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朝ドラ「ばけばけ」のモデル小泉セツは生後7日で名門の家から養女に…「もらわれっ子」が本当に恋しがった相手

  • 2025.10.10

朝ドラ「ばけばけ」(NHK)で髙石あかりが演じるトキのモデルは、松江藩士の娘だった小泉セツ。セツについての著作がある長谷川洋二さんは「セツは生後まもなく小泉家から稲垣家へ養子に出されたが、4歳のころにはそのことを自覚していた」という――。

※本稿は、長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)の一部を再編集したものです。

セツは生後7日経つと、生家を出された

セツが生まれる前、小泉家とその遠い親戚筋に当たる稲垣家との間に、今度生まれる子は稲垣家がもらい受けるという話が決まっていた。小泉家では、すでに幾人もの子供を授かっていたが、稲垣家は子持たずであったからである。そこで、誕生7日目を祝う「お七夜」を終えた次の晩に、セツは乳母とともに駕籠かごに揺られて、城下町の西北、内中原町なかばらちょうも祖母橋ばばばしに近い稲垣家の屋敷に連れて行かれた。

セツが生い育つ稲垣家は、代々百石を食み、戦時には、一二の家来を抱える、いわゆる「並士」の家柄で、家格は、約千人の士分の侍の中で、中ほどの位置を占めていた。

松江の武家屋敷
松江の武家屋敷
父となった金十郎は26歳、ユーモアがあった

セツの養父となった稲垣金十郎きんじゅうろうは、当時はまだ満26歳の、いたって気のいい善良な侍であった。彼は、王政復古の大政変を前にして、京都が緊迫した空気に包まれていた時に、京都警備の任にありながら、連日のように烏丸通に家来を遣って、好物の菓子を買わせたり、後々まで、鳥羽・伏見の戦いを、おもしろおかしく子供たちに語り聞かせるといった、好人物だったものである。妻のトミは2歳年下で、無学であったが、何事につけても器用で骨身を惜しまず立ち働く、実直で愛情豊かな女であった。

当時、稲垣家の戸主は、まだ金十郎の父の万右衛門まんえもん(保仙ほせん)であった。彼は当時、満50歳になったところだが、組士くみしとして番入りして26年という兵つわもので、特に黒船来航以来、隠岐の警備や大坂の守衛に、あるいは京都の二条城や御所の警護にと、多難な時代の務めを次々と果たしてきた侍である。その彼は、後々までも、昔ながらの気位と古武士風な生活ぶりを捨てないような男であったが、ちょうど2年前から、藩主の「御子様方御番方」を務めてきたこともあって、大の子供好きであった。

そのような次第で、稲垣家は、養女のセツを迎えて大いに喜び、一家をあげて可愛がり、また、身分の高い家に生まれた女の子であるからといって、「お嬢じょ」と呼んで育てたのである。

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と妻セツ、1892年
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と妻セツ、1892年(撮影=富重利平)(写真=PD US/Wikimedia Commons)
セツがもらわれた稲垣家は中間層だった

『列士録』によれば、稲垣家は元祖の藤助とうすけが延宝元年(1673)二代出雲藩主の綱隆つなたかに召し抱えられて以来、6代目の万右衛門に至るまで、たいていは、50人ひと組に1人の番頭の采配を受ける組士であった。たとえば『安政二年御給帳』(『雲藩職制』所収)で、当の万右衛門は、赤木内蔵組50人中18番目に名が記されている。

家禄は3代目以後、(セツと八雲の長男である)小泉一雄が記す通り百石で、士分の侍の中でも、まず平均的な暮らし向きの家であり、典型的な並士であって、明治4年(1871)末の『士族給禄帳』でも、士分の侍999人中428番目に、家督を相続したばかりの稲垣金十郎の名が見え、大体の家の格式を知ることができる。

稲垣家の屋敷は、神作柳子の「ヘルンの旧居と結婚」(『学苑』第五巻十二号所収)が、内中原祖母橋の東南としているが、城下屋敷図のいずれも、当の位置に「稲垣」と記している。昔は、松江城の西の内堀と、外堀に当たる四十間堀けんほりとの間に、もう一つの堀(中堀)が南北に穿うがたれていて、その北端に祖母橋が架かっていた。セツが幼年時代を送った稲垣家の屋敷は、その堀の東側の土手に面していたのである。

養父母と祖父だけでなく、養祖母も存在した

松江の万寿まんじゅ寺に、稲垣家の墓碑及び過去帳を見ることができる。両方とも没年の記入はあるが享年が記されていない。ただし、松江市役所には、稲垣金十郎の除籍簿が保存されており、親族のご厚意により閲覧させて頂いた。

一雄は『父「八雲」を憶ふ』で、金十郎が東京で没したのは明治32年11月と記しているが、除籍簿では「明治三十三年十一月(十九日)」で、これは正しく万寿寺の記録と一致し、一雄の記憶違いかと思われる。生年は、除籍簿によれば天保12年(1841)7月だから、セツ誕生の時には満26歳だったことになる。

妻のトミの没年は、一雄の記述と万寿寺の記録が一致する(大正元年8月)が、一雄の記す享年に拠らず除籍簿にある生年(天保14年〔1843〕10月)に基づいて、セツの誕生時には満24歳であるとした。金十郎・トミ夫婦がこのような年齢で養女をもらったのには、当時の武家の早婚を考えなければならない。養祖父の万右衛門の年齢も、除籍簿にある生年(文政2年〔1819〕1月)に拠った。

