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徳川四天王をつくったのは家康ではない…徳川の人事にグイグイ介入した秀吉が家臣に欲しがった武将の名前

  • 2026.10.31

「豊臣兄弟!」(NHK)では、ついに家康(松下洸平)が大坂城へ行き、秀吉(池松壮亮)の臣下に。「徳川四天王」の本多忠勝(夏生大湖)らが家康を護衛した。系図研究者の菊地浩之さんは「当時は徳川三傑と呼ばれたが、本多ら三人は秀吉からも高く評価されていた」という――。

「徳川四天王」は事実上、秀吉が選んだ

「徳川四天王」とは、徳川家康の有力部将である酒井忠次、榊原康政、本多忠勝、井伊直政の四人をいう。しかし、これは江戸時代に使われ始めた言葉である。

豊臣秀吉の時代は、酒井を除く三人を「三人衆」「三傑」と呼んでいた(『榊原家譜』による)。なぜ酒井が別扱いになっているのかといえば、世代が全く違うからだ。天正18(1590)年、小牧・長久手の合戦の時、榊原と本多は同い年の37歳、井伊はそれより13歳下の24歳。これに比べ、酒井は58歳。井伊の父親よりも年長なのだ(ちなみに家康は43歳)。

大阪城城豊國神社の豊臣秀吉像
大阪城城豊國神社の豊臣秀吉像(※写真はイメージです)

有力部将が三人いる。もう一人足して、四天王にしよう。そんな感じでセレクトされたのではないか? そして、この「三人衆」を事実上決めたのが秀吉だった。だから、「徳川四天王」をつくったのは秀吉なのである。

妹あさひの結納に「本多らを寄こせ」

小牧・長久手の合戦の後、天正14(1586)年4月、家康と秀吉の異父妹・あさひの婚儀が整えられた。家康は結納の使者に天野景能あまのかげよし(のちの康景)を派遣した。

ところが、秀吉は「天野は我の知らざる所なり、かゝる大儀の使には酒井、榊原、本多の内一人を上あげらるべきに、甚はなはだその意を得ず」(『徳川家康と其の周囲』)と立腹したという。

つまり、「天野みたいな聞いたこともない家臣を寄越すな。オレでも知ってるような重臣を寄越せ!」ということなのだが、天野家は酒井・石川家と並ぶ家老クラスで、鎌倉幕府の功臣・天野遠景の末裔。景能自身も「岡崎三奉行」の一人といわれた能吏である(ちなみに「豊臣兄弟!」で酒井忠次役の天野ひろゆきは岡崎市出身である。もしかすると一族なのかもしれない)。

おそらく天野は徳川家臣団で榊原・本多より序列が上だったのだろう。ところが、秀吉は榊原・本多の方が上だと主張。徳川家臣団内部の序列にも介入しはじめたのだ。結局、結納の使者には本多忠勝が上洛した。

愛知県岡崎市、岡崎公園の本多忠勝銅像
愛知県岡崎市、岡崎公園の本多忠勝銅像(写真=Evelyn-rose/CC-Zero/Wikimedia Commons)
関東平定で10万石クラスの家臣も

秀吉の徳川家臣団の序列介入はこれにとどまらなかった。天正18(1590)年、秀吉は小田原北条家を攻め、家康はその先鋒を任された。小田原北条家が降伏、改易されると、同年7月、秀吉は小田原城に入城して論功行賞を行い、家康には北条家旧領の伊豆、相模、武蔵、上総かずさ、下総しもうさ、および上野こうずけと下野しもつけの一部が与えられた(現在でいうところの、群馬県と栃木県の一部を除く関東一円に伊豆半島を附けた地域)。

関東での知行割は上野箕輪城(群馬県高崎市)12万石の井伊直政を筆頭に、上野館林城(群馬県館林市)10万石の榊原康政、上総大多喜城(千葉県大多喜町)10万石の本多忠勝が続いた。かれらに続くものが、相模小田原城(神奈川県小田原市)4万5000石の大久保忠世(ちなみに忠世の嫡男・大久保忠隣は武蔵羽生2万石、弟・大久保忠佐は上総茂原に5000石を与えられており、一族としては7万石強を拝領していたと思われる)。以下、鳥居元忠の4万石、平岩親吉の3万3000石と続く。

【図表1】徳川家臣団の知行地ランキング・天正18(1590)年
若かったから「三傑」になった

関東入国にあたって、秀吉から「三傑」をどこに何万石で配置するか、具体的な指示があったという。

ここで一つ問題提起をしたい。ではなぜ徳川家臣団のうち、「三傑」だけが特別待遇なのか。徳川家臣団は酒井忠次・石川数正を東西の旗頭とし、これに家康直属の旗本を加えた「三備」体制を敷いていたが、数正の出奔で、井伊直政、本多忠勝、榊原康政、大久保忠世、鳥居元忠、平岩親吉、および酒井家次から成る「旗本七備」体制に再編された。

【図表2】徳川家臣団の体制の変化
秀吉をディスっても許された榊原

忠次の子・酒井家次は別扱いとして、「三傑」の井伊直政・本多忠勝・榊原康政と、大久保忠世・鳥居元忠・平岩親吉の間にはいかなる差異があったのか。その答えは、前者が小牧・長久手の合戦で秀吉に鮮烈な印象を与えたのに対し、後者はさほど印象に残らなかったからだ。

榊原康政の肖像画、江戸時代
榊原康政の肖像画、江戸時代(写真=文化庁所蔵品/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

