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「ばけばけ」なぜハーンはアメリカで禁じられた結婚をしたのか…再婚相手・セツと最初の妻の「意外な共通点」

  • 2025.12.9

朝ドラ「ばけばけ」(NHK)ではラフカディオ・ハーン(小泉八雲)をモデルとするヘブンがアメリカ時代に結婚していたことを明かす。作家の工藤美代子さんは「ハーンの別れた妻マティには、二番目の妻となる小泉セツと同じ“語り”の才能があった」という――。

※本稿は、工藤美代子『小泉八雲 漂泊の作家ラフカディオ・ハーンの生涯』(毎日文庫)の一部を再編集したものです。

アメリカに渡り新聞記者として成功

アメリカ・オハイオ州の都市シンシナティで、ハーンの新聞記者としての名声は確立します。センセイショナルな記事をものにして、間違いなく『シンシナティ・インクワイヤラー』で最も優秀な記者と目されるまでになりました。

新聞「シンシナティ・エンクワイラー」、1912年の紙面
新聞「シンシナティ・エンクワイラー」、1912年の紙面(画像=カリフォルニア大学図書館/ハリー・フランクリン/セオドア・トーマス/Flickr-no known copyright restrictions/Wikimedia Commons)

当時、ハーンは24歳になったばかりの青年であり、正規の教育はほとんど受けていませんでした。ヴィクトル・ユゴーなどを引き合いに出す文学的素養は、すべて独学で身につけたものでした。

まるで魔法の杖でも持っているように、あらゆる素材をたちまちのうちに興味深い読み物に変えてしまうハーンの記事は読者の熱狂的な支持を得ました。

ところが、そのハーンが1875年の夏には新聞社を退社せざるを得ない状況に追い込まれます。それは黒人との混血だったマティ・フォウリという女性との恋愛が原因でした。

彼女は母のように面倒を見てくれた

二人の出会いは1872年頃だったといわれています。マティはプラム街125番地の下宿屋で料理人をしていました。この時、ハーンがその家に下男として住み込んだという説と下宿人だったという説とあるのですが、いずれにしても内気で人づきあいの苦手な22歳の青年と、18歳の娘は恋に陥ったのです。

マティに関しては、現在でも、あまり良い評価はなされていません。それは、この恋愛が数年で破局を迎え、その後もハーンがマティの行状に苦しめられた記録が残っているためです。ただ、私はマティにだけ一方的に非があるとするのは、ちょっと酷だという気がしています。

まず、二人が惹かれあうようになった経緯については、エドワード・L・ティンカーがその著書の中で比較的詳しく触れています。

「冬の寒い日々、彼が疲れ果てて職場から遅い時刻に帰って来ると、彼女はいつも食事を温めていてくれた。そして、彼の洋服が雨や奏で濡れていると、彼女は火でそれを乾かしてくれた。彼女は行動で親切を示して、母親のように面倒を見てくれた。それは彼が長い年月で初めて受けたものだった。彼は英国人だったので、他の人たちよりも肌の色への偏見がずっと少なかった。こうした親切がじょじょに特別な関係へと変わっていった。彼は重い病気にかかり、アリシアは献身的に看病した。彼は彼女が生命を助けてくれたと思ったのだった。」

文中にアリシアとあるのは、マティが二つの名前を名乗っていたからです。ティンカーの、ハーンが英国人だったため、アメリカ人よりも肌の色に対する偏見が少なかったというのは、なかなか興味深い指摘です。その上、彼にはギリシャ人の血が流れていて、自身もオリーヴ色の肌をしていました。また、幼い頃に別れた、肌の浅黒い母親に憧れを抱いていたことも関係があったでしょう。マティが美しく、やさしい娘であれば、黒人との混血であったとしても、さして障害とは考えなかったようです。

「誰もが彼女を器量よしと認める」

その頃、ハーンの目に映ったマティは、では、どんな娘だったのでしょうか。はっきりと彼女の名前は出していないのですが、1875年9月26日付けのシンシナティ・コマーシャル紙に書いた記事中に、ハーンは彼女を登場させています。(この新聞は、ハーンが『シンシナティ・インクワイヤラー』を辞めて、すぐに移籍した対抗紙です。)

右を向いているアメリカ・シンシナティ時代のラフカディオ・ハーンの肖像画
アメリカ・シンシナティ時代のラフカディオ・ハーン(のちの小泉八雲)、1873年(写真=エリザベス・ビズランド著『ラフカディオ・ハーンの生涯と手紙』(1906年)よりシンシナティ・ハミルトン郡公共図書館所蔵)

「健康で、体格の良い田舎娘である。いかにも丈夫そうで、血色も良く、下宿屋の台所で働いて暮しを立てている身でありながら、どんなにあら探しの好きな人でも器量よしと認めざるを得ない様子をしている。大きな黒い目には、奇妙に物思いに沈んだ表情があり、娘以外の誰の目にも見えず、影も持たない何者かの挙動をずっと見守ってきたかのようであった」

彼女には、その美しい容姿や気立てのよさ以外にも、ハーンの興味を強く惹きつける、もう一つの要素がありました。

「降神術者達は、娘を強力な『霊媒』とみなすのが常だったが、彼女はそう呼ばれるのをことに嫌った。読み書きを習ったことは一度もなかったが、語るに際しての素晴しく豊かな描写力、普通以上に優れた記憶力、そして、イタリアの即興詩人(インプロヴィザトーレ)をも魅了するであろう座談の才などに生来恵まれていた」

