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「お前はやわらかな皮の袋に詰めたヤギのくそとどう違う?」コンプライアンス的にアウトすぎる村上龍の小説『フィジーの小人』を今読むべき理由【書評】

  • 2026.3.26
フィジーの小人 村上龍 / 講談社
フィジーの小人 村上龍 / 講談社

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メディアで、あるいはSNSで「コンプライアンス」という言葉が声高に叫ばれはじめたのはいつ頃だろうか。試しにGoogleトレンドで「コンプライアンス」という単語を入力し、2004年から現在までのグラフを出してみた。結果は、2025年6月だけが不自然に突出したグラフとなった。この時期、ある大物タレントが複数のコンプライアンス違反があって番組を降板したことや、テレビ局社員との不適切な事案があったことなどが記憶に新しい。

もはや炎上するのは公人だけではないこの時代、より慎重な言動が求められている。しかしそんな現代にこっそりひとりで読んでほしいのが、この一冊。1993年に発売された村上龍の『フィジーの小人』(講談社)だ。

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身長98センチ、道化師として働く33歳の小人・ワヌーバを主人公とし、彼がめくるめく快楽の世界に落ちていく話なのだが、これがもうコンプライアンス違反のオンパレードなのである。そっと口に出すことも憚れる単語が頻出する物語となっている。小説雑誌「野生時代」で3年以上にわたって連載されていたようだが、当時の読者はどんな気分で読んでいたのだろうか。

「ハムを相手にしてるみたい」

引用----

私は小人だ。中部太平洋の島フィジーのナンディの町に住んでいる。職業は芸人だ。道化師といってもよい。(中略)私は混血児だ。イギリスの商人とフィジーの洗濯女との間に生まれた。父のことは何も知らない。

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小人のワヌーバは7歳以降身長がまったく伸びなくなり、33歳になっても身長が98センチだった。14歳から道化師として働いている。

そんな小人ワヌーバが性に溺れるきっかけを与えたのは、〈シャギー〉と呼ばれるほど体毛の濃い中国人の女。小人ワヌーバが道化を演じた後、楽屋でビーフステーキサンドイッチを食べていると、その女が訪ねてくる。肉体労働で疲弊した小人ワヌーバに対して、整体術を勉強しているからマッサージをしてもいいかと提案する。

マッサージをしている時、女は小人ワヌーバの背中の肉がとても硬いことに気がつく。

引用----

「ハムを相手にしてるみたい」

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そう言って女は大きな声で笑い、「本当に、お前は、ハムみたい」と呟く。そして背中の肉があまりに硬いので足でマッサージをすると申し出る。その毛深い足を使い、抉るように揉むのである。蹴るように首を押すので、小人ワヌーバは思わず「強すぎます痛いですよ」と呻く。すると女がこう言う。

引用----

「おかしいじゃないの、お前はハムなのよ。ハムは喋っちゃだめよ」

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この時、小人ワヌーバの精神に何かが作用して、壊れていくようになる。小人に対して「ハム」と呼ぶ。誰に対してでもそうだが、人間を「ハム」と呼ぶことは現代では許されないかもしれない。その後、小人ワヌーバは何人もの女たちに翻弄されながら、めくるめく性の快楽に溺れていくことになる……。

小人ワヌーバは虐め抜かれて自己破壊される

小人ワヌーバがサディズムな女によって自らを否定され、自己破壊の果てにマゾヒズムの快楽に気づくシーンを紹介したい。

引用----

「謝りなさい!」

(中略)

女はハイヒールで私の太腿を蹴った。

(中略)

「考えなさい、お前が謝らなければならない理由を考えなさい」

(中略)

わたしは、異常な、小人です…………

「それだけ?」

それで、わたしはとても醜いんです…………

----

この場面で小人ワヌーバは女に虐め抜かれ、自己破壊されている。しかし別の場面では、反対に小人ワヌーバは別の女に対してサディズムな立場をとるのだ。

引用----

「お前はもう人間じゃない、モノだ、人間のかっこうをしたやわらかな袋に入っているモノだ、そうだな?」

(中略)

「やわらかな皮の袋に詰めたヤギのくそとどう違う? 違うところがあるか?」

(中略)

「じゃあとりあえずお前のことをヤギのくそと呼ぼう」

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グロテスクな描写は多く、到底口に出して語れないシーンも多い。暴言は多く、人権保護の見地から言って問題が多すぎる。しかし、サディズム、マゾヒズムの両極端の間で転がり続ける小人ワヌーバの物語を追っていくうちに、読者は新たな領域へと連れていかれることだろう。

人間を人間と思わないような罵倒の数々。グロテスクでかつ性的に過激な表現。そういったものがあまりに頻出するので「そういう世界なんだ」と、頭に注ぎ込まれるように、素直に受容してしまう。

小人を笑うという居心地の悪さ

ここで一度、目を閉じて想像してほしい。「身長98センチの小人が舞台に立って観客に笑われる」という状況。実際にその状況の前にすると、倫理的なことが頭によぎって、少し居心地が悪いのではないだろうか。あなたが観客だとして、素直に心から小人を笑うことができるだろうか?

しかし小人ワヌーバはその仕事に誇りを持ち、笑われるための訓練をして舞台に立っているのだ。むしろこの場面では、小人ワヌーバのショウを笑わないことのほうが失礼になってしまう。この倫理観の歪み。そんな小人ワヌーバが次の場面では、女に虐め抜かれ、そうかと思えば、今度は小人ワヌーバが別の女を「ヤギのくそ」と称して虐めてしまう。この倫理観の倒錯に脳を掴まれ、思わず笑ってしまうことだろう。

時代によって、立場によって、誰が言うかによって、あるいは本やテレビなどの媒体によって、世間に許されるものと許されないものの線引きがいかに曖昧なのか改めて考えさせられる。小説という媒体は、テレビなどの媒体に比べると割と倫理的な線引きが緩いとも言われているが、昨今の小説にも、ここまで突出して倫理的に不適切な表現が多用されているものはなさそうに思う。コンプライアンス全盛時代とも言える、この現代だからこそ、『フィジーの小人』は改めて読む価値のある一冊なのではないだろうか。

文=奥井雄義

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