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94歳、今も踊り続ける…「日本フラメンコ界の母」が20代の時にナイトクラブで見た忘れられない光景

  • 2025.11.30

94歳の小松原庸子さんは、スペインを代表する伝統舞踊フラメンコを日本で広めた立役者だ。無縁だったフラメンコにどのように出合い、今でも踊り続けているのか。ノンフィクション作家の黒川祥子さんが、フラメンコに捧げた小松さんの人生をたどる――。

日本のフラメンコ界を牽引してきた94歳

JR中央線「高円寺駅」南口からすぐ近く、駅前の飲食街に隣接する住宅街の一角に、半世紀以上にわたり、日本のフラメンコ界を牽引してきた場所がある。それが、「小松原庸子スペイン舞踊団」だ。

ある木曜日の夜、さまざまなトップスにロングスカートを纏った女性たちが、レッスン場の壁一面に張り巡らされた鏡の前で踊っていた。インストラクターの指示で足を踏み鳴らし、カスタネットを叩き、優美に舞う。

そこにゆっくりとした足取りで、小松原庸子さんが現れた。御年おんとし94歳。小柄で痩身な身体でありながら、長年鍛えられた体幹のせいか、一歩一歩踏み出す姿に骨太な力強さを感じる。入り口近くの椅子に座ってフラメンコシューズに履き替え、カスタネットを両手につけ、すっと立ち上がる。曲に合わせてカスタネットでリズムを刻みながら、自然にレッスン生の輪の中へと入っていく。年齢を一切感じさせない、指導者としての風格があった。

「カラコレ? アレグリ? 皆さん、何を踊りたい? じゃあ、カラコレ、行こう」

「カラコレス」も「アレグリアス」も全て、フラメンコの曲名だ。「カラコレ」と聞いた生徒たちが、一斉に扇子を手に取る。

月に1、2回は今も自ら指導にあたる小松原庸子さん(左端)。
月に1、2回は今も自ら指導にあたる小松原庸子さん(左端)。

「扇子の開け方はこうして。手首を、中に入れて」

華やかで優雅な扇子の動きが、レッスン場いっぱいに広がる。小松原さんは一人一人、扇子の使い方を見定めていく。眼光は鋭い。

「次は、タンギージョ」

「若い人を教えることで、自分も上達しますから」

生徒たちは四隅に散り、今度は帽子を手に取る。

「お帽子を被るときは左の眉毛を隠して、斜めに見せる。取るときは、肘を曲げないで。帽子を、好きな人だと思ってね。自分を世界一、美しいと思って踊ってください。できるだけ、明るく。おお、いいねー。ずいぶん、上手になっているから」

小松原庸子さん

小松原さんのあたたかな声かけに、レッスン場にいくつものうれしそうな笑顔が広がっていく。

日本フラメンコ界の草分けであり、フラメンコの新たな舞台芸術を作り上げた創始者が、今でもこうして自らレッスン場に立っている。驚きを隠せないこちらに、小松原さんは当たり前のことだと朗らかに笑う。

「若い人を教えることで、自分も上達しますから。今はもう、月に1回か、2回ぐらいなんですけど、できる限り指導します」

邦楽の家に生まれて

小松原さんは東京の下町、柳橋の一角で、1931(昭和6)年3月に生まれた。両親と5つ上の兄との4人家族で育つ。

「私は一般の、普通の家庭生活というものを知らないの」

父は三味線音楽「常磐津」の師匠であるという邦楽を生業とする家は、芸事に生きる人たちの三味線や歌など“音”に満ちた世界だった。

「両親は私を、日本舞踊の師匠にしたかったんです。私が好きとか嫌いとか関係なく、日本舞踊は必ずやらないといけないものでした。日本舞踊を踊れれば、歌や三味線など芸事が理解できるからだと思いますね。それは、フラメンコにものすごく役に立ちました」

父の撮影による家族の写真。右端が母。真ん中に兄と小松原さん。左端は叔父さん。
父の撮影による家族の写真。右端が母。真ん中に兄と小松原さん。左端は叔父さん。

花街ゆえ、芸者さんの存在も身近なものだった。

「綺麗で華やかな方は何もしないで売れっ子になるけれど、そうでない方は一生懸命、稽古されるんです。教えることに関しては、父はとても上手でした。優しくて、それでいて厳しくて。その方達は、美女よりもずっと上手になるんです。いい歌、いい踊り、いい三味線で、芸者としての魅力を発揮する。文字通り、芸で身を立てるんです」

小さい頃から「音」の中で育った

こうして、小さい頃から「音」の中で育った。舞台という存在も、ごく当たり前に生活の中にあった。

「父親は六代目菊五郎にすごく可愛がられて、私は小さい頃から歌舞伎座で遊んでいました。役者さんに遊んでもらってね。そこで歌舞伎の舞台もよく見ていましたね。それが、普通のことでした」

父の指導で、鮮明に覚えていることがある。

「お弟子さんを一人一人、襖の閉まった部屋に行かせて、他のお弟子さんに、『今、誰が三味線を弾いた? これは、誰の歌?』って当てさせるんです。耳を大切にしないといけないって。フラメンコも音ですから、これもすごく役立ちました」

