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フランスに「推し活」はある?

  • 2025.10.27

私は、自分でも不思議なことなのだけれど、生まれてこのかた誰かの熱狂的なファンになったことがない。

いわゆる「推し活」とは無縁の人生を送ってきた空虚な人間である。

ところが、近年日本ではありとあらゆる人に推しがいるのだ。

「この人だけは誰かを熱狂的に追いかけるようなことはするまい」と思っていた人も、いつのまにか人が変わったように、まるで信仰のような愛を持って各地を駆けめぐっている。いまとなってはその活動には縁のない私とは、別次元にその身を置いているかのようだ。私は1人だけ周回おくれのような気持ちで、彼らの情熱を遠くから眺めている。

しかし、日本には以前からこんなにも推し活文化が繁栄してたのだっけ? 物理的にも精神的にも、その文化圏から遠い場所にいた私には、「近年加速度的に広がった」というように見える。日本にだけ、急速に。

ではフランスではどうなのかというと、少し前、日本で推し活文化がみるみる広まっていったころ、ヨーロッパでもこの推し活文化を広めたいと熱心に活動している人がいた。特定のアイドルのような存在を広めるのではなくて、「推し活」という行為や気持ちのありようそのものを広める活動だ。

エネルギーもお金も人脈もある人だったから、その活動は結構いいところまでいったと思う。西ヨーロッパ中をめぐり、推し活文化を広めるためにとても頑張っていたのだけど、それでもその人が資金と体力を目一杯使って得た成功は結局のところ、「盛りあがったお誕生日会」くらいの規模にすぎなかった。全然、広まらなかったのだ。それで、その人もあるときを境にぷつりと糸が切れたように、その活動は一切やめてしまった。

ヨーロッパ、特にフランスは、漫画やコスプレはこれほど広がっているのだから、推し活みたいな分野も広まったって不思議ではない。そう思って、私はなぜ推し活に関してはあまり広まらないのか、漫画やコスプレとは何が違うのかその当時よく考えてみた。そうして理由はいくつかあるものの、最も大きな理由はこれではないかと思い至った。

「自分が主人公になれない」

漫画やコスプレと決定的に違うのはここだ。誰か自分以外の、素晴らしいと思える相手を支えるために無償の愛を注ぐ。私が推し活にちょっと憧れを持つのはこれが理由だ。自分以外の完璧な誰かのために献身的な愛を捧げるって、心安らぐ生き方だと想像するからだ。こんなに不完全な、自分のためだけに生きるよりもずっと。

とはいえ実際には、何人か日本のミュージシャンの推し活をしているフランス人に会ったことはある。その人たちはもれなく他の日本文化も好きで、気質もフランス人よりどこか日本人と近しいところがあった。やはり日本人気質というものが、そもそも推し活と相性が良いのかもしれない。

この夏に出会ったある女性も、ミュージシャンのYOSHIKIさんが好きだとその熱を私に伝えてくれた1人だ。

「あなた日本人ならYOSHIKIを知っているでしょう?」

招待されたアペロで、隣の席になった彼女は私にそういった。

「もちろん知ってるよ!」と私は答えたのだけど、この"知ってるよ"というのは当然「YOSHIKIさんという有名な人の存在を知っているよ」という意味である。

しかし、私が答えるや否や、彼女はYOSHIKIさんのライブ動画を見せてきて、「YOーSHIーKIーーーーー!!!」と庭中に響く声で叫んだ。YOSHIKIさんへの愛を感じる、甘く熱のこもった声だった。

そして名前を叫び終わった彼女は「さあ、一緒に歌いましょう!」と私の肩を組んだ。彼女は私が日本人だからといって、YOSHIKIさんの歌をうたえると思っているのだ!「どんぐりころころ」もそらで歌えないのに!

動揺した私が助けを求めて周囲を見回すと、彼女の夫が慈悲深そうな目で私を見ていた。そして「全てわかっている」というように大きくうなずくのを見たとき、覚悟は決まった。私はまったく習ったことのない読唇術を使い、隣にいる彼女の口からもれる歌詞を一生懸命"読んだ"。そして同じく彼女の唇とスピーカーから流れるメロディに身を任せ、あたかも歌えているかのようにふるまったのだ。

全然、歌えていなかった。でも、なんとなく、「歌えている」かのようなアティテュードだけは上手くいった気がする。そして彼女と肩を組み、彼女の熱量に包み込まれているそのあいだ、私は一瞬だけ、「推し活」の熱の中にいたような気がしたのである。たぶん。

photography: Shutterstock text: Shiro

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