平熱なりに気分があがったりさがったりする日常のリアルさを、一冊を通して表現できたらいいなと。だから、いちおう2冊ともにテーマはあるんだけれど、それもあんまりこだわってはいない。

――『じゃあ君が好き』は恋愛っぽいスケッチ、『そのうちプラン』は赤ちゃんっぽいスケッチ、と銘打たれてはいますが、関係なさそうなこともたくさん描かれていますよね。それも、たとえば恋愛しているときだって、その気分じゃないときもあってあたりまえ、みたいな感覚からなのでしょうか。

ヨシタケ:そうですね。緩急はつけるけれど、点と点を結ばない、ということも意識はしていました。たとえば「じゃあ好き」なんて恋愛的な場面では絶対に言っちゃだめなことじゃないですか。そこには、なんとなく自分にとって都合がいい条件があるから一緒にいる、というようなニュアンスが生まれる。でも、実際、そういう打算的な「じゃあ」の積み重ねで成り立つのが恋愛っていう気もするんですよね。人様にお見せできる素敵なものを手に入れたい、と誰しも思うものだけど……。

――恋愛に限らず、手元に残り続けるものって実際は「まあ、じゃあ、それで」みたいな選択のほうが多いですよね。

ヨシタケ:そうそう。“運命の人”というのはけっきょく、たまたま近くにいて、たまたま好みが似ていて、さしあたって離れる理由がない、ということでしかないような気がするんです。でも僕たちは都合よく、そのたまたまを必然のように言い換えて、物語のように語ってしまう。そしていつしかそれが真実であるかのように思い込む。よくできたシステムを頭のなかに導入しているなあ、と思いますね。正直、僕は、その物語に燃費の悪さを感じてしまって、恋愛に価値を置く人たちの生命力の強さに圧倒されるばかりなんだけど(笑)、楽しそうだなあと羨ましくもなる。オリンピック選手の競技を、尊敬しながら見守るのに似ています。やりたいとは思うけど、キラキラして見える。

――羨ましいけど、やりたくはないんですね。

ヨシタケ:そうですねえ。ただ、基本的に平熱が低くて、物事に熱くなることのできないグループの人間としては、何かを妄信する気持ちの強さや、執着することへの憧れはあります。是非を問わずに相手を運命だと信じてしまえる、自分以外の何かを心から信仰してしまえる、そのまっすぐさを持ち合わせていたら、きっともっと、違う楽しみや生きやすさがあったのだろうな、と。そこまで他人に依存してしまえることは怖くないのか、というおそれもあるし、臆病者の僕からすると、考えなしに猛進してしまうことを滑稽に感じる気持ちもある。恋愛に対しては、ちょっとした憧れと軽蔑する気持ちが半々、という複雑な立場なんです。

――そういうヨシタケさんだから、恋とか愛とかっぽいものが描かれる瞬間って、まったくキラキラしていませんよね。むしろ、舌打ちしたくなるような煩わしさや、徒労を感じる瞬間にこそ、愛おしさがまじるというか。以前、お連れ合いについて「こんなに僕に怒りを抱かせるのはこの人だけだ」というようなことをおっしゃっていたのも、すごく印象に残っています。

ヨシタケ:恋愛でしか近づくことのできない距離感というのがあって、そこでは美しくてキラキラしたものより、むしろ「こんな自分は知りたくなかった」と思うような、いやな側面もあぶりだされてしまう。それもまた、特別ということなんだろうなと思います。好みは似ているはずなのに、どうしてだか、同じものを欲しがることができない。波が一致しない確率の高さにうんざりしてしまうけど、そういう瞬間こそおもしろがりたくて僕はスケッチを描きとめていたんだろうなと『じゃあ君が好き』を見ていても感じます。

――『そのうちプラン』はもっとテーマが抽象的で、意味があるんだかないんだかわからない瞬間がたくさんおさめられていますよね。「カマボコ! チクワ! ソーセージ!」とか、「オニオングラタンスープの刑」とか(笑)。もちろん、刺さる言葉もたくさんあるんですが。

ヨシタケ:ネガティブなのかポジティブなのか、大事なのかそうじゃないのか。何もわからないというのが、当時から一貫して僕の目指しているところです。だって、そもそも人が生きていること自体、いいも悪いもないじゃないですか。誰かと衝突したり仲直りしたり、意味のあることをしたり何もしなかったり。くりかえしていくその日々を誰にもジャッジなんてできないし、する必要もない。そのリアルさがなんかよくない? っていう、ただそれだけの本なので、気軽な気持ちで楽しんでほしいです。

――このあいだ、ドーナツ屋さんで女子高生たちがお皿にドーナツを5個ずつのせて、きゃっきゃしてたんですよ。その光景に、なんだかしみじみ、幸せを感じてしまって。私とは関係ないし、きっとそのうち忘れてしまう光景でもあるんだけど、なんかいいな、の気持ちの積み重ねをヨシタケさんは描いてくれる。スケッチ集を読むと、その気持ちをとりもどさせてくれる気がします。

