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女中セツでも、県知事の娘でもない…小泉八雲が最初に愛情を注いだ「23歳で亡くなった女中」の悲しい生涯

  • 2025.12.9

NHK「ばけばけ」は、明治時代の文豪・小泉八雲と妻のセツをモデルにした朝ドラだ。史実の八雲は、どういう人物だったのか。ルポライターの昼間たかしさんが、過去の文献から八雲の人間性などに迫る――。

1889年のラフカディオ・ハーンの写真
1889年のラフカディオ・ハーンの写真(写真=Gutekunst/Concerning Lafcadio Hearn, 1908/PD US/Wikimedia Commons)
女中“代わり”の「お信」との交流

NHK朝の連続テレビ小説「ばけばけ」では、県知事の娘・リヨ(北香那)がヘブン(トミー・バストウ)に猛烈なアタックを仕掛け続けている。ヘブンのモデルとなったラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が、実際に県知事の娘から激しく求愛されていたのは事実だ。

だが――。

史実の八雲には、ドラマでは決して触れられない「もう一人の決定的な女性」が存在していた。しかも、その関係はセツとの結婚をも左右したほど深く、そして複雑なものだった。

それが、八雲が最初に滞在した冨田旅館の女中、お信である。「ばけばけ」では花田旅館の女中・ウメ(野内まる)として描かれているが、ドラマが決して踏み込まないであろう、八雲とこの少女との濃密な関係がそこにはあった。

八雲が滞在していた冨田旅館の主人・冨田太平とツネ夫婦が昭和になって取材を受けた「冨田旅館ニ於ケル小泉八雲先生」という記録が残っている。以前の記事でも触れた資料だ。

この証言によれば、当時旅館には夫婦のほか、「懇意先の娘で女中代わり」のお信と2人の召使いがいたという。

「女中代わり」とは妙な表現である。

実際、八雲が毎日たしなむ煙管の世話はたいていお信がやっていたと夫婦は語っており、彼女が女中の仕事をしていたのは間違いない。では、なぜわざわざ「代わり」などという言い方をするのか。

旅館の夫婦が「頼まれて仕方なく引き取った」子供

その理由は、夫婦自身の証言の中に隠されている。お信が関わるあるエピソードを語る際、夫婦はこう記しているのだ。

「私方ニ女中代ワリニ働イテ居タお信(赤ノ他人ナルモ頼マレテ余儀ナク養育シタモノ)」

お信は血縁者でもないのに「頼まれて仕方なく引き取った」子供だったというのである。そして、女中代わりのお信のほかに、召使いが二人いると書かれている。つまり、正規の使用人はちゃんと雇っていた。にもかかわらず、お信だけが「女中代わり」なのだ。

この言葉の裏には、冷酷な現実が透けて見える。正式な女中には賃金を払う。だが、「頼まれて仕方なく引き取った」お信には払わない、あるいは雀の涙ほどしか渡さない。そういう区別である。

血縁もなく、頼る者もいない。「仕方なく」引き取ってやったのだから、働いて当然……冨田夫婦の証言からは、そんな傲慢さすら漂ってくる。要するに、身寄りのない子供を善意の仮面の下で、実質的に無償の労働力として使っていたということだ。

もちろん、明治期の家制度においては、奉公や“引き取り”がそのまま労働と結びつくのは一般的な慣行だった。現代的な児童労働の概念をそのまま当てはめることはできない。とはいえ、史料からはどこかやりきれない想いを感じてしまう。

「かわいそうに23歳で亡くなった」と淡々と語るツネ

ともあれ、この無名の少女・お信の存在を抜きにしては、八雲の初期像はまったく立ち上がらない。冨田旅館に滞在していた頃の八雲が、もっとも心を通わせたのはセツでも県知事の娘でもない。事蹟もあまり残らぬ少女・お信である。

