1. トップ
  2. 恋愛
  3. 織田信長も大ファンだった相撲。日本の神話にも描かれている、相撲の知られざる歴史とは/戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか④

織田信長も大ファンだった相撲。日本の神話にも描かれている、相撲の知られざる歴史とは/戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか④

  • 2026.3.2

『戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか』(河合敦/ポプラ社)第4回【全7回】

『戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか』を第1回から読む

戦うだけが仕事じゃない! 戦国武将も、現代人と同じ悩みを抱えていた。武田信玄は浮気を弁解、織田信長は正倉院の宝物である香木を切り取り、伊達政宗は恋に泣き、高山右近は地位よりも信仰を優先し、茶の湯で政治を操り、南蛮料理に夢中になり、人身売買で財力を築く。戦場以上に熱い、濃厚なドラマを暴く。戦国武将の仕事からオフタイムまで、知られざる素顔をのぞく1冊、ぜひお楽しみください!

『戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか』 (河合敦/ポプラ社)
『戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか』 (河合敦/ポプラ社)

相撲が大好きだった織田信長

■相撲の専門集団

相撲の起源は、神話の時代にまでさかのぼる。『日本書紀』に見える、垂仁天皇が出雲から呼び寄せた野見宿禰が、乱暴者の當麻蹶速と力比べをし、宿禰が勝利したことが相撲の起源とされる(しかも初の天覧相撲)。

また、古墳時代の副葬品には廻し姿の「力士埴輪」も多く出土し、なかには四股を踏むような造形のものもある。

奈良時代に始まった「相撲節(節会)」という儀式は、平安時代に年中行事として定着するが、これは七夕の七月七日と八日の両日、天皇や貴族たちが全国から集められた相撲人(力士のこと)の行列や取り組みを見物するもの。平安末期に儀式の相撲節は廃れたが、相撲自体は朝廷だけでなく、寺社の祭礼での奉納相撲として流行した。鎌倉幕府を開いた源頼朝も相撲を好み、力自慢の御家人や力士を招いて相撲を取らせている。すでにこの時代には相撲の専門集団が存在し、京都を拠点に各地の寺社で相撲興行をおこなった。寺社が主催するのは、人びとから見物料を取って建物などの修繕費などにあてるため。こうした相撲を「勧進相撲」と呼ぶ。

■勝った力士に褒美を与える

このように古い歴史がある相撲だが、戦国時代も相撲人気は衰えなかった。なかでも相撲が大好きだったのが織田信長である。『信長公記』には、信長が大規模な相撲大会を何度か催している場面が登場する。

初出は元亀元年(一五七〇)三月三日の記録だ。

この一年半ほど前、信長は足利義昭を奉じて大軍で上洛した。このとき義昭は朝廷から征夷大将軍に任命され、室町幕府が再興された。信長は義昭のもとで畿内に覇を唱え、二条御所を再興したり、内裏を修築したり、関所を撤廃したりするなどして京都周辺を安定させた。翌年には伊勢神宮に参宮したり、名人を招いて能を鑑賞したりして、落ち着いた生活ができるようになった。その頃、安土の常楽寺(現在は廃寺)において相撲大会を開いたのである(安土駅前には力士像が設置されている)。

信長は近江中の力士を常楽寺に招き、木瀬蔵春庵を行司として取り組みをおこなわせた。勝ち抜いたのは鯰江又一郎と青地与右衛門だった。喜んだ信長は二人を呼び寄せ、熨斗付(金銀豪華な刀装具)の太刀と脇差を与えたうえ、その場で織田家の家臣に取り立て、相撲奉行に任命した。まさかの大抜擢だ。さらに面白い相撲を見せたということで、深尾又四郎は信長から衣服を与えられている。

この相撲大会の翌月、朝倉攻めに越前へ向かった信長は、近江の義弟・浅井長政の裏切りにあって挟撃され、命からがら逃げ帰ることになり(金ヶ崎の退き口)、以後数年間は両氏をはじめ〝信長包囲網〞に苦しむことになった。

元記事で読む
の記事をもっとみる