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【神野三鈴さん】「眩しいネオンサインと人混みの中で、突然、涙が止まらなくて困った」

  • 2026.1.3

トランプ政権下、最も外国人が暮らしにくい街のひとつになったニューヨーク。
それは空港に着いて税関を通るときの、険悪な緊張感からもうかがえる。この国で働こうとする者は絶対に通さないぞ、と、まるで尋問のようなやり取りが行われていた。

なんとか無事に通過して街に入れば、物価は異常に高く、合法になったマリファナの匂いが街や地下鉄の中に充満している。
自然が好きで、木々や動物がいないと落ち着かない私にとって、摩天楼そびえるこの街で心からリラックスするのは、なかなか難しい。

それでも帰国した途端に、住みにくいあの街が無性に恋しくなるのは何故だろう。あえて、この街に存在する特筆すべき「自然」を挙げるならば、それは「人間」だと思う。

人種のるつぼという意味ではなくて、人の個性のるつぼだ。多様性という言葉が使われる以前から、ここには我が道を行く強烈な個性を持った人たちがいた。
真っ白なレインコートに鳩の餌をいっぱい入れた大きな袋を下げて、頭に被ったフードの上や肩に何十羽も鳩を止まらせて、優雅に公園に佇む美しい老婦人。
地下鉄の車両の真ん中の手すり用ポールを使い、上半身裸で見事なポールダンスを踊る若い男性。車内で騒ぐ子どもたちを叱りつけ、もっと大きな声で歌を歌う中年女性。
「どけ! どけ! 轢かれるぞ!」と叫びながら大通りを猛スピードで逆走する車椅子のおじいちゃん。ちょっと散歩に出ただけでも物語が一本書けそうな、興味深い登場人物たちに出会える。
そして彼らは何事もなくそこにいる。
大多数の常識でおかしいとされる「大多数」がいないようなといえば良いのだろうか。気にする人や咎める人は滅多にいない。

夕暮れどきに、新しく住み始めた街の駅からひとりで地下鉄に乗って、夫のライブを聴きにタイムズスクエアに向かっていた。
二駅ほど進んだとき、閉まりかけたドアに、にゅっと腕を挟んで、こじ開けながら黒人の若者が乗ってきた。ドア付近にいた私は目の前に現れた垢だらけの細い腕に少し慄いた。
案の定、彼は私を見るなり横に座り、「5ドル持っているか?」と聞いてきた。うわキタ! と思ったが(前号で紹介した、壊れかけた人に真摯に向き合って落ち着かせた青年を思い出し)、なるべく丁寧に「カードしか持ってない、力になれなくてごめんなさい」と言うと、ちょっとむくれて「じゃあ煙草はある?」「煙草はだいぶ前にやめたの」「あっ子どもがいるの?」と会話が終わらない。
困ったなと思いながら偽善的な笑顔で「ううん、子どもはいないのよ」と答えた。すると、彼はしばらくじっと私を見つめて「ダーリン、君は完璧だよ。もう悲しまないで。もう泣かないで。神様はそばにいるよ」と私の肩をさすった。

「あ、あ、ありがとう」私の社交辞令的な笑顔から、彼は何を見抜いたのだろうか。私はこの状況に混乱していた。
目的の駅に着いたので、言い訳がましくここで降りなきゃと言いながら、心を込めて「良い日になりますように、貴方にも神のご加護を」と挨拶をした私には目もくれず、彼は、新しく乗ってきた人に「5ドルくれない?」と声をかけていた。
「おいっ! 」思わずツッコミながら、私は吹き出してしまった。地上に上
がって、眩いネオンサインと人混みの中で、突然、涙が止まらなくて困った。

お金がある人、ない人関係なく、抱えている問題や孤独はそれぞれだ。みんな目的のために何かと闘って生きているような場所。成功と挫折が万華鏡みたいにクルクルしている。光が強すぎて、影が闇になる。闇の中では、ちょっとした人との関わりが、まるでクリスマスの小さな奇跡の物語のように感じられる。
この街は文明社会の成れの果て、終焉のような姿と、音楽、芝居、オペラ、バレエなど「芸術」の最高峰が混在している。自由な想像力、知性、肉体、生身の人間がなし得る奇跡。「ああ人間は、なんて素晴らしいのだろう」と、この世界に光を見出す。

もしかしたら孤独が繋がりを求め、分断が理解を模索し、絶望が人間への
希望の物語を必死に生み出しているのかもしれない。
そして、物語は時として私たちの魂を救ってくれる。光と影でできた世界がここにある。そして「何か」を「誰か」のために表現したいと私に思い起こさせるのだ。

文豪たちに見つめられながら。買ってない本でも読みながらお茶ができるカフェにて。
他者の物語のなかで自分の人生の休息をしているよう。我が友のような作家たちとともに過ごすのだ。

MoMAは、現代アートから近代名作までコンパクトに展示されていて気軽に立ち寄れ、アートを身近に感じられる。

カフェやレストランもセンス良く、オアシス的な豊かな空間だ。

MISUZU KANNO
神奈川県鎌倉市出身。第47回紀伊國屋演劇賞個人賞、第27回読売演劇大賞最優秀女優賞を受賞。代表作は舞台『メアリー・ステュアート』『組曲虐殺』、映画『37セカンズ』、ドラマ『あんぱん』など。映画『TOKYOタクシー』が11月21日(金)公開予定。

撮影・文/神野三鈴

大人のおしゃれ手帖2025年12月号より抜粋
※画像・文章の無断転載はご遠慮ください

この記事を書いた人

大人のおしゃれ手帖編集部

大人のおしゃれ手帖編集部

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