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白洲正子は民藝をどう見ていたのか。定説を覆す蔵書の発見と読み解き

  • 2026.4.2
撮影=セドリック・ディラドリアン

美の真髄を独自の審美眼で追い求めた随筆家、白洲正子。彼女が暮らした武相荘(ぶあいそう)の書棚に遺されていた柳宗悦の著書『茶と美』を開いてみると、正子による線引きや書き込みが50カ所ほども見つかりました。

一般に、白洲正子は民藝運動に対して批判的だったというイメージがありますが、じつはそうではなかったのではないか——。本レポートでは、旧柳宗悦邸にて正子所蔵の『茶と美』を繙きながら、稀代の目利きである二人の共通思想に迫ったクロストークの模様をお届けします。いまなお創造と美に携わる人々に多大な影響を与え続ける、二人の真髄に触れる意欲的な試みです。

2026年2月28日開催 「白洲正子所蔵 柳宗悦 著『茶と美』を、旧柳宗悦邸でめくる。」【登壇者】
撮影=セドリック・ディラドリアン

森岡督行〇もりおかよしゆき(森岡書店代表・東北芸術工科大学客員教授)著書に『800日間銀座一周』(文春文庫)、『ショートケーキを許す』(雷鳥舎)など。GINZA SIX Podcast「銀座は夜の6時」ではパーソナリティーを担当している。

撮影=セドリック・ディラドリアン

南雲浩二郎〇なぐもこうじろう(ビームス ディレクターズ バンク クリエイティブディレクター)1985年入社、店舗スタッフ、VMD統括を経て店舗内装のディレクションを担当、120店舗以上の出店に関わる。社外では武相荘ミュージアムの展示、コンランショップのVMDアドバイザリーや企画展の構成、和光アーツアンドカルチャーでの企画展のキュレーションなど多岐にわたる。

【オブザーバー】
撮影=セドリック・ディラドリアン

杉山享司〇すぎやまたかし(日本民藝館 常務理事)早稲田大学を卒業後、日本民藝館に学芸員として勤務し、2008年から学芸部長、現在は常務理事に就任。専門分野は、民芸運動を中心とする工芸史や工芸論、博物館学。日本民藝館の運営や展覧会の企画をはじめ、教育普及の活動に携わる。

撮影=セドリック・ディラドリアン

澤田理沙〇さわだりさ(表千家教授)6歳より祖母のもとで茶道を始める。慶應義塾大学卒業後、日本ブランドの海外展開に携わる。出産を機に新潟へUターン。現在は環境系スタートアップで広報として勤務する傍ら、茶道教室や茶会を通してお茶の楽しみ方を提案している。サステナブル経営学MBA。

白洲正子の本棚

写真提供=旧白洲邸武相荘

随筆家である白洲正子の多岐にわたる蔵書の数々は、いまもなお生前正子が読んだほぼ当時のまま、武相荘の書斎の本棚に並んでいます。その本棚から一冊を選び、内容や印象について、武相荘で語り合うトークイベント「白洲正子の蔵書を読む」会。その第2回「柳宗悦 著『茶と美』を、旧柳宗悦邸でめくる。」が、スピンオフ企画として東京・駒場にある日本民藝館西館で開かれました。

なぜこのテーマがこれほどまでに"スリリング"なのか

森岡督行さん(以下森岡) そもそもは、現在武相荘の展示をディレクションされている南雲(浩二郎)さんからお声がけいただいて始まった企画で、初回は馬場あき子さんの『鬼の研究』(1988年 筑摩書房)を小説家の朝吹真理子さんと読み解きました。そして2回目の今回、最初は岡倉天心の『茶の本』(1983年 三笠書房 黛敏郎訳)にしようと思っていたんです。なぜなら、ジョージア・オキーフが『茶の本 The Book of Tea』を愛読していて、彼女がそれをどう読んだのか、本に残されたアンダーラインから読み解くという試みをしていたこともあり、正子と比較ができると面白いと思ったのです。でも、正子の本棚にあった『茶の本』を開いてみたら、まったく書き込みがされていませんでした。

南雲浩二郎さん(以下南雲)読んだ形跡がありませんでしたよね。

森岡 スリップ(書店用の売上・補充カード)もそのまま入っていたので、正子はまったく『茶の本』には興味を示していなかったと思われます。牧山夫妻(正子の娘の牧山桂子さんと夫の圭男さん)も「岡倉天心の話を母から聞いたことはないので、恐らく読んでいないでしょう」とのことでした。落胆しつつも、ふと隣の棚を見ると『茶と美』があり、開いてみると、そこにはびっしり線が引かれていました。これだ!と思いましたね。