マティは、まるで魔術師がポケットから次々とハンカチを取り出すように、自分が見たさまざまな幽霊の話をハーンに語ったのでした。それは実に迫力に満ちた幽霊でした。

ラフカディオ・ハーンと結婚したアリシア・フォーリー(通称マティ)の若い頃
ラフカディオ・ハーンと結婚したアリシア・フォーリー(通称マティ)の若い頃(『知られざるハーン絵入書簡-ワトキン、ビスランド、クールド宛1876-1903 桑原春三所蔵』より)
マティも幽霊の話が得意だった

「殺された農夫はいまだに安らかな眠りを得ていないとみえて、毎晩、馬に乗った幽霊が街道を駆けて行きます。目に見えない姿で徴収所を駆け抜けることもあれば、寒い夜に鋭い蹄の音を響かせて通ることもあり、雨の晩には泥を飛び散らし、ずぶぬれになっているような気配で進んで来ます。けれども、その姿が見えるのはフィルマンの森だけに限られています。ぼんやりとした、頭のない恐ろしいその姿。わたしは見ました。そして、強い風の一吹きで、ろうそくの炎のように消えて行くのも見ました」

彼女の体験談を文字で再現するハーンの筆力もさることながら、やはりマティの話術がとても巧みだったからこそ書けたのではないかと思わせるような文章です。

ハーンが幼い頃に暗闇の中に幽霊を見て怯えたのは、よく知られている話です。長じてからも、世の怪奇現象に強い興味を示しました。それは、現実の世の中とどこかうまく適応できないところがあって、そのために生じたズレのようなものから発したのではないかと考えられます。

父は白人の農場主、母は黒人奴隷

マティもまた、幽霊を見る娘だったのです。しかし、冷静に考えてみると、幽霊などという超自然現象は、そんなにしょっちゅう起きるものではありません。全くその存在を否定するつもりは毛頭ありませんが、マティの場合は豊かな想像力の産物だった可能性も考えられます。

工藤美代子『小泉八雲 漂泊の作家ラフカディオ・ハーンの生涯』(毎日文庫)
工藤美代子『小泉八雲 漂泊の作家ラフカディオ・ハーンの生涯』(毎日文庫)

では、マティはどのような少女時代を過ごしたのでしょうか。彼女は1854年にケンタッキー州のメイスヴィルで生まれました。白人の農場主と黒人の奴隷との間に生まれた子供というのが定説になっています。

南北戦争中は、近郊の白人家庭に雇われていました。

アメリカのリンカーン大統領が奴隷解放宣言を出したのは1863年で、その時、マティは9歳でした。働きながら各地を転々としていたマティは、14歳の時、ケンタッキー州のドーヴァーで男の子を産みます。父親はアンダースンというスコットランド人だったといわれています。

ウィリーと呼ばれる男の子を出産して1年もたたないうちに、マティはシンシナティに出て来ました。そしてプラム街の下宿に住み込みで働くようになりハーンと知り合うわけです。

現代の私たちの感覚からいうと、アメリカの奴隷制度は百年以上も昔に廃止された制度であって、もはや歴史上の出来事です。しかし、ハーンがマティと知り合った頃は、まだ生々しくその後遺症が残っていました。社会そのものが黒人を低い地位に見ていました。常に弱い者や貧しい者に心を通わせるハーンにとって、この白人の優越意識は許せないものだったのでしょう。前出のティンカーの文章は次のように続いています。

「感謝の気持ちで恩義を感じた彼はドンキホーテのように、邪悪をただすべく彼女と結婚することに決めた。それは他の人たちをひどく驚かせたのと同じくらい彼女のことも驚かせた。」

白人と黒人の結婚は禁止だった

知り合って2年後の1874年6月に、ハーンは彼女との結婚を決行しました。しかし、これはティンカーが言うように、確かに「ドンキホーテのよう」な行為だったのです。白人が黒人か、あるいは黒人との混血児と結婚することは、単に社会的に受け入れられなかったばかりではなく、法律的にも禁じられていました。

白い肌の腕と黒い肌の腕が手をつなぐ様子
※写真はイメージです

最初に頼んだ牧師には断られ、ようやく二番目に頼んだ黒人の牧師が引き受けてくれて、二人は式を挙げました。ただし、役所には受け付けてもらえず、正式に登録されなかったものと思われます。

この時、ハーンは間もなく24歳で、マティは22歳でした。思い込みが激しく、感受性に富む青年と、想像力が豊かで、空想を現実に取り込むのが上手な娘は、二人とも日常から少し遊離したところで生きているという点では共通項があったのではないでしょうか。

工藤 美代子(くどう・みよこ)
ノンフィクション作家
1950年、東京都生まれ。18歳でチェコのカレル大学に留学。帰国後に70年大阪万博の通訳。72年の札幌五輪のコンパニオンをつとめる。73年にカナダに渡りコロンビア・カレッジを卒業。93年に日本に帰国。昭和史、皇室関係のノンフィクションを執筆。『工藤写真館の昭和』で講談社ノンフィクション賞受賞。主な著書に『悪名の棺 笹川良一伝』『絢爛たる醜聞 岸信介伝』『母宮貞明皇后とその時代 三笠宮両殿下が語る思い出』『美智子皇后の真実』など。

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