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離婚・介護・子宮全摘出…その先に見えた希望【それぞれの更年期】

  • 2025.8.29

離婚、介護、子宮全摘出

「昭和のがんばり女子の代表みたいでした」という美喜子さん。

17年間、夫と娘と3人で暮らした佐渡島では、染色家、中学校の心の教室相談員、クラフト市の代表、そしてペンションの経営もしていた。
離婚を機に娘と千葉に帰ったのは2007年46歳のころ。

「母が早く亡くなったので、父は千葉で一人暮らしをしていました。海上自衛官だった父とは折り合いが悪かったのですが、このままだとすごく後悔すると思って、連絡しようとしていた矢先に、父が倒れ入院。そのまま半年くらい介護をしました」

その後、48歳のときに子宮を全摘出する。

「子宮筋腫だったのですが、自分で作ったものなので、自分で治せると思っていました。でもあまりに月経時の出血が多かったので、西洋医療と代替療法をしている病院に行きました。ヘモグロビンの数値がとても低く、筋腫が100個もできていました」

手術に当たってホルモン剤治療を受ける。

「これがホットフラッシュかあ、と更年期障害の症状を経験しました。でも精神的にはまったく大丈夫どころか、病院が居心地よくて退院したくなかったくらい(笑)」

理由は、なんと主治医に恋心を抱いたから!
手術にともなう治療もまったく苦痛ではなかったという。心配してお見舞いに来た友人たちも美喜子さんの笑顔に驚くというか呆れるというか……。
術後、脊髄麻酔が原因で左半身が痺れてきた際、麻酔がない状態にもかかわらず、「ドーパミンでも出ていたのか、あまり痛くなく」、看護師や主治医に驚かれた。

「もう離婚していたので、恋愛は自由。その先生が毎朝毎晩会いに来てくれる、単に診察なのですが、それだけで幸せだったんです。本当におめでたい性格なんです」

仲良し家族。だけど、夫婦は続けられない

「子宮を摘出したのは、離婚後でしたが、元夫が見届けてくれました。これはお互いにとって本当に良かったと思っています。これで区切りがつきました」

憎しみあって別れたわけではないし、今でもすごく尊敬しているという。

「離婚後気付いたけれど、彼は私のコーチングやコンサルをしていてくれたんだと思います。(ミュージシャンの)夫は仕事もあって留守にすることが多かったのですが、娘と3人、仲良し家族でした。
それでも男女という関係にはどうしても戻れず、2人の間では恋人を作ることも認め合うことにしていました」

実は娘が9歳のときに2人は離婚を決めていた。
「そのことを娘に伝えると、娘は一瞬かたまり、その後何事もなかったように遊びはじめたんです。その様子を見て私たちは、まだ離婚するときではないと悟りました」

それから7年の歳月を3人家族として過ごした。然るべき時がやってきたのか、経営していたペンションの建物が耐震構造問題で使えなくなった。
中学3年生になった娘は、佐渡ではなく、両親の母校である千葉の高校を選んだ。

「彼女に付き添って私も佐渡から出ることを決めましたが、思春期の娘には辛い思いをさせてしまいました」

千葉に帰ってから離婚をした。後悔はしていないが、美喜子さんは今でも、どうして離婚を選んだのか、娘ともっとそのプロセスをシェアできていたらと思っている。

私が一番美しいと思うものを見つめて生きる

美喜子さんは草木染めをするために佐渡に渡ったが、東北の染色家に筒描き体験させてもらい、そのおもしろさに目覚めた。

「筒描きを取り入れた最初から引っかかっていたのですが、化学染料を使う手法は佐渡の海を汚してしまう。だから染色はやめました。後になって思えばその頃から絵は描いていました」

佐渡を出てから、友人とのイベント告知用に描いた絵をフェイスブックに載せたところ、すぐに絵の注文が入った。これが「紙」に絵を描く始まりだった。

「催眠療法と絵を結びつけて、その人が見た一番美しいものを女神画にする、というセッションを1年くらいやりました」

1回5時間のセッションで、絵はその場で描いて渡していた。
「価格も安かったので人気でしたが、心身ともにクタクタになってやめました」

この頃、今の仕事につながるビジョンを受け取った。都心(表参道か半蔵門)に、植物を介して人が集まる場所を作るというイメージだ。
「原宿あたりは地価も家賃も高いところだから、無理だろうなとは思ったのですが」