なお、セツには養祖母がいて、満8歳の明治9年(8月13日)まで存命したことは、万寿寺の墓碑と過去帳によって明らかである。しかし、セツの原稿にすら表われていない。過去帳には「金十郎の母」とあるが、訳あって稲垣家での生活から外れていたように思われる。

【図表1】小泉セツ関係系図
出典=『八雲の妻 小泉セツの生涯』
2歳になると、生家から一緒だった乳母が去る

翌年の2月4日、稲垣家では出雲の昔ながらの習慣に従って、セツの「二ふた誕生日」を祝った。広間の中央に置いた広蓋ひろぶたに、本・筆・刀・算盤そろばん・硬貨・小豆・着物・人形といった品々を載せ、セツに鏡餅を背負わせて這はわせ、家中が見守る中で、広蓋から3品をつかませて彼女の将来を占ったのである。

満2歳の誕生日には、乳母が暇乞いとまごいをした。あまりの悲痛に、セツの脳裡には、別れた部屋の襖の模様から、「乳母、乳母」と泣き叫ぶ自分の声まで刻み込まれたものである。その後、出入りが禁じられた乳母とは裏道で、「内緒で」会って、抱き上げられ可愛がられた。

明治維新後も稲垣家には槍や刀、鎧があった

物心がつく頃のセツの目に映じたのは、屋敷の馬小屋、竹藪、広い畑であり、収穫の候ともなれば、年貢の米俵が三角形を成す山と積まれた。槍の掛かる玄関を入れば、鎧櫃よろいびつや刀掛けがあり、朝には、養祖父の万右衛門や養父の金十郎が鏡台を前に髷まげを結うのが見られた。

日本の刀の柄
※写真はイメージです

乳母が暇乞いした翌年の秋、数え4歳での「帯直おびなおし」が祝われ、襖も障子も開け放たれた家中を一杯にするほどの客が招かれた。その中の誰からも――幼いセツからですら「えらい」と思われていたのが、「小泉様」であった。その男らしく度量の広い実父への敬愛は、セツが生涯抱き続けるものとなる。

もらわれっ子だが、愛情いっぱいに育てられた

この頃からセツは、自分が「貰もらい児ご」であることを知って不満に感じたが、稲垣家の親たちの愛情、可愛がりようは、また格別であって、彼女も心から愛し慕い、その親子の情もまた、生涯にわたって翳かげることがなかった。

長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)
長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)

セツは――明らかに一雄の求めに応じて――先祖にまつわる話(「オヂイ様のはなし」)や、己の幼時の思い出を綴っている。それは、一雄の取捨を経て『父小泉八雲』で使われた。セツの原稿の方は、断片的に小泉家に遺され、新潟県南魚沼市の池田記念美術館へ――その竣工時(1998)に――移譲された。『八雲の妻 小泉セツの生涯』の執筆に当たっては、その協力を得て、同原稿を含むセツ関係の「未発表資料」を、美術館の館内で筆写して使用している。

「二誕生日」の後「帯直し」までの記述は、もっぱら当の「セツの原稿」に拠り、一雄の記述との間に違いがある場合も、この「原稿」を優先した。

「乳母」について、「私が後年もしきりに乳母を思い出してヘルン(結婚したラフカディオ・ハーン)に話したら、私と同じような気持ちになって、乳母を捜そうとしたけれども、もう行方が分からなかった」を付記しておきたい。

松江藩最後の藩主・松平定安
松江藩最後の藩主・松平定安、北海道大学附属図書館北方資料室所蔵(写真=作者不詳/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
版籍奉還で、藩士たちの生活は苦しく…

こうした昔ながらの世界は、その根底で崩れ始めていた。初め出雲の侍たちは、主君の松平定安が新政府の威令の下でも、従来の地位を保ち得たことに安堵した。それも束の間、彼らは、東京に移った中央政府が次々と発する指令が、いかに過酷なものかを知らされる。

こうして、セツの「二誕生日」の4カ月後に、藩主松平定安は、ほかの大名たちに倣ならって出雲の版籍を奉還したが、今度は知藩事として、旧家臣の家禄の削減を強いられた。

その結果、松江藩では翌明治3年(1870)の暮くれまでに、石高に大きな違いのあった士分の侍の家禄が、全員一律の実額32石に引き下げられた。それは稲垣家にとっては2割だが、小泉家には7割3分、ある侍にとって――翌年7月まで給付された職米を別にすれば――実に9割8分もの削減を意味したものである。セツの「帯直し」の前年のことであった。

長谷川 洋二(はせがわ・ようじ)
歴史家
1940年新潟市生まれ。新潟大学人文学部で史学を専攻、コロンビア大学のM.A.学位(修士号1974)、M.Ed.学位(1978)を取得。一時期会社員、前後して高等学校教諭(世界史担当)。著書に『小泉八雲の妻』(松江今井書店、1988年)、その改定版となる『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)、『A Walk in Kumamoto:The Life & Times of Setsu Koizumi, Lafcadio Hearn’s Japanese Wife』(Global Books, 1997)、『わが東方見聞録―イスタンブールから西安までの177日』(朝日新聞社)がある

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