正子の書斎の本棚にあった初版の『茶と美』 撮影=セドリック・ディラドリアン

杉山司さん(以下杉山)正子の蔵書は、1941年に牧野書店から刊行された初版本です。その後も柳は、1952(昭和27)年と1955(昭和30)年に、多少章を入れ替えたりしながら同じタイトルの本を出していて、柳のお茶に対する思い入れがいかに強かったかが窺えます。

南雲 柳は1889(明治22)年、正子は1910(明治43)年の生まれで、正子のほうが柳より20歳くらい若い。正子がいつ『茶と美』を読んだかによって、考え方が違ってくるのかなと思いますが、いったいいつ読んだのでしょうね。

正子はいつ『茶と美』を読んだのか。「蔵書印」が語る足跡

森岡 その手掛かりかりが本に残されていました。それは、表紙をめくった本扉に押されていた蔵書印です。

小石川時代の蔵書印 Hearst Owned

南雲 正子はいろいろなはんこを持っていましたよね。

森岡 蔵書印は、本の紛失を防ぐために、表紙の裏や見返しに押す印のことですが、「小石川区水道41白洲正」とあります。正子の年譜によると、1940(昭和15)年、30歳のときに小石川水道町の家で長女の桂子さんを産み、鶴川村能ヶ谷(現・町田市能ヶ谷町1284)にある茅葺き屋根の農家を買い、『お能』の原稿500枚を2週間で書き上げているんです。鶴川に引っ越したのは1942(昭和17)年4月、東京にはじめての空襲後とあるので、『茶と美』が出版された1941年から引っ越すまでの間に本を購入したということは確実に言えるだろうと思います。

南雲 2024年に「森岡書店」で正子の『特別装丁本』を展示・販売した際、正子の蔵書印をお借りして展示しましたが、鶴川の住所のものでした。ですから、引っ越す前に『茶と美』を購入したことはまず間違いないですね。

森岡 さらに年譜を追っていくと、1943(昭和18)年、正子は33歳ですが、11月に志賀直哉・柳宗悦らの勧めで、『お能』を昭和刊行会より刊行、とあります。つまり、このあたりで柳とも親交があったことがわかります。

南雲 正子と柳は面識があったんですね。

正子の目が止まった場所。線と書き込みをたどる

森岡 鶴川に引っ越してから終戦まで、正子は細川護立(もりたつ)に中国陶器をはじめ、古美術全般について教わっていたということが年譜から読み取れるので、まさにこのころ、正子は自分の興味の対象として『茶と美』をしっかり読み込んでいたのではないかなと私は推察します。では、実際に正子はどこに線を引いていたのか。じつに38ページにわたって鉛筆、青や赤鉛筆で線を引き、書き込みをしたり、ページの隅を折ったりしていました。なかでも私が最も面白いと思った箇所は、【絵画論】[*1]のところです。

[*1]正子の書き込みは、【序】をはじめ、12章のうち【茶道を想ふ】【「喜左衛門井戸」を見る】【高麗茶碗と大和茶碗】【光悦論】【絵画論】【織と染】【陶磁器の美】の7章にわたり、51カ所にも及んでいた。【絵画論】は、初版本(牧野書店, 1941)と改訂増補版(乾元社, 1952)で確認できる。ちなみに現在入手可能な文庫版(裏千家の戸田勝久さんによる再編集, 講談社学術文庫)には収録されていない。

柳宗悦著.茶と美.初版,牧野書店,1941, p.116 Hearst Owned

森岡 読み上げます。

「眺めていると、私がいつか創作者にさえなっている。なぜなら、それ等の絵は限りない想像を私から引き出してくれるからである。絵が創作的だと云ふよりも、絵が見るものに創作を許してくれる」(絵画論, p.116)

『茶の本 The Book of Tea』ジョージア・オキーフ所蔵 写真提供=森岡督行

なぜ私がここに感銘を受けたかというと、ジョージア・オキーフが『茶の本』に線を引いていた部分──「何物かを表さずにおくところに、見る者はその考えを完成する機会を与えられる。かようにして大傑作は、人の心を強くひきつけて、ついには人が実際にその作品の一部となるように思われる。虚は美的感情の極致にまでも入って満たせとばかりに人を待っている。」(村岡博/訳 岩波文庫)──これと同じことを意味しているのではないかと思ったからなんです。オキーフは、ここに線を引くだけでなく、より大切だという意味で米印なのか、自身を表す花のようなマークをつけているんです。