それまで徳川家臣団の戦巧者と知られていたのは酒井忠次だったが、小牧・長久手の合戦で作戦を具現したのは榊原康政だった。のみならず、康政は先陣を承り、秀吉軍の戦意をくじくため、秀吉を罵倒した檄文を触れ回した。秀吉はこれを聞いて激怒し、康政を討った者には望み次第恩賞を与えると叫んだが、家康と講和すると、上洛した康政に会い、その労をねぎらった。

楊洲周延画の版画、小牧山の戦いで秀吉を追いかける榊原康政、1912年以前
楊洲周延画の版画、小牧山の戦いで秀吉を追いかける榊原康政、1912年以前(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
「赤鬼」と恐れられた最年少の井伊

井伊直政は「井伊の赤備あかそなえ」を率いて、三好信吉(のちの豊臣秀次)軍急襲の先手を任され、「赤鬼」と恐れられた。全軍、朱色の鎧・兜を身にまとった軍団で、そもそもは甲斐武田家の「山県昌景の赤備え」を継承したものである。

井伊直政の肖像画、江戸時代(彦根城博物館所蔵)
井伊直政の肖像画、江戸時代(彦根城博物館所蔵)(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
なぜ本多は秀吉に認められたのか

秀吉は三好隊の敗報を聞き、約2万の本隊を率いて急ぎ長久手に向かった。その時、本多忠勝は酒井忠次・石川数正と小牧城の留守を預かっていたが、秀吉の行軍を遅らせるべく出陣。500の手勢を率い、大軍と小川を隔てて相並んで進んだ。しかも、秀吉の眼前で馬から下り、馬の口を洗わせるという大胆不敵な行為に及んだ。

本多忠勝の肖像画、江戸時代(良玄寺所蔵)
本多忠勝の肖像画、江戸時代(良玄寺所蔵)(写真=千葉県立中央博物館大多喜城分館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

秀吉の家臣が「討ちましょう」という声を抑えて、秀吉は「いやいや、あの様な者は生かしておくものだ。わが家中に来てはくれまいが、もし来てくれるならば、何程の重宝となるべし、とにかく手出し致すな」と命じたという。

「三傑」の三人はかくのごとく、秀吉に鮮烈な印象を与えたのだ。ではなぜ、大久保・鳥居・平岩の三人は秀吉の印象に残らなかったのか。それは、かれらが遠江・甲斐の城を守っており、小牧・長久手の合戦に参加しなかったからだ。

【図表3】四天王ではない徳川家臣・小牧長久手の合戦時の配置
城主でなかったから、合戦で身軽に動けた

ではなぜ、大久保・鳥居・平岩の三人が城主に登用され、「三傑」が城主に登用されなかったのか。それは、大久保・鳥居・平岩の三人が、「三傑」の本多・榊原・井伊の三人より年長だったからだ。おそらく、家康は城主・城代クラスを登用するにあたり、ある程度、年功序列を勘案して人選したのだろう。

つまり、「三傑」は若かったから、関東入国まで城主に登用されなかった。城主にならなかったから、城を守ることなく、小牧・長久手の合戦で秀吉に鮮烈な印象を与え、秀吉から徳川を代表する家臣と認識された。そのため、10万石以上の高禄を与えられたのだ。

秀吉に恨まれ大名になれなかった武将

逆の例もある。「豊臣兄弟!」でも描かれたように、秀吉は妹のあさひを家康に再縁させ、さらに母親・大政所を見舞いとして、家康のもとに派遣した。家康がなかなか上洛・臣従しなかったことに業を煮やして、秀吉は母親を人質に出したのだ。

さすがに実の母を人質に出すようなことはしないだろう、別人を身代わりに立てたのではないかと徳川家臣団はいぶかしがった。ところが、岡崎城で母娘が対面するなり、互いの無事を確かめ合ってワンワン泣き出したので、こりゃあ本物に違いないと得心したという。

岡崎城は石川数正が城代を務めていたが、数正の出奔により本多重次が城代になっていた。冒頭の天野康景等とともに「岡崎三奉行」を務め、「仏高力ほとけこうりき、鬼作左おにさくざ、どちへんなしの天野三兵」(高力清長は仏のようで、本多作左衛門重次は鬼のように剛直。天野三郎兵衛康景はそのどちらでもない)と謳うたわれた人物である。

現在の岡崎城
現在の岡崎城の一部(※写真はイメージです)
人質として来た大政所への脅し

重次は大政所の宿舎周辺に大量の薪を積んだ。上洛した家康に万一のことがあったら、秀吉の母を焼き殺すぞ、というわけである。大政所は秀吉のもとに帰ると早速この話をした。秀吉は怒り心頭で、家康の関東移封に際して、重次は3000石で蟄居を命じられた。

実は同僚の天野康景も3000石だったので、家康としてはうまくごまかしたつもりだったのかもしれない。天野は関ヶ原の合戦後に駿河興国寺1万石に栄達したが。重次は秀吉の生前に死去してしまったので、その恩恵にあずかれなかった。「三傑」とは逆に、秀吉に気に入られなかったから大名になれなかったケースである。

重次の子・本多成重は越前丸岡藩4万6300石を賜ったが、重次の玄孫・本多重益の時に御家騒動が起きて改易。子孫は2000石の旗本となった。天野・高力も大名になったが改易され、旗本として存続している。これも何かの縁かも知れない。

【図表4】徳川四天王・本多忠勝の系図

菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『財閥と閨閥 10大財閥の婚姻戦略』『財閥と学閥 三菱・三井・住友・安田、エリートの系図』『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『一目で流れがわかる業界変遷100年史』(KADOKAWA)など。

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