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【黒柳徹子】ヴォーグの表紙も担当したヘアドレッサー「須賀勇介」さんの魅力とは

  • 2025.12.9
黒柳徹子さん
©Kazuyoshi Shimomura

私が出会った美しい人

【第43回】ヘアドレッサー 須賀勇介さん

私は、世にもキレイなものが好きです。可愛いものが好きだし、キラキラしたものも好き。でも、本当に私が「一生の宝物だなぁ」って思うのは、家族やお友達との思い出なんです。中でも、今から50年以上前、世界的なヘアドレッサーの須賀勇介さんと過ごした日々のことは、思い出すだけで涙が出てくるくらい。

須賀さんは、今から50年前のアメリカで、「日本人ってすごい!」と思わせた、天才的なヘアドレッサーでした。映画会社で美容師として働く姉を見て、「美容師なら、この世に女性がいる限り仕事に困ることはないだろう」と美容学校に進むんですが、洋雑誌に、フォトグラファーの名前と並んでヘア担当のクレジットがあるのを見つけて、「アメリカに、こんなに男性のヘアドレッサーが多いなら、いずれ日本でも、美容業界で男性が主導権を握る時代が来るかもしれない」と考えて、23歳で単身ニューヨークに渡ります。炊飯器と梅干し、倹約して貯めた100万円を持って。

紹介状もなく、英語もできず、就労ビザもないまま、一泊10ドルの部屋を借りて、ヘアサロンに赴いては、「使ってもらえませんか?」と頼み込むけれど、ことごとく門前払い。部屋を貸してくれたニューヨークの仏教教会の理事長夫人に、「マンハッタンで最高のサロンはどこ?」と聞くと、「ジャクリーン・ケネディが行っているケネスよ」と教えられ、そのケネスで実技のオーディションを受けて、見事合格するんです! 「ショート、セミロング、ロングの髪を、それぞれ昼と夜の雰囲気に合うように整えよ」という課題の中で、とくにロングのまとめ髪にオーナーのケネスが感動したのが、合格の理由だったみたい。須賀さんは、日本を発つ前に、何かの役に立つかもしれないからと、日本髪の結い方を習っていたんです。

私がニューヨークに留学した1971年には、須賀さんはすでに超がつくほどの売れっ子でした。ファッションフォトグラファー界のカリスマだったリチャード・アヴェドンと組んで、ヴォーグ誌の表紙を何度も手がけたり、実際にジャクリーン・ケネディのヘアを担当したり。

初めて会った瞬間から、ものの考え方や感覚が似ていたんでしょうね。ひゅっと気が合って(笑)。私があまりにも頭を洗わないものだから、須賀さんの家のお風呂場のバスタブに頭を突っ込まれて、髪を洗ってくれたことがあります。髪を乾かしてから、私の長い髪を頭のてっぺんでたった一本のピンで留めてくれたんだけど、そのまとめ髪が、どんなに頭を揺すっても崩れなくて。「この人は天才だ!」って思いました。今の私のトレードマークになった玉ねぎヘアも、須賀さんと一緒に編み出したものです。当時は、ファラ・フォーセットのレディ・ヘアっていうのが流行っていたんだけど、それも須賀さんのデザイン。森英恵先生のボブヘアもそう。

いつも面白いことを考えていて、旅先で突然、「おてもやんメイクをしましょう」と言いだしたことがあります。私の髪をてっぺんでお団子にして箸を挿し、チークを真っ赤に塗りたくり、浴衣をチャイナドレス風にアレンジして、ぽっくりのような下駄を履いて街に出たんですが、私も面白いから、「アッア〜」ってソプラノで歌なんか歌っちゃって。そうしたら、ストリートパフォーマーと間違われたんでしょうね。「ブラボー!」と歓声が湧き上がったんです(笑)。

1976年のオーストリア・インスブルック五輪では、フィギュアスケートで金メダルに輝いたドロシー・ハミルの髪型「ハミル・カット」が一世を風靡しました。スピンをすると、絹のカーテンのように放射状に広がる髪が、スピンが終わると元のボブヘアに戻るんです。その写真は、タイム誌の表紙を飾ったほど。その頃には「世界ナンバーワンのヘアドレッサー」として有名になっていましたが、有名になる前には、サロンで「黄色人種に髪を触られるのは嫌!」と泣き出す人もいたんですって。

80年代には、一年の3分の1を日本で過ごすようになって。でも、89年に直腸がんになってしまうんです。須賀さんが亡くなる2日前に、茹でたてのスパゲティを持って病室を訪ねたときは、彼は私のことを“みよちゃん”って呼んでいたんだけど、「みよちゃん、生きてるってことは、完全に健康なことを言うんだよ。元気じゃないと、人のヘアなんてできないね」って。本当に好きな仕事を、いつも真剣勝負でやっていた人でした。

親友だし、家族でもあるけど、仕事を無我夢中でやっていたときの「仲間」でもあるんです。ニューヨークで“世界一”と言われている人が、大きな荷物を持って、朝7時から出かけていくのを見ると、須賀さんがこんなに頑張っているんだから、私も頑張ろうと思えた。

あるとき、須賀さんと海岸を歩いていて、私が何気なく、オペラ『魔笛』の「夜の女王のアリア」を「ラララッラッララッラッララー」って歌ったら、須賀さんも一緒に歌ってくれた。「わあ、知ってるんだ!」って思って、2人で歌いながら手をつないで歩いたのが、夢のように楽しい時間でした。

須賀勇介さん/2006年10月号VOCE

須賀さんの生涯は2006年10月号のVOCEでも特集された。ポラロイド写真は黒柳さん所蔵。

ヘアドレッサー

須賀勇介さん

1942年、中国河北省に生まれる。幼い頃は画家を目指していたが、父親を早くに亡くしたため自活したい思いが強く、山野美容専門学校に進む。1966年、単身渡米。ニューヨークのトップサロン「ケネス」で、ジャクリーン・ケネディなどセレブリティのヘアを担当。グレース公妃、フェイ・ダナウェイ、クリスティ・ターリントン、シンディ・クロフォード、キャンディス・バーゲン、オードリー・ヘプバーン、黒人で初めてヴォーグ誌の表紙を飾ったビバリー・ジョンソン、山口小夜子など、ヘアを担当したセレブは枚挙にいとまがない。80年代には、日本で「バージンヘア しましょう」というコピーのCMでも話題になった。90年、直腸がんのため逝去。享年48。

─ 今月の審美言 ─

親友だし、家族でもあるけど、仕事を無我夢中でやっていたときの「仲間」でもあるんです。

取材・文/菊地陽子

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