見立ては「眼による創作」、知見は「眼を曇らせる」

南雲 「絵が見るものに創作を許してくれる」というのは、要するに「見立て」ですよね。柳は『茶と美』で「すべての『大名物』は茶人達の創作だといえる」「眼は物を遠慮なく創る」と書いていて、見立ては「眼による創作」だと言っています。誰かがある種の眼をもって、器にしろ、絵画にしろ、布にしろ、どこか高みにまでもっていくことができる。そのことを繰り返し、言葉を変えながら、いろんな角度から書いているのが『茶と美』だというのが私の印象です。

何かを見るとき、例えば抽象絵画や抽象彫刻もそうですが、自分の内側にあるものと響き合い、感じる何かがある━━つまり「自分の中で作品の解像度を上げていくプロセスこそが、作品そのものである」というアーティストはけっこういます。見る側の想像力が大事だということで、それは本の中にも頻繁に出てきますよね。

「知見」という言葉を柳は否定しています。「知」が先ではなく、まずは見て感じることが先で、その順番を間違えてはいけないと。「これは有名ですごい物ですよ」と誰かに言われたことを鵜呑みにして見てしまうと「眼が曇る」と柳は何度も書いています。物を見て、自分の頭の中で想像することによって、本当の物が見えてくるのだと。もしかすると、物を介して得ているのは、物の中にある感覚なのではないかと。

撮影=セドリック・ディラドリアン

85年前なのに、いまも鮮烈に響く柳の言葉

澤田理沙さん(以下澤田)お茶の世界でも、「知る」と「見る」が逆転しているということは、『茶と美』が書かれた当時から言われていることですが、いまも感じる場面があります。たとえばお茶会では、待合に箱書きが置かれていて、これは誰々の作品なのだとまず知ることがあります。そのあとでお茶室に入り、そのお茶碗で実際にお茶をいただけるのはとても貴重な体験ですが、そうした流れの中で、「知る」ことと「見る」ことの関係について、あらためて考えさせられることがあります。

南雲 民藝館の展示をご覧になるとよくわかると思うのですが、作品に関する説明がほとんど書かれていません。それは、柳の「じかに見る」というメッセージなんです。ここは博物館ではなく、そもそも民藝美術館としてスタートしているので、いつどこで作られた何なのかという細かい説明よりも、まずは見て感じてくださいという柳の姿勢は、いまも貫かれていますね。

杉山 柳が1926(大正15、昭和元)年に濱田庄司、河井寬次郎、富本憲吉らとともに発表した設立趣意書には、確かに「日本民藝美術館」と書かれていて、美術館としてスタートしています。柳のメッセージということでいえば、文庫の帯にも書かれていますが、「茶の心、美の本質に深く迫るには、物にじかに『触れ』、『見る』ことが大切である」ということなんです。『茶と美』には全部で12の論文がありますが、結局は同じことを言葉を変えながら何度も言っているわけですね。

撮影=セドリック・ディラドリアン

南雲 正子が線を引いている部分で面白いなと思ったのは、【茶道を想ふ】の章です。読み上げます。

「只それ等不遇の物を呼び寄せて、『大名物』に高めるほどの人が出なかっただけである(「茶道を想ふ」p.7)

「大名物」とされる井戸茶碗は朝鮮の農民が使っていた飯茶碗で、それが千利休の眼によって「大名物」になったのであれば、見る眼がある人がもっといれば、いくらでも「大名物」を見つけることができるだろうと、正子が線を引いた前の部分で柳は書いているんです。つまり、柳は自分には「見る眼」があると言っているような気がするのですが。

柳宗悦著.茶と美.初版,牧野書店,1941 Hearst Owned

杉山 そうですね。かなり自信があったでしょうね。

南雲 であれば、民藝館に所蔵されている物のなかで、どれが「大名物」なのかということが気になります。柳は自分の見立てで、茶碗でもなんでもない器を使い、自分なりの茶会を民藝館で何度か開いていますよね。茶室ではなく、柳がデザインをして松本民芸家具で作らせた低座のスツールを使った、着座のまったく新しいスタイルで。しかもお茶だけでなくコーヒーでも試みたというのですから、けっこう攻めているなと思いました。