桑原羊次郎『松江に於ける八雲の私生活』(山陰新報社 1953年)の中で、ツネに話を聞いた桑原は、最初からこう質問している。

「旅館滞在中にお信さんという女中がいて、八雲先生の世話をなし、八雲先生はお信さんの眼病を自費で療治せしめたと聞きますが、そのお信さんはどんな来歴の人でしたか、まだ存生ですか」

桑原がツネに話を聞いたのは1940年6月のこと。八雲が松江を去ってから半世紀近く経っているが、まだ当時を知る人々が生きていた時代である。

この質問の仕方から分かるのは、「冨田旅館で八雲の世話をしていたのはお信」「八雲がお信の眼病を自費で治療した」という話が、松江ではほぼ常識として語り継がれていたということだ。誰もがなんとなく知っている、八雲と少女をめぐる有名なエピソードだったのである。

これに対するツネの答えは、淡々としていて、むしろその無感情さが残酷だ。

「お信は出雲国能義郡広瀬町の池田というものの子でありましたが、両親に早くより死別し、その祖母に当たる人がお信の7歳の時にその弟と二人を連れて、少々のゆかりを頼って私方に参り、お信は女中代わりとして手伝いと致しまして、八雲先生の見えた時お信は15、6歳の時でした。先生のお世話は万事私とお信が致しました。先生は大層お信を可愛がって英語をお教えなさいました。そしてお信はかわいそうに23歳で亡くなりました」

旅館の夫婦は、お信を養女にしていた

7歳で祖母に連れられ、弟と共に「少々のゆかり」を頼って流れ着いた少女。両親は既に死に、頼る先もない。そんな子供を「女中代わり」として働かせ、23歳で死ぬまでその境遇は変わらなかった。ツネはそれを、まるで天気の話でもするかのように語っている。

確かに当時の感覚では、身寄りのない子供を引き取って食べさせてやったのだから善行だ、という理屈もあっただろう。だが、その「善意」の実態は、幼い頃から死ぬまで無償で働かせ続けることだったのだ。

さらに残酷なのは、冨田夫婦がのちにお信を養女にしていることである。

一見すると、これは彼女を家族として迎え入れた温情のように聞こえる。だが、当時の社会習慣を考えれば、その意味は全く違う。

養女にするということは、法的に「家の者」として固定することだ。つまり、簡単には逃げ出せなくする。労働力として完全に囲い込む手段でもあったのである。

「女中代わり」として7歳から働かせ、やがて養女の名目で縛りつけ、23歳で死ぬまで働かせ続ける。そして死後、取材に応じた老婆は「かわいそうに亡くなりました」と、まるでひとごとのように語るのだ。

まさに、お信がどういう境遇であったかが想像できる。そして、八雲が深く同情した理由もわかる。

八雲が治療費を出し、霊験を願って大金を納めた

八雲自身、幼い頃に両親が離婚し、大叔母に引き取られて育った。愛情というよりは義務として養育され、孤独な少年時代を送った経験がある。さらに、アメリカでの極貧生活、新聞記者時代に見てきた社会の底辺……。八雲は、弱者がどう搾取されるかを身をもって知っていた。

だからこそ、冨田旅館で働く少女の姿に、自分自身の影を見たのである。

そんな八雲はお信が眼病を患っていることを知ると、激怒した。

「女中代わり」として引き取っておきながら、夫婦は少女が眼病で苦しんでいてもまともに医者にも診せていなかったのだ。八雲は自ら診察代を出し、完治するまで治療を受けさせた。

興味深いのは、八雲が頼った医師・西川自省の反応である。西川は、外国人教師が身寄りのない少女のために自腹で医療費を払おうとする姿に深く心を打たれ、無料で無期限に治療することを申し出たのだ。自身も片目を失明している八雲にとって、境遇も似ているお信は、まったく他人とも思えない少女だったのだろう。

ラフカディオ・ハーン
ラフカディオ・ハーン(写真=The life and letters of Lafcadio Hearnより/Files from Flickr's 'The Commons'/Wikimedia Commons)

