中国の中国科学院大学(CASU)で行われた研究によって、地球史上でも最も寒く厳しい「最終氷期極大期」のさなかのチベット高原で、人類が暮らしていたという驚くべき事実が明らかになりました。
従来、この時期のチベット高原は、酸素の薄さと極度の寒冷・乾燥のため「居住不可能」と考えられていました。
ところが、約2万5000年前の骨や石器、さらには古代人が壁画などを描くときに使うことが知られている赤い岩石(オーカー)が南チベットの川谷に残されていることが確認されました。
いったい、古代の人々はなぜ「人が住めない」とされた過酷な環境を乗り越えることができたのでしょうか?
研究内容の詳細は『Quaternary Science Advances』にて発表されました。
目次
- 人類史の空白を生んだ最終氷期極大期
- 最終氷期極大期を生き抜いたチベットの民はどこに行ったのか?
人類史の空白を生んだ最終氷期極大期
地球史上でも特に過酷な気候であった最終氷期極大期(約2万6500年前〜1万9000年前)です。
この時期は、極地や高山地帯を中心に巨大な氷床が拡大し、地球全体の平均気温が現在より4〜5℃も低く推移しました。
そのため、多くの地域で動植物の生息域が大きく制限され、人類の活動痕跡が途絶えている例が少なくありません。
たとえば、北半球の高緯度・高地帯では、最終氷期極大期期に入ると遺跡そのものがほとんど確認されず、後の時代に再び出現するという「空白期間」が生じていると報告した研究もあります。
実際、中国においても寒冷化に伴う南方への移動が指摘され、青海や甘粛などの高標高地では最終氷期極大期期に当たる考古資料が見当たらない――というのが長らく通説でした。
なかでも標高が平均4500mを超えるチベット高原は、気温の低さに加えて酸素濃度も低く、現代人ですら長期滞在が困難とされる過酷な土地です。
こうした理由から「最終氷期極大期期にここで人類が暮らせるはずがない」という見方が支配的であり、これまでの発掘調査でも最終氷期極大期に相当するはっきりとした痕跡は確認されてきませんでした。
たとえ前後の時期には居住を示す証拠が見つかっても、最も寒さの厳しかった時期になると、姿をぱったりと消してしまう――いわば「活動痕跡の消失」という現象が高地帯で繰り返し観察されていたのです。
しかし近年、中国科学院大学(CASU)のウェンリ・リー氏らの研究チームが、南チベット高原の川の流域で、ちょうど最終氷期極大期期に当たると推定される骨や木炭、さらには古代人が使った石器や赤い岩石(オーカー)を複数見つけました。
オーカーとは、主に酸化鉄を含む天然の顔料であり、古代からその鮮やかな赤や黄色が人々の注目を集めてきました。
先史時代の人類は、オーカーを単なる着色料としてだけでなく、儀式的な意味や象徴的な表現を担う素材として利用していました。
例えば、ヨーロッパの洞窟壁画や南アフリカの古代遺跡では、オーカーが動植物や狩猟の場面を描くために使われ、初期の芸術表現の一端を担っていたことが分かります。
また、オーカーは体を彩るための化粧や、部族間での地位やアイデンティティを示すための装飾品としても用いられ、社会的・宗教的な意味合いを持つ重要なアイテムでした。
さらに、実用面においては、石器の接着剤や保存剤、さらには食品の保存や処理に応用された可能性も示唆され、古代人の生活技術の一部として多面的な役割を果たしていました。
最近の研究によって、オーカーの化学組成や微細構造の分析が進むにつれて、古代の集団間での交易や文化交流の証拠が見出されるなど、その用途の広がりが明らかになりつつあります。
尺食料であり、儀式の材料であり、装飾品であり、接着剤や保存料でもありと多岐にわたる用途があったオーカーは、石器と並び人類が存在した有力な証拠なのです。
しかし先にも述べたようにチベットは最終氷河期極大期には居住不可能なほど過酷な地域でした。
もし本当に、この“居住不可能”と思われていた時代と場所で人類が生存していたとすれば、従来の考えを根底から覆す発見となります。
そこで今回研究者たちは、新たに発掘された遺物(骨や木炭、石器など)を詳細に分析し、放射性炭素年代測定や気候復元など多角的な手法を用いて、この謎を解き明かすことにしました。
調査に当たってはまず、南チベット高原のPengbuwuqing(PBWQ)遺跡を徹底的に掘り下げ、骨・木炭・石器・赤い岩石(オーカー)など合計427点の遺物を回収しました。
これらの遺物は多くが土中に埋まっており、発掘時にはそれぞれの層の深さや位置関係を正確に記録していきました。
ここでのユニークな点は、ほかの高地考古調査に比べて細かい層位(地層の重なり)を丁寧に区分し、複数地点から試料を採取したことです。
こうすることで、出土品がどの年代に属し、どのような環境で使われていたかをより正確に推定できるようになりました。
次に、掘り出した木炭や骨に含まれる放射性炭素(^14C)を調べる「AMS(加速器質量分析)法」という年代測定技術を用いて、人類がいつごろここに住んでいたかを特定しました。
従来の放射性炭素年代測定より少量の試料で、かつ高精度に年代を割り出せるため、巨大な加速器を使った最先端の測定システムといえます。
その結果、約2万9200年前から2万3100年前にかけて、少なくとも3回にわたって人類が同じ場所で生活していたことが判明しました。
さらに、分析対象となった期間のうち2回は、地球上が最も寒冷化した最終氷期極大期に該当するという驚きの結果が得られたのです。
あわせて、石器の形状や作られ方(石を割り出す際の技術パターン)も入念に検証されました。
結果、寒冷地での狩猟や解体に適した「石刃(ブレイド)」技術が確認され、これが氷期の生存戦略に一役買っていた可能性が高いと示唆されました。
また、オーカーについてはラマン分光分析という方法を用い、ただの酸化鉄ではなく、古代人が意図的に運搬・加工していたことが裏付けられました。
これらの結果は「最も厳しい時期とされていた最終氷期極大期の高地で、人類が連続的に生存していた」ことを示しています。
従来、チベット高原ほどの高所は、この時代には“人の空白地帯”と考えられてきました。
しかし今回の発見は、地球規模の寒冷化をものともせず、川の流域というわずかな資源を頼りにした人々が存在していたことをはっきりと示しています。
この成果は、高度順応だけでなく、古代人類の環境適応力そのものを再評価する大きな契機となるでしょう。
最終氷期極大期を生き抜いたチベットの民はどこに行ったのか?
