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嫡男が生まれないのは秀吉のせいではなかった…茶々より前に「秀吉の息子」を産んだ"2人の女性"の素性

  • 2026.10.26

テレビドラマや映画では、秀吉の子を生んだのは淀殿こと茶々のみと描かれがちだ。歴史学者の黒田基樹さんは「史料によると、秀吉には信長の家臣時代に2人、男子が生まれたと考えられる。2人目の子を産んだのは播磨の国主の家系の娘だった」という――。

※本稿は、黒田基樹『信長時代の羽柴秀吉』(角川選書)の一部を再編集したものです。

信長の家臣として長浜城主になったときの子

長浜領時代の秀吉に、別妻・南殿みなみどのと嫡男・石松丸秀勝が存在していたので、ここで取り上げることにしたい。

長浜城(復興天守)
秀吉が信長から初めて所領を与えられ、城主となった長浜城(復興天守)(写真=投稿者おにく/CC-Zero/Wikimedia Commons)

天正4年頃の「竹生島奉加帳」には、筆頭に秀吉の署判があり、続いて「御内方」(寧々)・「大方殿おおかたどの」(天瑞寺殿)・「石松丸」・「大方殿」・「南殿」が記されている。「御内方」から「南殿」までの記載は同一年におけるものとみなされ、「御内方」から「石松丸」までが5月6日の寄進、続く二度目の「大方殿」の寄進は10月吉日の寄進、それに続く「南殿」の寄進は、記載の連続性からみてそれと同日のこととみなされる。

ここにみえている石松丸は、秀吉妻寧々・秀吉母天瑞寺殿に続いて記されていることから、秀吉の嫡男と推定され、次いで二度目の天瑞寺殿に続いて記されている「南殿」は、寧々・天瑞寺殿に準じる女性ととらえられるため、秀吉の別妻で石松丸の実母と推定される。

この石松丸は、この天正4年の10月14日に死去した、実名秀勝と伝えられる、法名本光院朝覚居士(大禅定門)にあたると推定される。本光院が、寺伝にいうように秀吉の子で「秀勝」といったのかどうかは確定されないが、妙法寺の供養塔は、16世紀後半のものと比定され、同時代にあたるとみなされていることを踏まえると(山本順也「朝覚秀勝の再検討」〈拙編『羽柴秀吉一門』所収〉)、寺伝の信用性は高い。本光院が、実名を秀勝といい、秀吉の子であったことは、確かな事実ととらえてよい。

狩野随川画「豊臣秀吉像」
狩野随川画「豊臣秀吉像」名古屋市秀吉清正記念館蔵(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons)
秀吉の最初の子、秀勝は元服後に早世したか

妙法寺には秀勝画像があり(焼失)、そこに描かれている容姿は、「稚児風」、「袴着の儀式を行った際の晴れ姿」「三才から七才までのあいだの幼児におこなわれたもの」と評され、元服前に早世したと理解されている。画像からだとそう考えざるをえないが、「竹生島奉加帳」に名が記されていることから、その時点で、社会的に認知される8歳を超えていたと考えられる。

その場合、少なくとも永禄12年(1569)以前の生まれととらえられる。

画像賛・位牌では、元服後に対応する「居士」「大禅定門」が付けられ、実名として「秀勝」が伝承されていることからすると、本光院は元服を済ませていて、それにより実名を名乗っていたと考えるのが適当である。元服は通常、15歳でおこなわれるから、石松丸秀勝は、死去した天正4年に15歳とみると、生年は永禄5年(1562)と推定される。

秀勝の母は秀吉の妻と認められていた

このことは実母と推定される南殿の立場をとらえるうえで大きな問題となる。従来は「側室」ととらえられていたが、この時代にその概念は存在せず、別妻か妾にあたる。いずれにあたるのかは確定できないが、「南殿」という呼称と殿付けで称されていることから、別妻の可能性が高い。「南殿」とは、本屋敷とは別棟の、南側に建てられた屋敷についての呼称であり、大名家の場合、家妻になっていない当主の正妻や、嫡男の正妻についての呼称として多くみられている。そこからもこの南殿は、秀吉の妻として扱われていたととらえられ、その立場は、正妻・寧々の存在を踏まえて、別妻とみなされる。

南殿については、「竹生島奉加帳」に、天正5年11月22日の奉加に、「御城のうは」に続いて「御城の南殿」とみえているのが、史料にみえる最後になっている。

石松丸秀勝が死去した天正4年の時点で、寧々は秀吉正妻として「御内方」と称されていた。秀吉と寧々の結婚は永禄8年と推定されるので、その時には、秀吉の妻妾としてすでに「南殿」が存在し、さらにその子として石松丸秀勝が存在していたことになる。おそらく「南殿」は、当初は妾として存在していたのだろう。秀吉と寧々の結婚後、嫡男の生母として、別妻に位置付けられ、その地位を寧々から承認されるとともに、石松丸秀勝を秀吉の嫡男とすることも寧々から承認された、という状況が推測される。

三法師を抱く秀吉
信長が本能寺の変で死去した後、その嫡孫・三法師を抱く秀吉、『絵本太閤記』より(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons)
秀吉の別妻「大田」と嫡男「太郎」

秀吉にはこの播磨時代に、別妻の「大田」と、それとの間に生まれた嫡男「太郎」がいたことが推定されるので(拙稿「新事実‼ 播磨時代の秀吉に実子がいた」)、ここでそれについて取り上げておきたい。ただしそのことは、現在のところ当時の史料では確認されない。後世成立の史料から推定されるのだが、かなり確度は高いと考えられる。

典拠となっている史料は、江戸時代岡山池田家家臣・梶田平助の由緒書である(『岡山藩家中諸士家譜五音寄1』182頁・「吉備温故秘録」干城〈『吉備群書集成』〉57頁)。梶田平助の先祖は、その祖父にあたる肥塚大炊介(大炊助)という人物で、播磨赤松家家臣であったことが記されている。

それらの奉公書には、秀吉は、天正5年(1577)の播磨進軍以降、播磨国主・赤松家の娘「大田」を妻に迎え、実子「太郎」を儲けたこと、しかし「太郎」はわずか3歳で死去したこと、が記されている。

秀吉の第二子を産んだのは国主の娘?

