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【ばけばけ】大事件はなし。でも登場人物の「暇」に共感したくなる第20週の妙

  • 2026.2.23

【ばけばけ】大事件はなし。でも登場人物の「暇」に共感したくなる第20週の妙

1日の楽しみは、朝ドラから! 数々のドラマコラム執筆を手がけている、エンタメライター田幸和歌子さんに、NHK連続テレビ小説、通称朝ドラの楽しみ方を毎週、語っていただきます。『怪談』でおなじみ小泉八雲と、その妻 小泉節子をモデルとする物語。「ばけばけ」のレビューで、より深く、朝ドラの世界へ! ※ネタバレにご注意ください

「これ必要?」と思われるような演出が続く

日本に伝承される怪談をもとにした作品を発表したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と、その妻・小泉セツをヒロインとする髙石あかり主演のNHK連続テレビ小説『ばけばけ』の第20週「アンタ、ガタ、ドコサ。」が放送された。

今週のテーマを一言で表すと、それは登場人物たちのセリフにもたびたび登場したが「暇」ということだろう。

ヘブン(トミー・バストウ)にとっても愛着ある松江を離れ、熊本へと舞台は変わり、さあ気分一新、新展開! といったものになるかと思いきや、待ち受けていたのは「暇」、それぞれが暇を持て余す日々だった。

熊本には松江でヘブンが愛した古き良き日本の空気はあまり感じられず、ヘブンは刺激を受ける機会が減り筆が進まなくなってしまう。

前回この稿でも記したが、実際にハーンが赴任したのがのちの熊本大学、第五高等中学校であり、のちに夏目漱石もやってくる。そして漱石の代表作のひとつ『草枕』は、熊本の天水を舞台にしたものだ。

『草枕』の書き出しは、こうだ。
<山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。>

そして、こう続く。
<あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊い。>

極論すれば、「暇」である。「暇」、そして「住みにくさ」を感じたときに詩や画が生まれると漱石は書いている。ヘブンが熊本で感じる「住みにくさ」もまた、この先の創作活動に何らかの影響を与えるのだろうか。

余談ではあるが、本作の語りをつとめる蛇と蛙(阿佐ヶ谷姉妹)も、
「私たちもついてきちゃった。ウフフフフ」

どういうふうに「ついてきちゃった」のか分からないが(そもそも冬眠の季節も、土の中から語りを届けるという力技を繰り出してはいたが)、そんな細かいことはどうでもいいのだろう。

創作をするヘブンはその苦悩が生み出すものがあるかもしれない。しかし、詩や画を生み出すわけではない人たち、つまりヘブン以外の熊本移住組にとっては、暇というものは、単に暇でしかないのである。

トキとその母・フミ(池脇千鶴)は、熊本での女中・クマ(夏目透羽)が何でもやってくれるため、時間をもてあまし、熊本を舞台とする童歌「あんたがたどこさ」を歌いながら鞠をついたりする。これは「熊本らしさ」をわかりやすく伝える演出という意味もあるのだろう。

食卓にのぼった「普通の蓮根」を見て司之介(岡部たかし)が、ヘブンと一緒にやってきて居候をする丈(杉田雷麟)と正木(日高由起刀)と、熊本の蓮根といったら「辛子蓮根」だろうといったことで一くだり費やすなど、ある種「どうでもいいやりとり」「これ必要?」と思われるような演出が続く。新天地で、皆暇である。

何も起こらない日々こそが、このドラマの真骨頂!?

そんな司之介が、ある日、大金をこっそり小豆相場に突っ込むという、「暇」を切り裂くような展開が訪れ、「また大借金の流れ!?」と思ってしまいそうなところ、これは不穏なBGMなどとあわせたミスリード的演出であり、相場は大成功、司之介は大儲けしてしまう。
「生きちょる気がせんのじゃ。借金させちょくれ!」

まるでギャンブル中毒のようなセリフをのたまい嘆く司之介だが、借金が生きるモチベーションとなっていたということかもしれないが、借金中毒というのはなかなか斬新だ(とはいえそこまで必死に働いているようでもなく、借金の大半はヘブンが返してくれたようなかたちであるわけだが)。

そしてきわめつけは、ヘブンが希望する朝食のトーストのために用いる焼き網の紛失事件である。そこに正木が名探偵のような立ち回りをし始め、探偵モノめいた犯人捜しが始まる。その推理の過程で、容疑をかけられる登場人物によるミニコントのような「if」の盗難再現にまあまあ力を入れているところがまた、本筋のストーリーと関係なさすぎて笑ってしまうほどだ(結局は誰かが盗んだものでなく、すぐに見つかりにくい隙間に落ちていたという、これまたどうでもいい結論だったわけだが)。

朝ドラの世界では、ときに「尺稼ぎ」と揶揄されることもあるような、先に述べたような「どうでもいいやりとり」「これ必要?」と視聴者が感じるエピソードが発生することがある。現在の週5本体制になってからも、約130話というテレビドラマとしてはかなり長尺の連続ドラマの構成ゆえ、ストーリーが脇にそれることもあるのは仕方ないことだろう。その使い方、そして調理法のようなものがそれぞれのドラマの持ち味となればそれでいい。

視聴者視点でも、第20週をまさに「暇」と感じたかもしれない。考えようによっては、これは登場人物たちへの共感とも言えるかもしれない。トキや司之介の感じる「暇」を視聴しながら一緒に感じさせてくれる。本作が当初掲げたテーマ「何も起こらない日々を描く」がまさにこれであり、もしかしたらこの第20週こそがこのドラマの真髄、真骨頂のようなものなのかもしれない。

「いつ『怪談』を書き始めるんだよ」と、これまでの何かを成し遂げた偉人系の朝ドラの展開に感じることがあったジレンマはどうしても生じてしまうが、『怪談』にヘブンが熱心になってしまうことは、「何か起こってしまう」こととなってしまう。それゆえにできるだけ温存というか、何も起こさせないような展開を続けている、そんな挑戦をしている実験的作品となっているのだろうか。

結論として、何も起こらない中にも「ニホンジン、ココロ、アリマス」という結論を導き出し、再び机に向うヘブン。『草枕』ではないが、暇の中に何かを見つけることはできたのだろうか。

どこまで『怪談』に取り組まず、何かを起こさず視聴者を引きつけていくか。新たな視点での注目が生まれた気がする。

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