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「人は死ぬ。必ず死ぬ。時に呆気なく死ぬ。」人間の大きな愛と、生きとし生けるものの本当の幸福とは?『海霧 ─ジリ―』【馳 星周 インタビュー】

  • 2026.6.21

※本記事は、雑誌『ダ・ヴィンチ』2026年7月号からの転載です。

不幸な生い立ちから若くして人生に倦んでいる男と無邪気で奔放な美女。そんな二人がある事件をきっかけに当てもない逃避行を始める――そんなあらすじの馳星周作品ならば、当然ボニー&クライド型のエロスとバイオレンスに満ちたノワール小説だろうとの先入観をもって読み始めた。だが、まったく違った。

「この作品のテーマは“大きな愛”です」

そう断言する馳さんの言葉通り、本作は普遍的な愛を丹念に描いた小説だった。そして、その核にいるのは一匹の老いた犬だった。

寄る辺ない寂しい二人をあたたかく結ぶ優しき老犬

物語の舞台は北海道・函館。海鼠の密漁で荒稼ぎしているヤクザの組織に雇われる大樹は、単調な日々を刹那的に生きている。

人は死ぬ。必ず死ぬ。時に呆気なく死ぬ。

大樹はたびたび心の中でそう繰り返す。十代のある日、たった一日で身の回りの人間を二人も失くした経験によって、強く心に刻み込まれたのだ。とはいえ、自暴自棄で荒れた生活を送っているわけではない。ジリという一匹の老いたボーダー・コリーがいつも側にいて無償の愛をくれることで、大樹は一線を越えることなく生きてこられた。

「僕自身もう30年ぐらい犬と暮らしているのですが、犬って無条件の愛を体現する存在なんです。人間みたいに、俺はこれやってあげるからお前はこれしてくれとか、そういう駆け引きが一切ない。ただただ純粋に愛してくれる。人間の場合、愛にもどうしてもエゴが入っちゃうものです。だけど、それでも人間同士の間でだって大きな愛が生まれないかな、みたいなことを常に考えている中で生まれてきた物語でした」

固い絆で結ばれた大樹とジリ。その間に入ってきたのが霧子だった。カラオケパブのホステスで、ヤクザの愛人。派手な美女で、欲望に忠実で、後先考えない。トラブルメーカーとしての資質は十分すぎるほどだが、大の犬好きだった。

「ジリがいるから、大樹と霧子は『群れ』になります。人間だけなら男女はつがいになって終わり。しかし、犬が入ると愛のある群れになれる。それを前提に、今回はその愛を生ききる話にしたいなと思ったんですね。そしてもう一つ、ロードノベルにもしたかった。だから二人と一匹が北海道を逃げ回る物語にしたんです。ただし、僕はいつも構成だとか結末だとかをきっちり決めて書くタイプの小説家ではないので、気がついたらこんな話になっていた、という感じではあるのですが」

最初こそ無防備に近づいてくる霧子を警戒していた大樹とジリだったが、まったく悪気がないとわかるにつれ、大樹は彼女に惹かれていき、ジリも新たな仲間として受け入れるようになる。霧子もただ大樹との恋に夢中になるだけでなく、老いからの腎臓病を発症したジリの世話に心を尽くす。北海道のあちらこちらを自動車で逃げ回りながら、それでもお互いがお互いのために、ただただ心を尽くして行動しようとする彼らの姿はとても美しく、人間らしい。

さらに、旅の途中で出会う気難しそうな、あるいは一癖も二癖もありそうな人間も、ジリがいることで心を許してくれる。破滅と隣合せの逃避行であるはずなのに、ヒリヒリした危機感より、穏やかな空気が行間から溢れ出ているのだ。

「たとえば僕が今30代とか40代前半ぐらいの年だったら、この小説も破滅の物語にしたかもしれません。でも、60歳になった今、そういうのはもういいや、ってなってきたんですよ」

デビュー30年を迎え 今、本当に書きたいもの

今やノワール小説の金字塔となった『不夜城』で華々しくデビューしたのは1996年。今年はデビュー30周年に当たる。

「デビュー当初はものすごく突っ張っていたんです。『不夜城』が大ヒットしたことで、世の中が何でもかんでもノワールノワールと言い始めちゃったのを見て、そんなの全然そんなノワールじゃねえよ、俺しか本物のノワールは書いてないんだよ、ぐらいの勢いで。でも、45歳になった頃に気持ちの変化があった。これからはその時書きたいものを書きたいように書こうって決めたんです。以来、犬をフィーチャーした物語だとか、ラブコメみたいな話だとかも書いたりするようになって、ようやく小説家は自分の天職なんだなと思えるようになったんですね。今でもノワールは好きですし、よい題材があれば書くでしょう。でも、昔みたいに破滅一方の物語にはならないんだろうなと思います」

