1. トップ
  2. エピソード
  3. 目が合うたび「お出かけですか」と声をかけてくる管理人、防災訓練で私が知ったこと

目が合うたび「お出かけですか」と声をかけてくる管理人、防災訓練で私が知ったこと

  • 2026.9.1
ハウコレ

ポストに入っていたのは、色鉛筆で塗り分けられた手書きの避難経路図でした。差出人の名前はどこにもありません。心当たりは1つ、毎日エントランスを掃いている、あの管理人さんだけでした。

ほうきの音と決まり文句

私は1人暮らしを始めたばかりの会社員で、管理人さんはエントランスの掃除ばかりしている60代くらいの男性です。勤めに出るときも、休みの日に買い物へ出るときも、ほうきの音の向こうから同じ調子で「お出かけですか」と声が飛んできました。はい、とだけ返して足を速める日が続くうち、出かける時間まで覚えられているようで、落ち着かない気持ちが積もっていきました。そのうち私は、エントランスを通らずに済む裏の階段から出入りするようになりました。

掲示板の貼り紙

ある日、掲示板に防災訓練の案内が貼り出されました。その横には、ポストに入っていたものと同じ色使いの、大きな避難経路図が並んでいます。裏の階段ばかり使っている後ろめたさもあって、私は参加することにしました。当日、中庭には消火器の実演を囲む輪ができていて、管理人さんは名簿を片手に立っていました。用事で途中で抜ける住人が出るたび、いつものほうきの向こうと同じ調子で「お出かけですか」と声がかかります。年配のご夫婦にも、子ども連れの家族にも、言葉は1つも変わりませんでした。私にだけ向けられた質問ではなかったのだと、そこで初めて気づきました。

パイプ椅子を畳みながら

片づけの時間、隣で椅子を畳んでいた管理人さんに、私は経路図のお礼と一緒に、毎朝の質問のことを口にしました。見られているようで気になっていました、と。返ってきたのは、予想していなかった言葉でした。「決まった言い方しか、できなくてね」。管理人さんは名簿を胸に抱えたまま続けました。「気の利いた話が続かなくて。同じ言葉に逃げていました」。図は描けても言葉が続かないのだと笑う横顔に、裏の階段のことまで見抜かれている気がして、私は畳んだ椅子を壁に立てかけてから、頭を下げました。「私も、避けてばかりでした」

そして...

翌朝、エントランスにはいつものほうきの音がありました。「お出かけですか」。私は振り返って、「いってきます」と返しました。あの経路図は、玄関の内側に貼ってあります。表から出かける理由は、それで十分でした。

(20代女性・会社員)

本記事は、ハウコレ読者への独自アンケートに寄せられた実体験をもとに制作していますが、個人が特定されないよう、一部設定を変更しています。

(ハウコレ編集部)

元記事で読む
の記事をもっとみる

注目コンテンツ