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フィラデルフィアに「カルダー・ガーデン」が誕生。構想からオープンまでの裏側に迫る

  • 2025.11.12
《3 Segments》(1973)
《3 Segments》(1973)

フィラデルフィア美術館近くの眺めの良い場所に立ち、付近を通る緑地帯が設けられた道路、ベンジャミン・フランクリン・パークウェイに目をやると、あるアーティスト一族の系譜が浮かび上がる──この道路沿いには、アメリカアート界のレジェンド、アレクサンダー・カルダーを生んだカルダー家が3代にわたって制作した、3つの作品が並んでいるのだ。はるか向こう、凝った装飾を施された市庁舎の屋根の上には、ウィリアム・ペン(フィラデルフィアがあるペンシルベニア州の前身となった植民地の建設者)の銅像が見える。高さ11メートルを超えるこの銅像を制作したのは、この街に55年にわたり住み続けた祖父のアレクサンダー・ミルン・カルダーだ。そして中ほどにある噴水には、アレクサンダー・ミルンの息子、アレクサンダー・スターリング・カルダーによる、アールデコ様式の彫刻3体が配置されている。しどけなく体を横たえるこの三人の像は、フィラデルフィア付近を流れる3つの川を象徴している(1924年、熱波の最中にこの噴水が開設されたときには、オープンを祝って数千人が街に繰り出し、タンゴを踊ったという)。そしてフィラデルフィア美術館の真ん中、階段室の吹き抜けにはその子、アレクサンダー・カルダー作のモビールがかかっている。くすんだベージュ色の石柱をバックに、白く丸みを帯びたパーツが宙に浮かぶそのデザインは、軽やかでありながら力強い。

展示室の様子。複数の作品がローテーションで展示される予定。《Myxomatose》(1953)《Jerusalem Stabile II》(1976)《The Green Stripe》(1963)《Untitled, c.》(1952)
展示室の様子。複数の作品がローテーションで展示される予定。《Myxomatose》(1953)《Jerusalem Stabile II》(1976)《The Green Stripe》(1963)《Untitled, c.》(1952)

作品の命名に関して、コレクターやキュレーターが求めるルールに従うことに消極的だったアレクサンダーは、このモビールをシンプルに「ゴースト」と呼んだ(一家3代の歴史をさかのぼることができるこの道の眺めについて孫のアレクサンダーは、「父と子、そして“非聖霊(アンホーリー・ゴースト)”だ」とキリスト教の三位一体になぞらえたジョークを言っていたという)。

そしてこの秋、「カルダー家の軸」とでもいうべきこの道沿いに、家族の系譜をさらに強く印象づける、ある施設がオープンする。「カルダー・ガーデン」と名付けられたこの場所は、アレクサンダー・カルダーの作品だけを展示する、世界で唯一の施設だ。とはいえ、名前からもわかるように表向きは美術館を名乗らず、「来訪者が新たな視点からカルダーを深く知り、体験する場所」として定義されている。

著名な建築家のジャック・ヘルツォークが建物の設計を、世界随一の影響力を誇るランドスケープデザイナーのピート・アウドルフが造園を手がけたこのプロジェクトは、パークウェイ沿いに立ち並ぶ、石柱を配した意匠の建物群とは一線を画する。その外観は、威圧感とは無縁だ。建物のほとんどは地下にあり、わずかに金属のサイディングに覆われた低層の構造物が、野の花やこの地に自生する植物、若木などをクラスター状に配置したナチュラルガーデンから顔を覗かせている。

プロジェクトで作品を展示する建物の設計を担った建築家のジャック・ヘルツォーク。
プロジェクトで作品を展示する建物の設計を担った建築家のジャック・ヘルツォーク。

正面にはこの施設の存在を知らせる看板はないが、オープン後はエントランスのそばに置かれたカルダー作の彫刻《Cock’s Comb》(NYにあるホイットニー美術館から貸し出された作品)が、来訪者にとって格好の目印となるはずだ(私が訪れた、蒸し暑い7月末の午後の時点では、施設の仮囲いにオープン日の告知が貼られていて、「さまざまな解釈に開かれた場が生まれます」と書かれてあった)。「狙いは、建物の中で道に迷い、方向感覚を失う体験を通じて、好奇心の高まりを感じてもらうことです」と語るのは、カルダー・ガーデンのプログラムディレクターを務めるフアナ・ベリオだ。私が訪れた際にも、ベリオはプロジェクトマネージャーのウィリアム・マクダウェルとともに、この施設の敷地内をくまなく案内してくれた。「ここは自分の内面に入っていくことを促す場所です」と説明する彼女は、オープン後のカルダー・ガーデンで、「サイレントデー」や、シャーマンの招聘といった趣向を計画している。これも、これまでカルダーの作品にまったくなじみがなかった人たちに興味を持ってもらうための工夫だ。