美喜子さんは、この自分が見た美しいイメージを周りの友人たちに話していた。

夢への道、原宿で畑をする

2020年コロナ禍が始まったばかりの頃、墨田区京島の住居兼サロンを出なければならなくなり、目を閉じて自分の内側を見つめなおした。

「お客さんにはあなたの夢は無限大と言っているのに、自分の夢を信じていなかった。私自身が一番美しいと思うことを実現していなかったと気付きました。それで一念発起して、原宿、表参道エリアに引っ越すことを決めて、渋谷あたりで娘と同じ年齢の若い人たちがやっている不動産会社に私の夢を伝えたんです。そこで、このマンションがいいのでは? と提案
してくれたのが今の住まいです」

古いマンションには美喜子さんが最も好きなイチジクの木があった。住み始めてからは、マンションの屋上で菜園をさせてもらうこともできた。
さらには近所を歩いているとコーヒーの麻袋で野菜を育てている団体に出会ったり、原宿外苑中学校でコンポスト作りを手伝ったり、夢にどんどん近づいていった。もちろん当時は、まさか「原宿はらっぱファーム」ができるなんて誰も予測していなかった。

しかし美喜子さんは越してきてすぐに未来にファームになる「広大な空き地(1500㎡)である元大蔵省の官舎跡地を見つけていた。そしてその前を通るたびに、
「ここで畑をやらせて」と独り言を呟いていた。

「2025年の春に『原宿はらっぱファーム』が始まると、近所の人たちも、ここが畑になるといいな、と思っていたことを知りました。みんなの思いを受け取って私は動いていたのかもしれませんね」

51歳の時に抱いた夢が13年後に現実となった。周囲には「そんな無理なことに奔走しなくてもいいのに」と言われたこともあったが、心底ポジティヴな精神の持ち主である美喜子さんは、自分のもっとも美しい夢は、他の人にとっても美しいということを信じて行動した。

きっとこれからもそうしてゆくのだろう。

元農業高校の先生を招いた「学びの畑」でのひとコマ。この日は先生が用意した夏野菜の苗を定植。

ツバメも飛び交うように。「ツバメが来てすごくうれしい。見ていると泥のついた草を運んでいますね。巣作りに使うのかも」

近所に住んでいるとはいえ、ほぼ毎日畑に通って畑の様子を見まわる美喜子さん。植物たちの様子を見ていると、通りかかる人たちから声をかけられることも多い。
とてもよくお似合いの「20年ぶり」のショートヘアは、原宿はらっぱファームの活動を応援しているヘアサロン「TWIGGY.(ツイギー)」の松浦美穂さんにすすめられたスタイル。

〜私を支えるもの〜

亡くなった母が使っていたアメジストの数珠とタオス・プエブロのネイティブアメリカンの方からもらったアメジストのネックレス。
ずっとお守りのように身に着けていたが、「どちらも最近、原宿はらっぱファームの活動が決まった頃に、糸が切れました。願いが叶ったからかも」

ウラジミール・メグレ著『アナスタシア』(ナチュラルスピリット)のシリーズ。
「第3巻の最後に、もしあなたの意図が良いものなら、あなたの住んでいる場所でそれを形にしてください。あなたのそばにいる人々の上に愛を輝かせてください、と書いてあって、それで私は自然の摂理から離れた東京の真ん中で、植物を介して人が集まる場を作りたいのだと気づきました」

佐渡島の朱鷺(とき)と鳶(とび)のスマッジングフェザー。ネイティブアメリカンの影響をかなり受けたという美喜子さん。
「大切なことが始まるとき、感謝のとき、気持ちを落ち着かせ内側に向かいたいとき、場を清めたいと感じたときなど、シソ科の植物などの煙とともに使っています」

撮影/白井裕介 聞き手・文/石田紀佳 編集/鈴木香里

※大人のおしゃれ手帖2025年8月号から抜粋
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この記事を書いた人

大人のおしゃれ手帖編集部

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