当時の赤松家としては、本家の置塩赤松則房と庶家の竜野赤松広英(のち斎村広英)が存在していた。両者は秀吉が播磨に進軍する以前の時期に、すでに織田信長に従属していた。秀吉が播磨に進軍し、同国を統治するにあたって、国主赤松家と婚姻関係を形成することは、極めて蓋然性が高い事態とみなされる。またそのことは、織田家家老の地位が、当時においてすでに、諸国の国持大名とも同等に位置付けられていたことをうかがわせるものとなる。そしてその婚姻は、信長の指示によると考えられる。そのため赤松氏娘は、秀吉の妻の一人として、すなわち正妻・寧々の存在を踏まえるならば、別妻として迎えられたと推定される。

寧々(ねね)の出家後の姿
秀吉の正妻・寧々(ねね)の出家後の姿、17世紀(高台寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

秀吉と「大田」の結婚が、天正5年のことであったとすると、その間に生まれた「太郎」(これは仮名ではなく、単に長男の意味だろう)は、同6年の誕生と推定される。その時の「大田」の年齢を、当時の武家女性の平均的な第一子出産年齢である20歳に当てはめてみると、その生年は永禄2年(1559)頃と推定される。

「大田」が、どちらの赤松家の娘であったのかは明記されていないが、梶田の奉公書には、肥塚は単に「赤松家」の家臣とあり、「大田」も単に「赤松家」の娘とあることからすると、本家の置塩赤松家の出身ととらえるのが妥当と考えられる。その場合は赤松則房の姉、赤松義祐の娘にあたるとみられる。現時点ではそのように想定しておくのが妥当と思われる。

男児「太郎」は3歳で死去した

そして「太郎」が天正6年生まれであったとすると、3歳で死去したというから、天正8年に死去したと推定される。そこで注目されるのは、同年3月から、秀吉の養嗣子として「次秀勝」(織田信長五男)が、わずか13歳で登場していることである。この経緯をみると、「太郎」死去をうけて、秀吉はすぐに信長に於次丸おつぎまるを養嗣子に迎えることを申請し、それを信長も承認し、養子入りとともに元服したという推定が成り立つだろう。さらに幼名於次丸は、早世した「太郎」にならっての命名という見立ても可能かもしれない。このように「太郎」の存在をもとにすると、秀吉が次秀勝を養子に迎える経緯と時期について、順当に理解することができることになる。

有名な信長から寧々への手紙
黒田基樹『信長時代の羽柴秀吉』(角川選書)
黒田基樹『信長時代の羽柴秀吉』(角川選書)

同様に、秀吉の播磨時代における事柄で、順当な理解が可能になることが、もう一つあげられる。それは信長が、寧々に出した朱印書状の存在である。同文書は、信長が、寧々の「悋気りんき」を戒め、秀吉の正妻として泰然とした態度を維持することを諭したものとして、極めて著名な存在である。ところが近年の大名家正妻についての研究を踏まえると、その内容はにわかに理解し難いものとなっていた。夫の別妻や妾については、正妻の承認、あるいは選定によるものと考えられるにもかかわらず、同文書にみえている、悋気を生じること、しかもそれを主人の信長が諭す、という事態が、それと全く整合しないからである。

しかしそれについても、秀吉が信長の命令によって、赤松氏娘「大田」と結婚し、さらに男子が生まれていたことを差し込んでみると、順当な理解が可能になる。その結婚は、主人信長の差配によるものであり、そのため正妻であったものの寧々には全く裁量の余地はなかったとみなされる。

織田信長像(模本)
織田信長像(模本)、原本は安土桃山時代、模写は明治時代。東京国立博物館所蔵 出典:ColBase
信長が別妻を差配、寧々の正妻の座を保証したか

そのため寧々は「悋気」を生じさせることになり、信長はその原因を作ったことをうけて、寧々を戒める書状をわざわざ出したと考えられることになろう。さらには「大田」から嫡男が生まれたことで、寧々の正妻としての立場が揺らぎかねない状況になり、それに対して信長は、あらためて寧々が正妻であることを保証した、ということも想定できるかもしれない。ちなみに同文書で秀吉は「藤吉郎」と称されている。これは天正6年10月以降にあたっている。まさに播磨時代に出されたものであり、時期も整合している。

これらのことから、秀吉が播磨時代に、赤松氏娘と結婚し、長男「太郎」をもうけたという所伝は、かなり確度の高い事柄と認識することができる。そしてそれが事実であれば、これまでさかんに言われていた、秀吉は「種なし」ということも、全くの臆測であったということにもなろう。

黒田 基樹(くろだ・もとき)
歴史学者、駿河台大学教授
1965年生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。博士(日本史学)。専門は日本中世史。著書に『下剋上』(講談社現代新書)、『戦国大名の危機管理』(角川ソフィア文庫)、『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書)、『戦国北条五代』(星海社新書)、『戦国大名北条氏の領国支配』(岩田書院)、『中近世移行期の大名権力と村落』(校倉書房)、『戦国大名』『戦国北条家の判子行政』『国衆』(以上、平凡社新書)、『お市の方の生涯』(朝日新書)など多数。近刊に『家康の天下支配戦略 羽柴から松平へ』(角川選書)がある。

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