後に詳述するが、小松原さんによると、フラメンコにとっては「音」こそ、その真髄なのだという。

「音」の中で生まれ育ち、「音」に対していかに鋭敏であらねばならないのかを肌で学んでいた。そこで鍛えられた「耳」は、後にフラメンコで花開く。

バレエ、そして演劇の世界へ

俳優志望の兄は、「芝居は踊りだから、バレエを知らないといけない。僕は、バレエを習う」と、当時の男性では珍しく、バレエのレッスンに通うという人物だった。バレエを踊る際に兄が纏う衣装も、当時の小松原さんきょうだいにとっては、見栄えのよいものではなかったようだ。

「みっともない格好をしてね。あまりに恥ずかしいから、お前のいるところでは踊らないって言ってましたねー。兄は、私にとって誰よりも好きな人でした」

1999年に亡くなった兄の菅原謙次さんは、後に希望通り俳優座養成所に1期生として入所、映画、テレビ、新派劇で活躍した。

兄で俳優の菅原謙二さんと談笑する。仲の良い兄妹だった。
兄で俳優の菅原謙二さんと談笑する。仲の良い兄妹だった。

戦後、小松原さんは兄の勧めでバレエを始めた。

「何かを演じることが楽しく思えて、いつしか女優になりたいと思うようになり、兄が『それなら、バレエをやっておいた方がいい』というのでバレエを始めたのです」

日本バレエ界の基礎を築いたと言われる小牧正英さんが、戦後すぐに立ち上げた「東京バレエ団」に、小松原さんは15歳で入門した。

「バレエは天を目指して上に、上にと伸びるもので、腰を落として動く日本舞踊とは対照的でした。日本舞踊の動きは、むしろフラメンコに似てるんです。でも、バレエはすごい。あらゆる踊りの絶対的基礎で、それは私のフラメンコにも間違いなく役立っています」

生涯でたった一人、愛した男性

バレエをやっていた16歳の頃、ある画学生と出会う。彼末宏さんだ。画家として大成した彼こそ、小松原さんが生涯でたった一人、愛した男性であり、夫となる人であり、フラメンコへの扉を開いてくれた人でもあった。

2人は20歳で、結婚。すでに映画スターとして名を馳せていた、兄の菅原謙次さんと3人で暮らした。

「兄が私の結婚相手と仲良くなって、私が2人のところにお嫁入りしたみたいでした。兄と夫は、すごくいい関係でした」

「舞台で、何かを演じてみたい」と願っていた小松原さんは、念願叶って俳優座の養成所に入り、演劇の道に進む。20歳の時だ。後輩には仲代達也さんもいた。舞台に立つだけでなく、照明に大道具、営業と何にでもチャレンジした。

「舞台が作られていくということを、身をもって体験したことは、のちに自分で舞踊団を立ち上げた時、大いに役立ちました。でも、女優としては才能がなかったみたい」

舞台芸術に夢中になり、体当たりで駆け抜けた20代だった。

「私は、ためらうということを知らないんです。“成せば成る”と、いつも思っていますから」

フラメンコとの出合い

20代後半、一生の仕事となるフラメンコと出合う。最初はナイトクラブだった。

「スパニッシュダンスということで、スペインから大勢のグループが来ていました。決定的だったのは、ピラール・ロペスの舞踊団の公演を見た時です。私のやりたい世界がここにあった、って確信しました」

小松原庸子さん

背中を押してくれたのは夫だった。

「彼は絵描きだったから、絵の勉強のためにヨーロッパに旅行した時に、お土産に1枚のレコードを買ってきてくれたの。それが、すごいレコードだった。カルメン・アマジャ。彼女に一気に引き込まれ、魅入られた。彼女が歌って、踊るんですよ」

カルメン・アマジャは、バルセロナのロマの家系に生まれたフラメンコダンサーだ。一枚のレコードのどこに、そこまで魅了されたのか。

「音ですね。床を踏み鳴らす足音、カスタネット、手拍子、それと、リズム……。全てが心を掻き立てる。ジプシーが生きるために、歌ったり踊ったりしている。そういう思いが、胸に伝わってきた。それはジプシーたちの、生きるという情念のようなものでした」

来日公演で見たロペスへの憧れもあり、擦り切れるようにレコードを聴いている小松原さんに、夫は言った。

「そんなに好きなら、庸子さんもスペインに行けばいいじゃない」

兄も、同じ思いだった。

「やっぱり、スペインに行って、お稽古しないとダメだよね」
「それも、そうね。行きたいな」

1962年、30歳で、小松原さんはすんなりと渡欧を決めた。海外旅行のハードルの高さも、女性一人の海外滞在も、言語の壁も難なく飛び越え、「ためらうということを知らない」精神の本領発揮で、小松原さんは単身、スペインへと旅立った。

黒川 祥子(くろかわ・しょうこ)
ノンフィクション作家
福島県生まれ。ノンフィクション作家。東京女子大卒。2013年、『誕生日を知らない女の子 虐待――その後の子どもたち』(集英社)で、第11 回開高健ノンフィクション賞を受賞。このほか『8050問題 中高年ひきこもり、7つの家族の再生物語』(集英社)、『県立!再チャレンジ高校』(講談社現代新書)、『シングルマザー、その後』(集英社新書)、『母と娘。それでも生きることにした』(集英社インターナショナル)などがある。

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