ヨシタケ:そういう光景に出会うと、なんだか得した気分になりますよね。女子高生とドーナツが何かを解決してくれるわけではないのに救われる。とくべつな努力をしなくても、自分自身を肯定できなかったとしても、そこらに転がっているものに触れていると、いつのまにか上を向くことができている。それを探す元気や、気づくことのできる余裕を失ったときが、人はいちばん孤独で苦しいし、世の中も灰色になってしまうんじゃないかなと思います。

――疲れている人にこそ読んでほしいですね。

ヨシタケ:ただ、難しいことに「頑張らなくてもいいんだよ」という言葉は、届くべき人のところになかなか届かず、「お前はもうちょっと頑張れ」という人にばかり響いてしまう(笑)。どうすれば、頑張りすぎている人に心を休めてもらえるような表現ができるだろう、と模索しつつも、言葉というのはそもそも、思ったように伝わらないものなのだから、そんなに都合よくいかないよなあ、ということもおもしろがりながら、これからもやっていきたいと思います。

――先ほど、ビジュアルが見つかるより先に言葉で考えるようになった、とお話がありましたが、それによって絵本の制作にも変化はありましたか?

ヨシタケ:基本的に、僕は子どもにもわかる平易な言葉を、組み合わせをかえてこねくりまわしているだけなんですよ。そのなかで、これまで描いてきた絵にちょっとした差分をつけて添えながら、どうすれば新しい表現ができるだろうと考えている……ということ自体は変わりません。ただ、やっぱり、言葉主導になると、どうしても説教くさくはなってしまいますよね。

――それは、ヨシタケさんがいちばん避けたいことなのでは。

ヨシタケ:避けたいんだけど、「それはそれで」と楽しむようにしています。老いるにしたがって、かつて自分がいちばん許せない人間になろうとしていることに、わくわくもしているんです。あ、やっぱり僕も老害になっちゃうんだ、って(笑)。

――潔い!(笑)

ヨシタケ:僕はデビューが遅いこともあって、絵本作家のなかでも気づけば最年長のグループに入っているし、50歳を過ぎるとそもそも、何か粗相をしたところで誰も叱ってはくれない。たまに苦言を呈してくれる人がいたとしても、僕自身が素直に受け入れられなかったりもする。せっかく叱ってくれたのに、そもそも俺が聞く耳持ってないじゃん……と自覚したとき、そりゃあ、誰も何も言わなくなるわって思いました。だからいっそ、偏屈な老人に向けたものが書きたいなと今は思っています。

――読みたい!(笑)

ヨシタケ:体力が落ちるとともに、モテたいみたいな色気も失って、誰かに触れたい、触ってもらいたいとも思わなくなる。それがこんなにもさみしいことなんて、噂には聞いていたけど全然知らなかったよ、とびっくりすることだらけなんです。人ってこんなふうに減っていくんだ、そして減ったものをこんなもので補おうとするんだ、と老いた今だからこそわかる涙ぐましい努力を掬いあげたいし、先輩方がどうやってまぎらわせてきたのかにも興味があるんです。

――それは、あまり描かれてこなかったことでもありそうですね。

ヨシタケ:そもそも、そのさみしさは言葉で誰かに伝えられるものじゃないんですよね。今の僕は、高齢の男性向け週刊誌になぜ精力剤の広告ばかり載るのか身をもって実感しているけれど、説明しろと言われても困ってしまう(笑)。でもじゃあ、老いていくことのさみしさや焦りを誰とも共有できず、孤独に抱えていくしかないのかといえば、そうではないと信じて表現を模索するのが、作家の仕事なんじゃないかなと思ったりもする。確実に存在しているけれど、あきらかになっていないものをどうすれば言葉で定着することができるのか。それが僕に残された最後の趣味なんですよ。

――それはきっと、日常のいいも悪いもジャッジせず、そのまま見つめているヨシタケさんだからこそできることのような気がします。

ヨシタケ:いやあ、もう、大変ですよ。だんだん、理屈しか残っていかなくなるんです。自分がやってきたことに文句を言われたくないし、正しいと思いたいがゆえに自分をごり押ししてしまう。「俺はこれしか知らないから、これでやらしてくれ」ってね(笑)。たくさんあるいろんな正しさを理解する体力がなくなっているんだなあと思います。世の中にはいろんな価値観とおもしろがり方があるけれど、それをインストールできるのは体力のあるうちだけ。人の気持ちをわかろうとする元気がなくなったときに、どうにかして自分の気持ちだけでもわかってもらえないだろうかと魂の叫びが生まれてしまう。僕もいずれ、なりたくはないんだけど、そうなっていくのだろうな。笑えないけど、おかしいな。そんな気持ちを作品にできたら、おもしろいんじゃないかと思っています。

取材・文=立花もも、撮影=後藤利江

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