アレクサンダー・カルダーは、1898年にフィラデルフィアで生まれたこの街を代表するアーティストだ。だが、プロジェクトは難航を極め、決して諦めない者たちの意志によって、ようやく誕生にこぎつけたかたちだ。「カルダー美術館」建設プロジェクトの発端は、30年以上前にまでさかのぼる。当初の計画は、建築家の安藤忠雄が設計を担当することが発表される段階にまで進んでいたが、さまざまな理由から暗礁に乗り上げた。そこでフィラデルフィア在住の慈善家、H・F・“ゲリー”・レンフェストはこの構想に見切りをつけ、同郷の慈善家、ジョセフ・ノイバウアーに立て直しを依頼した。

ノイバウアーにこのときのことについて話を聞いたのだが、彼は開口一番、「私について最初に知っておくべき事柄は、私が移民だということです」と言い放った。その声はぶっきらぼうでありながら、温かみも感じられた(この発言は、ミュージカル『ハミルトン』を踏まえたものだ。劇中歌の「ヨークタウン」には「移民なので/我々はきっちりと仕事をする」との一節があるからだ。確かに彼はこのプロジェクトで、見事に仕事をやりとげた。ちなみに彼の両親はホロコーストのサバイバーで、自身も10代のころにアメリカに逃れてきたという体験の持ち主だ)。

バーンズ財団が所蔵する著名な美術コレクションの展示施設を、フィラデルフィアの郊外から街の中心部に移動させた際にも、ノイバウワーは中心的な役割を果たした。この引っ越しは議論を呼んだが、事実、その後は観客数が大幅に増加した。レンフェストがカルダーの功績を讃える施設を建設するプロジェクトの責任者を務めるよう、彼に依頼した背景にもこの実績があった。「『ジョー、もう君しかいない。それから、サンディには責任を持って関わってもらうようにしてくれ』と言われました」と、ノイバウアーは振り返る。この「サンディ」とは、アレクサンダー・カルダーの孫で、カルダー財団の理事長を務めるサンディ・ロウアーだ。

コネチカット州にあった自らのスタジオで制作に臨むアレクサンダー・カルダー。1964年撮影。Photo_ Getty Images
コネチカット州にあった自らのスタジオで制作に臨むアレクサンダー・カルダー。1964年撮影。Photo: Getty Images

そのロウアーはこう証言する。「ジョー・ノイバウアーと名乗る人物から電話が来ました。そのときはまったく面識がなかったのに、いきなり『カルダーのホームタウンに美術館をつくりたい』と提案されたんです」。しかし、「どちらかと言うと未来を志向するタイプ」を自任するロウアーはこのとき、自身の祖父を讃える美術館の建設にそれほど興味は持てなかったという。電話インタビューに応じたロウアーは、「カルダーの作品を閉鎖的な空間に並べて、訪れた人が壁に書かれた説明文を読む、というようなものなら、やりたくありませんでした」と、当時の心境を語った。一方のノイバウアーも「サンディと私の間では、多少の押し問答はありました」と証言する。

それでも、ロウアーが興味を持ったのは、この施設をある種の「聖なる地」とし、今再び、祖父の作品の根本にある精神を表現する、という構想が提示されたからだ。これはカルダーが生み出したモビールを、世界中のギフトショップで売られているこじゃれたインテリアグッズではなく、「人間と調和し、神秘的な効果を生み出す特別な作品、人の魂を高揚させ、一つ上の体験を提供するもの」として位置付ける試みだ。

これについては、厳粛な雰囲気に満ちた、常設のアート展示施設をイメージするとわかりやすいだろう──テキサス州ヒューストンにある、マーク・ロスコの巨大な絵画を配した無宗教の礼拝堂「ロスコ・チャペル」や、天窓によって空をキャンバスに見立てるジェームズ・タレルの「スカイスペース」など、至高の存在に思いをはせたくなるような場所だ。加えて、アンリ・マティスが心血を注いだニース近郊のロザリオ礼拝堂や、ニューヨーク市の北、ウェストチェスター郡のポカンティコの丘に立つ、マルク・シャガールがステンドグラスを手がけたユニオン教会など、アーティストが生み出した美が息づく教会堂もこのカテゴリーに入る。

