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沖潤子の創作の根底に漂うもの──社会を縫い、描き、響かせる創り手たち【vol.3】

  • 2026.2.12

古布の上を奔放にうねる糸の軌跡、無数に重ねられたステッチ。沖潤子が手がける刺繍作品の圧倒的な密度と躍動感に鑑賞者は息を呑む。それは単なる装飾や手芸の域を遥かに超え、生命の脈動そのもののように迫ってくる。沖が操る針と糸は、布を縫い合わせるための単なる道具ではない。彼女と世界、過去と現在を繋ぎ留め、そこに確かな痕跡があったことを刻み込むためのツールなのだと捉えられる。

目覚ましい活躍で、3月には作品集『STILL PUNK』の出版も予定。しかし、その始動は決して早くはない。46歳まで会社員として勤め、子育てを終えた後に訪れた「生」への渇望が、彼女を突き動かした。その背景には、母と娘、3世代にわたる女性たちの物語が複雑に絡み合っている。「母は子どものために生きた人でした」。子ども服を仕立て、図案を正確に写して刺繍を施す母。それは家族への献身としての手芸だった。もちろん、その人生を否定するわけではない。ただ「子どもがいたから幸せだった」と語る母の姿に対し、沖は「誰かのため」ではなく、自分の足で自分のために立つ人生を探す道を進んだ。

絵画、ガラス、陶芸─さまざまな表現を模索するなかで、転機は唐突に訪れる。母が遺した貴重な布を、当時中学生だった娘が無造作に切り刻み、手提げ袋を作ってくれたのだ。「切っちゃったのか」という驚きとともに目に入ったのは、太い糸でザクザクと刺された、生命力に満ちたステッチだった。そこにあったのは、評価への欲ではなく、ただ「作りたい」という純粋な衝動のみ。その圧倒的なエネルギーを前に、沖は「私が求めていた表現はこれだ」と確信した。母が遺した針と糸、そして娘が示した野性的な衝動。ふたつの世代に挟まれた場所で、沖潤子というアーティストが覚醒した瞬間だった。

その原体験は、現在の彼女の制作スタイルにも色濃く反映されている。沖の制作には「下絵」が存在しない。「計画があると、どうしても予定調和を引き出そうとする癖が出てしまう」からだ。会社員時代に培われた整合性を求める思考は、アートにおいては足枷にしかならない。だから彼女は、布の上にいきなり針を落とす。彼女の作品には、「ぐるぐる」と呼ばれる螺旋状のステッチから始まるものが多い。中心から外へ円を描くように糸を走らせていく行為は、どんなに巨大な作品に挑むときも変わらない。「ここから始めていけば怖くない。少しずつ膨らんでいって、自分の形ができていく」。一針一針、物理的な時間を積み重ねていく刺繍は、彼女の思考のスピードと深くシンクロする。自身のなかに眠る「野性」を引き出す儀式であり、下絵を持たないからこそ到達できる、無垢な表現の境地なのだ。

そうして自身の時間を紡ぐ一方で、沖は女性たちが背負わされてきた歴史とも対峙する。森美術館で展示中の新作では、日本中から集めた糸巻きを鉄格子に閉じ込めた。そこには、針仕事が女性の救いであり、呪縛でもあった二面性が込められている。「母はどんなに辛いことがあっても、針を持つと心が落ち着くと言っていました」。鉄格子の中の糸巻きは、家父長制が根付く社会において押し殺された女性たちの声であり、そこからの解放を試みる作家としての応答なのだ。

沖の創作の根底には、常に「死」の気配が漂う。「愛とともに死」を掲げる彼女にとって、死は生を照らす光源だ。最近、乳がんの手術を経て「限りある生」を突きつけられた彼女は、それをポジティブな力に変えた。「私には作っていくことがいちばん。それをしないと逆に生きていけない」。90代まで制作を続けたルイーズ・ブルジョワを「灯台」と仰ぐ沖は、老いや肉体の変化さえも作品の深みへと変えていく。

沖のなかに流れる時間は、効率やスピードが求められる現代社会のそれとは異なり、どこまでもゆっくりとしている。彼女が差し出すのは、連綿と続く女性たちの祈りと呪縛を断ち切り、「個」として生きようとする人間の、静かだが激しい魂の叫びだ。私たちが沖の作品に心震えるのは、そこに縫い込められた時間が、私たち自身の奥底に眠る「生きたい」という根源的な欲求と共鳴するからにほかならない。

六本木クロッシング2025展:時間は過ぎ去る わたしたちは永遠

会期/~2026年3月29日(日) 10:00〜22:00 ※火曜日のみ17:00まで、入館は閉館時間の30分前まで

会場/森美術館 東京都港区六本木6-10-1 六本木ヒルズ森タワー53階

お問い合わせ/050-5541-8600

www.mori.art.museum

Photos: SHIORI OTA Text: ASUKA KAWANABE Editors: Nanami Kobayashi, Yaka Matsumoto

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