今回の研究から見えてきたのは、当時のチベット高原が「完全に居住不可能」だったわけではないという新たな視点です。
厳しい寒冷期にあっても、川の流域にはある程度の水資源や耐寒性の植物、そしてそれらを求めて集まる草食動物が生息可能な環境が残っていたと推測されます。
結果的に、人類にとってはそこが生存の拠点となり得たのです。
また、石刃(ブレイド)技術やオーカーの使用などから、寒冷地帯での狩猟や道具の維持管理、さらには装飾や意識的な表現行為といった高度な文化的側面がうかがえます。
つまり、氷期における人類の生活は「ただ寒さに耐えていた」だけでなく、環境に即した技術と文化を築いていたということです。
一方、最終的に彼らがこの地でどうなったのかについては、研究者たちは「H2寒冷事象」の到来によって急激な気候変化が起き、一度は居住が途絶えた可能性があると述べています。
H2寒冷事象(Heinrich Event 2)とは、最終氷期極大期に起きた一連の「ヘインリッヒ事象」のうちのひとつです。
ヘインリッヒ事象は、北半球の巨大氷床が崩壊した氷塊(icebergs)のように海へ流れ込んで、大量の氷塊が北大西洋に拡散した時期を指します。
氷塊が大量に海へ流れ出すと、塩分濃度や海流の流れが急激に変化し、結果として世界規模で気候に大きな影響がもたらされるのです。
最終氷期極大期はそれ自体が地球がとても寒冷だった時期ですが、ヘインリッヒ事象が起こると、さらに一時的に気温が下がったり乾燥が進んだりして、いっそう厳しい環境になると考えられています。
特に、H2寒冷事象(約2万4500〜2万3000年前頃)は、最終氷期極大期期の中でも“寒さの底がさらに深まった”ような特異なエピソードだったといえます。
つまり、「最終氷期極大期の中にあっても、さらにガクッと気温が落ち込む短期的な寒波があった」とイメージするとわかりやすいでしょう。
たとえば、川の流域など比較的住みやすい環境がわずかに残っていた場所でも、H2寒冷事象が到来すると、動植物資源のさらに激しい減少や急な乾燥化が発生した可能性があります。
最終氷期極大期自体が厳しい時代だったのに加え、この事象が追い打ちをかける形で、一時的に人々が移動せざるを得なくなったり、居住を続けられなくなったりしたと考えられます。
こうした短期間の気候変動が、当時の人々にとっていかに大きな脅威であったかを、H2寒冷事象は示唆しているのです。
その後、約2万3700〜2万3100年前ごろに再び人々が戻ってきた形跡があるものの、最終氷期極大期が終わった後に彼らがどこへ行き、どのように暮らすようになったかは明確にはわかっていません。
おそらく、さらに気候が変動する中で、より資源の豊富な地域へ移住したか、あるいは同じ高原内で適応を続けながら別の集団と混ざり合った可能性も考えられます。
しかし、その詳細を確定するためには、今後の遺伝子解析や他の考古学的証拠との統合的な研究が不可欠だといえるでしょう。
いずれにせよ、本研究で最も示唆的なのは、従来「不可能」とされていた時期と場所においても、わずかな地形的・気候的利点に柔軟に頼りながら、洗練された技術と社会的行為をもって生き抜いた古代人類の姿です。
これは、私たちが思っている以上に人類が多様な条件に適応できる存在であることを示すと同時に、過去の環境変化に対するレジリエンスの高さを再評価させる重要な発見です。
今後は、他地域の遺跡との比較やさらに深い層での調査によって、この地域での居住が季節的なものだったのか、年間を通した定住に近いものだったのか、そして彼らのその後の移住や集団形成がどのように進んだのかという、より詳細な生活実態の解明が期待されます。
元論文
Human Response to Cold Climate: First Evidence from the Tibetan Plateau during the Last Glacial Maximum
https://doi.org/10.1016/j.qsa.2025.100269
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部