茶を愛し、茶室を持たず。柳と正子の矜持

杉山 1955(昭和30)年に第1回「民藝館茶会」を、1956(昭和31)年3月に第2回、そして12月には洋茶会、コーヒーによる試みの茶会を開いています。椅子に座ってテーブルで行う立礼式で、残念ながら洋茶会についての記録は残っていませんが、民藝館にある器を使ったのは間違いないでしょう。唐物や高麗物はもちろん、日本の器では民藝に関わった仲間である濱田庄司や河井寬次郎らの茶碗など。それらを「大和茶碗」といって、日本の茶の世界に相応しい新しい器として高く評価していました。民藝館のコレクションは、基本的には茶器を集めたわけではありませんが、柳は自分の目で自由に選び、茶器に見立てて使っていました。茶室で行われる「晴れの茶」を嫌い、「無事」の「茶」、「平常」の「茶」を理念としている柳は、生活で美を味わうのが真の「茶」であり、美と生活をひとつに結ばせたことこそが、茶道の大きな功徳だといっています。つまり、暮らしの中でお茶を飲むという自然な行為として「茶」をとらえていたことがわかります。

南雲 セレモニーだったりプレステージがあったりするものではなく、日常的にお茶を嗜むことで精神が落ち着く。つまり「生活で美を味わう」という民藝の考え方と同様に茶をとらえていたというのは、興味深いと思います。柳の茶のスタイルはとても先鋭的で、誰か追従する人がいたら、別の流派になっていたかもしれない。でも、いまの時代においてもポピュラーになっていないのは非常に残念な気がしますね。

杉山 柳は本当にお茶が好きだったようで、仲間が民藝館を訪ねてくると、「大井戸で一杯」とか「黒高麗で一杯」と茶を振る舞っていたと聞いています。淹れていたのは、表千家で修業を積んだお茶人で、民藝館で働いていた浅川咲さん。柳の右腕だった浅川巧の奥さんです。その方からお茶の所作などについてはいろいろ学んでいたでしょうし、お茶が本当に生活に馴染んでいたのです。ここは柳が住んでいた家で、1935(昭和10)年に日本民藝館ができる前年にでき、亡くなるまで25年間生活していましたが、じつは柳邸には茶室がないんですよ。白洲邸はいかがですか?

南雲 白洲邸にも茶室はありませんね。

森岡 面白い共通点ですね。

南雲 結局、そういうスタイルのセレモニーに対して柳も正子もあまり興味がなかったんでしょう。正子も、客人に対して自分なりの茶のもてなしをしていたかもしれません。

正子はエッセイ「あたしのお茶」[*2]で「その他もろもろの理由で、現代の茶道とは無縁である。因果なことに、それでもお茶を飲むことは好きなので、いろり端に一人で座って、茶を点(た)てる。時には友達が来て、道具の品定めをしたりする」と書いています。茶人が見向きもしないような道具の中から、面白いと思う器を発見して使い、釜は古い鉄瓶で、柄杓は使わず、口からじかにお湯を注ぎ、水指しの代わりにオランダ渡りのピッチャーを用い、それは時には花入にもなる。床の間がないので、大黒柱に鉄斎の奈良絵をかけ、信楽のうずくまるに椿をいけた……などと自由にお茶を楽しんでいた姿が伝わってきます。

[*2]随筆集『白洲正子 縁あって』等,収録

クロストークは、旧柳宗悦邸の客間に柳宗理デザインのエレファントスツールを並べて行われた。参加者は、柳一家が食事をしていた食堂から耳を傾けた 撮影=セドリック・ディラドリアン

『茶と美』を貫く柳の真意。その核心を会得する

澤田 お茶というと、どうしても作法から入るイメージが強いのですが、お茶とは“一服のお茶を介して点てる側とお客さまが心を通わせること”だといわれます。私自身も、究極はそういうことなのだろうと思っています。そのためにこそ、点前も水の流れるように自然にできるよう、日々稽古を重ねていくのだと思います。お稽古を始めたお弟子さんが「お茶を習い始めてから家に花を飾るようになりました」とおっしゃってくださることがあります。そんな日常の小さな変化に触れると、お茶の稽古の意味をあらためて感じて嬉しくなります。