とはいえ、当初のカルダー美術館プロジェクトに土地を貸し出し、再始動後のプロジェクトでも貸与の意思を示していたフィラデルフィア市当局が、「礼拝堂」と表現されるような施設に公金を支出することに難色を示す可能性もあった。加えて、ロウアーとノイバウアーが白羽の矢を立てた建築家のヘルツォークも、施設に宗教的な色彩をまとわせることにあまり乗り気ではなかった。「宗教的な意味合いを帯びさせるのはやめたいと思いました。どんな形であれ、仰々しくなるのを避けたいというのが、私たちの総意だったからです」と、ヘルツォークは振り返る。

既存の美術館の概念を超えて

バラエティ豊かなカルダーの作品を収める展示室。《3 Segments》(1973)と《Jerusalem Stabile II》(1976)。
バラエティ豊かなカルダーの作品を収める展示室。《3 Segments》(1973)と《Jerusalem Stabile II》(1976)。

とはいえヘルツォークは、彼の起用を決めた二人にとっても、かなり思い切った選択だった。スイス出身で、ピエール・ド・ムーロンとともに建築事務所、ヘルツォーク&ド・ムーロンを率いるヘルツォークは、これまでは巨大建築プロジェクトで名をはせてきた建築家だ。二人の過去の代表作は、ロンドンの巨大なバンクサイド発電所を美術館に改装したテート・モダンや、2008年の北京オリンピック向けに建設された国家体育場(別名「鳥の巣」)などだ。

これらの建築物と比べると、8000平方メートルほどの敷地に延べ床面積1800平方メートルほどの施設を建設するカルダー・ガーデンは、かなり規模が小さい。「彼(ヘルツォーク)にとっては、とても小さなプロジェクトです」と、ロウアーも認める。それでも、このプロジェクトに特有の課題が、ヘルツォークには魅力的に映った。その一つが、「既存の美術館の概念に収まらない施設を造る」という、その基本コンセプトだ。展示についても、あえてパーマネントコレクションを設けず、複数の作品群をローテーションで展示することになっていた。さらに重要だったのが、カルダー財団が掲げる、広範なミッションを尊重することだ。「徐々に発展していくプロジェクトでした。だからこそ、一つ一つのステップに発見があったのです」と、ヘルツォークは振り返る。

ヘルツォークは以前、南仏のホテル、ラ・コロンブ・ドールに展示されているカルダーの彫刻の写真を目にしたことがあり、緑豊かなプールサイドに作品がたたずむイメージが脳裏に焼き付いていた。これが「建物ではなく、庭が真っ先に目に入る施設」という、カルダー・ガーデンのデザインに結実した。

スイスのバーゼル郊外にある自宅から取材に応じたヘルツォークは、「『このプロジェクトは実体やフォルムを持つべきではない』ということに気づきました」と打ち明ける。とはいえ、この施設に運び込まれる作品を展示する場所は必要だった。これらの作品は、カルダー財団が所蔵していたもの、ほかの美術館から貸し出されたもの、個人蔵でこれまで一度も公開されていないものと、出自も多岐にわたっている。「スペースは作らなければなりません。ということで、アイデアを実現させるためには、地下に目を向けるのが自然な成り行きでした。地上に建築物を建てるのではなく、地面を掘り下げることで、スペースを作り上げていったのです」と、ヘルツォークは説明する。

私も、この建物を構成するさまざまなパーツを解説するヘルツォークの講義を見る機会があった。そこで、凹レンズを思わせる円盤状のパーツ、スタジアムにあるようなベンチとしても使える階段、非常に高い天井とつながり、地下のギャラリーの空間を切り裂くように設けられた巨大な壁面などを目にしていた。それでも、完成したカルダー・ガーデンの構造には驚かされた─これは迷宮のような閉塞感とカテドラルのような開放感を併せ持つ施設だ。

指さされているのは、カルダーが1955年に描いた絵画《São Paulo》。
指さされているのは、カルダーが1955年に描いた絵画《São Paulo》。

実はこれには、下敷きとなる理論がある。これは建築界の巨匠、フランク・ロイド・ライトが提唱した「圧縮と解放」の理論で、狭い場所を経由して広い空間に出ることで、解放感がより引き立つというものだ。この理論を踏まえた建築物はほかにも数多く存在するが、このカルダー・ガーデンでは、地下に降りていくというアクションが加わることで、解放感がさらに増幅される。

