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『火の女神ジョンイ』のモデルを支えた名匠・深海宗伝とは何者だったのか

  • 2026.9.14

韓国時代劇『火の女神ジョンイ』の主人公のモチーフとなったとされる百婆仙(ペク・パソン)。その生涯を語るうえで欠かせないのが、夫である深海宗伝の存在だ。

深海宗伝は、李参平と並んで日本の陶磁器文化の発展に関わった朝鮮人陶工の一人とされている。ただし、その本名や朝鮮半島での詳しい経歴については、明らかになっていない部分も多い。

本名が残されていない朝鮮人陶工

深海宗伝という名は、日本へ渡った後に使われた名前と考えられている。朝鮮半島にいた頃の本名は不明である。「深海」という土地にゆかりがあり、故郷への思いから深海氏を名乗ったという説も伝えられている。

戦争によって日本へ連れてこられた人々のなかには、朝鮮半島で使っていた名前や経歴が記録に残らなかった者も少なくない深海宗伝もまた、陶工としての足跡は伝わっているものの、一人の人物としての生い立ちには不明な点が多い。

それでも、彼が日本の陶磁器文化に重要な役割を果たしたことは、後世まで語り継がれている。

武雄の領主から土地を与えられる

日本へ渡った深海宗伝は、肥前国武雄の領主だった後藤家信から土地を与えられたとされる。そこで陶磁器の生産拠点を築き、朝鮮半島で培った技術を生かして作陶を続けた。

宗伝が製作した器は、藩や寺院へ献上されたとも伝えられている。単なる労働力ではなく、高度な技術を持つ職人として一定の評価を受けていたことがうかがえる。

当時の大名にとって、優れた陶工の存在は領地の産業を育てるうえで重要だった。

陶磁器を安定して生産できれば、日用品や茶器として使えるだけでなく、藩の特産品として外部へ売ることもできる。宗伝の技術は、肥前の陶磁器文化を形作る一つの力となったのである。

李参平とは異なる形で残った名

有田焼の始祖としては、李参平の名が広く知られている。

一方、深海宗伝については、李参平ほど詳しい記録が残っているわけではない。それでも、有田焼や武雄周辺の陶磁器文化の成立に関わった人物として、その名は歴史に刻まれている。

深海宗伝の重要性は、本人の功績だけではない。

没後400周年に権利された顕彰碑(出典=株式会社深海商店 https://enogu-fukaumi.co.jp/news/1572.html)

彼が伝えた技術は、妻の百婆仙や息子たちへと受け継がれた。宗伝の死後も一族が作陶を続けたことで、その技術は途絶えることなく次の時代へ残されたのである。

妻・百婆仙とともに守った窯の火

百婆仙は、深海宗伝の妻として日本へ渡ったと伝えられている。『火の女神ジョンイ』では、主人公ジョンイが天才的な才能を持つ女性陶工として描かれる。しかし、史実の百婆仙が若い頃からどのように作陶に携わっていたのかについては、詳しい記録が限られている。

それでも、夫婦がともに陶磁器作りの環境に身を置いていたことは、彼女がのちに陶工たちをまとめる存在となった背景を考えるうえで重要である。

百婆仙は、宗伝の技術を最も近くで見ていた人物の一人だった。土の選び方、窯の扱い、器の焼き方。夫が積み重ねてきた技術と経験は、百婆仙や家族へ受け継がれていったと考えられる。

夫の死が百婆仙の人生を変えた

深海宗伝が亡くなると、百婆仙は大きな決断を迫られた。夫という中心人物を失ったことで、工房や一族の作陶が途絶える可能性もあった。

しかし、百婆仙は窯の火を消す道を選ばなかった。息子の平左衛門らとともに陶磁器作りを続け、夫が残した技術を守ろうとしたのである。

深海宗伝は、名匠として器を残しただけではない。その技術と志を妻や子へ託し、次の世代へつなげた。そして、その遺志を受け継いだ百婆仙は、やがて一人の陶工の妻という立場を超え、多くの陶工を率いる指導者へと変わっていくことになる。

文=森下 薫

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