実際、治療が始まった頃、八雲はお信をともなって一畑薬師に参拝している。一畑薬師は出雲大社と並ぶ出雲地方の信仰の中心であり、眼病に霊験あらたかとされる寺だった。このとき、八雲はお札を受ける際に10円もの大金を納めている。

八雲の月給が100円だから、その1割といえば現代の感覚で言えば、月収50万円の人間が5万円を一度に寺に納めたようなものだ。とてつもない額である。

八雲自身も一緒に参拝していた

医者の治療費を出し、さらに霊験を願って大金を納める。外国人教師が、血縁もない日本人の少女のために、ここまでするだろうか。

しかも八雲は、お信を「連れて行かせた」のではない。自ら「ともなって」参拝したのだ。主人が使用人を寺に行かせるのではなく、二人で一緒に祈りに行く。その距離感に、八雲とお信の関係の特異性が表れている。

八雲にとってお信の眼病の全快は欠かせないものであったらしく、冬の寒さで体調を崩して寝込んでいた時期にも、西川医師を訪れて治療の相談までしていたほどだ。

一方で夫婦への怒りは、生涯消えることがなかった。

セツと結婚した後、たまたま隣人が冨田旅館の主人だと知っただけで、八雲は露骨に不機嫌になり、隣人やセツを唖然とさせている。それどころか、後年松江を訪れた際も、冨田旅館に立ち寄ることすら一度もなかった。八雲が、ここまで徹底的に拒絶し続けたという事実。それが、彼がお信の境遇にどれほど心を痛めていたかを物語っている。

そうして、眼病も快方に向かったお信のおかげで、八雲はセツとの運命的な出会いを果たすことになる。

お信がいなければ、八雲とセツは出会わなかった

もともと、セツがどのような経緯で八雲の女中として雇われたかは、はっきりしていない。

前述の桑原の取材では、ツネが「お信の友達に小泉セツさんという士族のお嬢様があり」と証言したことが記されている。ところが、セツ自身が記した『思ひ出の記』には「宿の小さな娘が眼病を煩っていましたのを気の毒に思って」とあり、友人という関係ではなかったようだ。

長谷川洋二『小泉八雲の妻』(松江今井書店1988年)では「お信が、人伝にセツのことを知り、住み込み女中を求めているハーンの話がセツに伝わった、といったところが想像されるのである」と推測している。

つまり、友人というほど親しい間柄ではなかったが、お信が仲介役となってセツに話が伝わったということだろう。少なくとも、お信がいなければ、八雲とセツの出会いはなかったかもしれない。そう考えると、この15、16歳の少女は、八雲の人生において決定的な役割を果たしたことになる。

そうした八雲の人情こそが、セツとの間に深い信頼関係が生まれる原点だったのではないか。

ラフカディオ・ハーンと妻のセツ
ラフカディオ・ハーンと妻のセツ(写真=富重利平/Japan Today/PD US/Wikimedia Commons)
一貫した姿勢が、セツの心を動かしたか

セツは士族の娘とはいえ、没落士族である。父は早くに亡くなり、家計は苦しく、住み込みの女中として働かざるを得ない境遇だった。つまり、彼女もまた社会の弱者だった。

八雲が、身分も人種も違うお信という少女のために怒り、私財を投じて救おうとする姿を、セツは間近で見ていたはずだ。あるいは、お信から直接その話を聞いたかもしれない。

外国人教師という権力ある立場にいながら、弱い者を決して見捨てない。むしろ、不正義に対しては激しく怒る。その一貫した姿勢が、セツの心を動かしたのだろう。

八雲という男は信じられる。この人は私を裏切らない。そう確信できたからこそ、セツは言葉も文化も異なる外国人との結婚という、当時としては途方もない決断を下せたのではないか。

お信への献身は、単なる美談ではない。それは、八雲の根にある「弱者から決して目をそらさない」という資質そのものの証明である。

そしてその資質にこそ、セツは自分の人生を預けたのだ。

昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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