杉山 柳は、「茶室は一個の道場のようなものである。ここで修業した見方を、日々の暮らしに深く交えてこそ初めて茶室の『茶』が活きてくる」と書いていますね。

南雲 すべての道というものは、同じことを繰り返すことによって、達人の域に達するわけですが、宗教も同じかもしれません。お経を読むとか、写経をするとか、それによって無の境地に至り、自分の内側に入り込んでいくことによって、ある種の真理に近づいていく。柳はもともと宗教哲学者なので、宗教と同じことを民藝でもお茶でも行っていたのかもしれません。

杉山 本当に鍛錬の進んだ方というか、お作法が自然な方を見ていると気持ちがいいですよね。

澤田 呼吸をするように、媚びないお点前がいちばん無理がなく、見ていて心地いいです。

杉山 柳は、「『茶』の型は所作の模様化である」と書いています。所作の美は型の美。工人たちが何百、何千と作り続ける中で生まれた作為のない無心の美につながるのだと。

南雲 洗練ですよね。

杉山 結局、柳が『茶と美』で言いたかったのは、じかに物を見て、触れることの大切さであり、それができる茶の湯のよさとは、美を味わうこと。茶の美を問うことは、美とは何かを問うことである、ということなんですよね。

撮影=セドリック・ディラドリアン

柳への問い。美醜なき世界と厳しい分別は両立するか

森岡 柳の最晩年の著作『美の法門』(岩波文庫)を読んでも、柳は二元の世界を超えた一元の世界、美もなければ醜もない世界を希求していたと思いますが、一方で、民藝館に入れるものと入れないものという分別をつけていました。そのことは矛盾するのではないかとずっと疑問に思っていたんです。

杉山 「分別」というのは人間がもって生まれた性(さが)のひとつで、それを否定するのではなく、突き詰めることで真の美の世界に辿り着ける。そう柳は言いたかったのだと思いますが、柳の弟子が、まさに森岡さんと同じことを柳に聞いたそうです。「先生は盛んに美醜なき世界のことを言っているのに、どうして厳しく美醜を分けるんですか?」と。

森岡 柳は何と答えたのでしょうか?

杉山 険しい顔をして、「それが僕の生きている証しなんだよ」と。そこまで覚悟して自分は物を見て、選んでいるのだと。柳は物を見る、物を選ぶということを通して、「美とは何か」ということに、本当に真剣に向き合っていたのだと思います。それこそ禅僧の修行のように。

南雲 瞑想するのではなく。

撮影=セドリック・ディラドリアン

"民藝の眼"は信じていた。武相荘に息づく正子のコレクション

南雲 私が武相荘で季節ごとに並べている正子のコレクションというのは、思いっきり民藝寄りなんです。麦わら手[*3]だったり馬の目[*4]だったり、いわゆる民藝といわれるものがほとんどです。九谷焼のような雅なものはそんなにはなく、好みが一貫しています。正子は、民藝運動に対して異を唱える立場をとっていたといわれていますが、物そのものだったり、柳や千利休といった先人の目だったり、民藝のファウンダーの人たちに対しては、ものすごくリスペクトがありましたよね。濱田庄司に会いに益子まで行っていますし、柳と上賀茂民藝協団を作った黒田辰秋のものも武相荘にはたくさんあります。

[*3] 麦わら手 縦方向に引かれた縞模様が、麦の穂に見えるような磁器や陶器。[*4] 馬の目 皿の縁や内側に鉄絵の具で渦巻き模様を描いたもの。

旧白洲邸 武相荘の展示風景。季節ごとの展示替えを南雲さんが手掛けている 写真提供=旧白洲邸武相荘

杉山 そもそも正子が審美眼を信頼して親交があった人たちは、みんな柳とも交流がありました。小林秀雄は、柳から志賀直哉を紹介されて文壇に出てきたわけですし、青山二郎も民藝運動の初期メンバーでした。正子が戦後、1955(昭和30)年に「こうげい」という染織工芸の店を銀座に出すとき、扱う染織の作家のほとんどは、柳の甥にあたる柳悦博(よしひろ)とその兄、柳悦孝(よしたか)の紹介によるものでした。正子は彼らの目を信じて、彼らもまた正子に理解を示していました。

「こうげい」にて。立花長子作、型染の羽織を着た正子 写真提供=旧白洲邸武相荘

正子が突いたのは盲目な"民藝信者"の目

森岡 いまのお話を聞いて、正子のエッセイ「油日(あぶらひ)の古面」の一節を読むと、正子は柳の選んだ物や考え方にむしろ共鳴していて、正子が異論を唱えたのは、「民藝だからよい」という私たちの意識に対してだったのではないかと思いますので読み上げます。