展示室の中には、原始的な感覚を喚起するものもある。その壁は、木目がラフに刻まれたコンクリートや、黒光りする小石のような複合材で覆われ、さまざまな表情を見せる(包み込まれるような感覚を覚える、薄暗い階段を降りていくときに、プログラムディレクターのベリオは「私はここを(異空間を結ぶ)“ワームホール”と呼んでいます」と、いとおしそうに語っていた)。訪問者は、地下に潜り、まるで地底旅行をしているような気分になったのちに、光に満ちたアトリウムに導かれる。ここは日射しの角度や日中の太陽の動きの妙で、地下空間であるにもかかわらず太陽の光が降り注いでいる。そのため、この建物では常識に反して、地下深くに向かうほど明るくなるように思える。

ヘルツォークは展示室について、カルダーの作品を収め引き立てるだけでなく、それぞれに個性を持たせたいと考えた。そこで、ある大きな展示室の背後には、モビール作品を集めた、隠しスペースのような空間が設けられた。シンプルな背景をバックに、鮮やかなモビールがよりいっそうくっきりと引き立つ仕掛けだ。ほかにも、薄暗い隙間のようなサイドギャラリーには、アレクサンダー・カルダーの祖父、父、(著名な肖像画家だった)母の作品が展示される予定だ。「建築には、機能性以外にも多くの役割を持たせることが可能です」とヘルツォークは言う。「確かに機能しなければ意味はありません。でもそれだけでなく、人をふっと誘うような要素が必要なのです」

このように、展示スペースのある建物は地下に設けられ、実際にその内部をめぐることでしか全貌を知ることができないつくりになっている。ゆえに、この施設の第一印象に関しては、付設された庭が大きな役割を担うことになった。

現地を訪れる前に、私は庭がまだ完成にはほど遠い状態だという説明を受けていた。しかし、いざ訪問してみると、うだるような暑さの中で群生するアラゲハンゴンソウの花が陽気に揺れ、エキナセアの花の間をマルハナバチが飛び交い、細い茎の先に丸いポンポンのようなライラック色の花を咲かせるアリウムが、軽やかに首を振る眺めを見ることができた。

カルダー・ガーデンのプログラムディレクター、フアナ・ベリオ。背後の作品は1940年作のモビール《Eucalyptus》。
カルダー・ガーデンのプログラムディレクター、フアナ・ベリオ。背後の作品は1940年作のモビール《Eucalyptus》。

この庭をデザインしたピート・アウドルフは、ニューヨークのハイラインやシカゴのルーリーガーデンなど、都市の再開発プロジェクトでランドマークとなる庭園を手がけ、自生する植物などを生かした植栽の手法で造園に革命的な変化をもたらした人物だ。カルダー・ガーデンでも、さまざまな花が織りなす色彩のコラージュが実に印象的だったが、実は当初から色彩設計を最優先していたわけではないという。「(花の)色というのは2〜3週間、ときに4週間ほどしか持ちません。あてにならないんです」と彼は語る。「頼りになるのは、植物が持つ性質と、有機的に構築していく手法です。植物の性質を意識しながら、構成を作り上げていくわけです」

私が庭を訪ねたときには、アウドルフが長期間にわたり根気強く取り組んできた造園作業も、終わりのフェーズに近づいていた(「ランドスケープは建物のデザインに従う立場です。どんなふうになるとしても、私はそれに合わせなければなりません」と、彼は謙虚に語った)。

設計作業のほとんどはコロナ禍のさなかに行われた。そのため、ヘルツォークは思い浮かんだアイデアを次々に紙にスケッチし(ロウアーによれば「紙ナプキンやランチョンマットに」描いていたという)、描いたものの写真を撮って、自身のチームに送る手法をとった。彼とロウアー、ノイバウアーの間では「プロセスのほぼすべてのステップ」が共有されていたと、ヘルツォークは証言する。「そのため、今回は自分の思考の道筋をストレートに示すことになりました」ということだ。

とはいえカルダー・ガーデンが今後、フィラデルフィアの街、さらには世界に影響を及ぼしていく上で、この施設の名前にもなった庭(ガーデン)が中核となるのは間違いない─この庭は、それに値する存在感を放っている。

アレクサンダー・カルダーの父、アレクサンダー・スターリング・カルダーはかつて、「人生には教会以外にも、魂のよりどころとなる場所が必要だ」と綴った。その言葉に違わず、長くカルダーの作品を愛してきた熱烈なファン、パークウェイを歩いている途中にふらりと立ち寄った観光客、草が風に波打ち、茎についたまま冬枯れした豆の鞘が揺れている光景に魅せられた来訪者─その誰もがこの「庭」で気づきと癒しを得る姿が、今から目に浮かぶようだ。

Photos: Buck Ellison Text: Chloe Schama Translation: Tomoko Nagasawa Adaptation Editor: Sakura Karugane

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