社会の変化も、今回の作品を生む原動力のひとつになった。

「今の世の中、もう完全に愛が足りてないですよね。特にこの10年ぐらい日本で起きているいろんなことを見ていると、強くそう感じるようになりました。まあ、時代が変わっていくのはしょうがない。けれども、なんでこんなに悪い方に変わってしまったんだろうと疑問を感じるんです。でも、それは間違いなく、僕ら昭和世代の人間がろくでもないことをしてきたからではある。特にバブル時代。僕はバブル期が青春時代だったけれど、あれ以降、日本の社会は大きく変わってしまったのを実感しています。そして、そうなった理由は、やっぱり愛がなくなったからだと思っているんですよ。大きな愛――キリスト教でいうところの隣人愛のようなものが失われて、それこそブルーハーツの歌にあるような弱いものがさらに弱いものを叩く、そういう世界になってしまった。だからこそ、大きな愛について一度きちんと書きたいなと思ったんです。そして、そう思うようになったきっかけは、これまで飼った犬たちの存在でした。無条件の愛を与えてくれるものと暮らしていると、こちらもギスギスできない。人間がギスギスしていたら犬がかわいそうなのでね」

しかし、そこは馳さんの作品。単なるゆるふわで終わるはずがない。本作ではもうひとつ根源的な問いが追求されている。それは「生きとし生けるものにとって本当の“幸せ”とはなにか」ということだ。

「大樹も霧子も、そしてジリは“今この瞬間”を生きているんですよ。それがいかに大切なのか、やはり犬から教わりました。過去に起きたことから未来を予測して、あれこれ悩むのは人間だけです。 もちろん、犬も嫌なことがあったらちゃんと覚えていて、それを避けようとしたりするけれども、基本的には“今この瞬間”しかない。ご飯だ、散歩だ、飼い主が帰ってきた! というようにその時その時の喜びを全力で味わって、だからこそあいつらは幸せなんですよ。だって恐れることは何にもないんだから」

大樹と霧子、そしてジリは五里霧中の逃避行すらかけがえのない時間に変えていく。

「過去に囚われたり、未来を気にしたりしすぎることもなく、悲壮感も恐怖もない。今だけを精一杯生ききって気がついたら死んでいた、ぐらいが僕にとっては理想の生き方です。現代の人間は死を恐れ過ぎているんじゃないでしょうか。生きた時間自体は短くても、満足りて死んでいけることもある。あの世があるのかどうかは知らないけど、精一杯生きて、愛する人と巡り合えて、愛し合って死んだんだとしたら、それはそれほど悲しい人生とは言えないのではないかというのを問いかけたかった。とはいえ、読んで何を感じるかは読んでくれた方の自由です。僕が保証できるのは、読んでいる間だけは時間を忘れさせますよ、ということだけですね」

取材・文:門賀美央子 写真:川口宗道

はせ・せいしゅう●1965年、北海道生まれ。96年『不夜城』でデビュー。同作で第18回吉川英治文学新人賞及び第15回日本冒険小説協会大賞、98年『鎮魂歌 不夜城Ⅱ』で第51回日本推理作家協会賞、99年『漂流街』第1回大藪春彦賞、2020年『少年と犬』で第163回直木賞を受賞。著書に『飛越』『黄金旅程』『雨降る森の犬』『ロスト・イン・ザ・ターフ』など多数。

『海霧 ─ジリ―』

(馳 星周/KADOKAWA) 2310円(税込)

親しい人間を立て続けに亡くし、函館へ流れ着いた青年・大樹は、暴力団の若頭補佐・宮嶋の下で海鼠の密漁に手を染めていた。相棒は、見張り役を務める老犬のジリ。ジリの体調不良を機に、大樹は犬好きのホステス・霧子と親密になるが、彼女は宮嶋の情婦だった。二人と一頭が孤独を分け合い、ともに生きる道を歩み出そうとした時、霧子が思わぬ事態を招いてしまい……。

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