「柳さんはしきりに『じかに物を見る』ことを勧めたが、亜流には少しも行われず、逆に民芸を通してしか物が見られないという、信者を生むだけに終ったのは皮肉である。もちろん、げて物にもおもしろいものはある。美しいものもある。が、それは名もない民衆が作ったから美しいのではなく、無心に作ったからたまたま美しいものが生れたにすぎない。そういう偶然性の中から、美しいものを発見し、定着させたのが、たとえば利休といった人物なので、わびとかさびとかいうのは、決して煤で真っ黒けになった籠や木工を差すのではない。いや、煤や手垢でよごれた道具を、煤や汚れを洗い落すのではなく、そのまま丹念に磨きあげたのが利休のわびであり、さびであった。『藁屋に名馬をつなぐ』思想である。」(「油日(あぶらひ)の古面」より, 白洲正子随筆集『かくれ里』等,収録)

南雲 『茶と美』の中で、箱書きの権威を鵜呑みにして自分の目で、心で見ようとしていないと、柳が茶道を批判しているのも同じことですよね。ちゃんと自分の目で、心で見なさいよということをひたすら言っているわけですから。

杉山 おっしゃる通りです。柳自身も晩年、民藝の仲間や信奉者たちに「民藝という言葉にとらわれてはいけない」と再三言っています。民藝という言葉にとらわれてしまったら、自由な目も心も死んでしまう。民藝が発見できたのは、自由な目と心があったから。それを失ってしまったら、もはや民藝ではないのだとたびたび警告していました。それはまさに正子の民藝批判と同じことだと思います。

正子はエッセイ「民芸に望む」[*5]で次のように書いています。「九谷、織部と聞いただけでアレルギーを起してほしくはない。早い話が民芸館の蒐集(しゅうしゅう)には、このテのものが多いのである。それらはいわば柳さんの民芸論の原型なのだから、そういうものを自分の眼でしっかりと見て、作品に生かしていただきたい。茶臭と同様、民芸臭に毒されていない民芸を、私たちは切に欲しているのである」

[*5]随筆集『夕顔』等,収録

これは、当時の民藝作家に対する要望ではありますが、正子が柳の眼を評価していることは明らかで、批判の対象となっているのは、「民藝臭」に毒された、つまり「民藝」という言葉にとらわれた人すべてだといえるのではないでしょうか。銘や箱書きに縛られ、形骸化した茶道を「茶臭」という言葉で批判している点でも、柳と正子は共通していたのではないかと思われます。

座談会の後、『茶と美』が書かれた柳宗悦の書斎で、柳の蔵書に興味津々の森岡さんと澤田さん 撮影=セドリック・ディラドリアン
クロストークを終えて。白熱しつつも心通じる和やかなひとときだったことを皆さんの柔和な笑顔が物語る 撮影=セドリック・ディラドリアン
柳宗悦の書斎 撮影=セドリック・ディラドリアン

1936年創建。民藝思想の普及や地方の手仕事の振興などに力を注いだ柳は、初代館長に就任、ここを拠点にさまざまな展覧会や調査研究を展開した。二代目は濱田庄司、三代目は宗悦の長男でプロダクトデザイナーの柳宗理、四代目は実業家の小林陽太郎、現在はプロダクトデザイナーの深澤直人が館長職を継いでいる。柳の審美眼により集められた新古工芸品約1万7千点を収蔵。

【本館】10時~17時(最終入館 16時30分まで)
休館日 月曜日(ただし祝日の場合は開館、翌日休館)
【西館(旧柳宗悦邸)】10時~16時30分(最終入館は16時まで)
開館日 第2・3水曜日、第2・3土曜日
入館料 一般1500円ほか

東京都目黒区駒場4-3-33
TEL 03-3467-4527

白洲正子の書斎 写真提供=旧白洲邸武相荘

白洲次郎・正子が1943年より60年近く暮らし続けた、武蔵野の雑木林に囲まれた茅葺き屋根の日本家屋。2001年に記念館、資料館として開館。家屋はもちろん、邸内も当時のままに保存公開されている。

10時~17時(入場受付は16時30分まで)
休館日 月曜日(ただし祝日の場合は開館)
夏季・冬季休館あり
入場料 大人1500円ほか

東京都町田市能ヶ谷7丁目3番2号
TEL. 042-735-5732

トークイベント撮影=セドリック・ディラドリアン 取材・文=和田紀子 編集=内田理惠(婦人画報編集部)

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