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明治の「いただき女子」は金の亡者になった…19歳で65歳の伯爵に買われるようにして結婚した女性の転落人生

  • 2025.10.29

スキャンダラスな報道で取り上げられる女性は本当に「悪女」なのか。かつてエキセントリックと言われた女性たちを追った平山亜佐子さんは「明治から昭和初期にかけては女性が生きづらく、小林孝子のように裕福な家に生まれても父親や男兄弟に利用された人もいる」という――。

※本稿は、平山亜佐子『戦前 エキセントリックウーマン列伝』(左右社)の一部を再編集したものです。

山西健吉『小林孝子懺悔秘話 附・女妖高橋お伝』(資文堂書店)より、昭和5年(1930)
山西健吉『小林孝子懺悔秘話 附・女妖高橋お伝』(資文堂書店)より、昭和5年(1930)
男の都合に振り回され、開き直った女

エキセントリック・ウーマンといえど家父長性に貫かれた戦前期、親や男兄弟の影響は避けがたい運命だ。しかし、一旦は運命に翻弄されたもののいっそ開き直った女がいる。

その名を小林孝子、最初に世に出た際には例によって「虚飾の女」「虚栄の権化」と言われたが、ある時期から自ら「金色の夜叉」(金の亡者の意)になろうと決心するのである……!

以下は、1930(昭和5)年におもに孝子が山西健吉に語った『小林孝子懺悔秘話』の要約である。

孝子の父、小林八郎は学もないまま身一つで明治20年代に書肆しょし「集英堂」を立ち上げ、教科書出版を一手に引き受けて巨万の富を築いた実業家である。

この時代の男性の習いどおり方々に妾がおり、そのひとり、下谷芸者に産ませたのが孝子だった。正妻との間にはすでに5人の子どもがいたが、それぞれに女中や看護師をつけ三越の支払いが月々1万円(3000万から1億円)を超えるなど皆が豪勢な生活をしていた。孝子も同様で、正妻と子どもが大磯に引っ越すと、両親と兄弟で神田山本町(現千代田区外神田四丁目)に住まい、18歳まで東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学の前身)に通った後は、お茶やお花、琴などを習って令嬢として暮らしていた。

明治20年に日本橋にあった孝子の父が経営する集英堂の様子、『簡易読本』集英堂(長谷部真吾氏所蔵)
明治20年に日本橋にあった孝子の父が経営する集英堂の様子、『簡易読本』集英堂(長谷部真吾氏所蔵)
実業家の父が没落、65歳の老大臣との結婚話

しかし、正妻が相場にはまり、父もつられて手を出してあっという間に資産が無くなった。日光の別宅も大磯の別荘も人手に渡り、正妻は総勢11名連れで神田にやって来て妻妾同居とあいなった。また、折悪く父は「教科書疑獄事件」にも巻き込まれた。

「教科書疑獄事件」とは、1902(明治35)年に起きた教科書を発行する出版社とそれを採択する側との間にあった贈収賄事件で、枢密院議長の辞任にはじまり、多数の出版社が検挙され、栃木県と新潟県の知事、文部省担当者、学校長など、40道府県200人以上が摘発された出版史に残る事件である。実際に有罪になった人数は3分の2ほどだが、これをきっかけに教科書は国定化された。

家運が傾くなか、にわかに浮上したのが19歳になった孝子の結婚話だった。

相手は時の宮内大臣で伯爵の田中光顕、驚くなかれ御年65歳である。

伯爵といってもいわゆる勲功華族であり、もとは高知の山奥の貧農の生まれである。維新の風に乗って土佐の志士として討幕に奮闘し、1868(明治元)年の兵庫県判事拝命から陸軍少将、元老院議員などを経て子爵となり、初代内閣書記官長、警視総監、学習院院長を歴任して1907(明治40)年に伯爵となった。最初の妻は5年で亡くなり、次の妻は30年連れ添って病死、孝子と出会ったのはその2年後だった。

6000万円の支度金を実の父は涙を流して喜んだ

老齢の宮内大臣と一介の出版社の娘、普通であれば出会うはずもないが、孝子が駿河台にある耳鼻咽喉科の金杉病院に行ったときに、たまたま入院していた田中が見染めたらしい。孝子の家の向かいに住んでいた「やまと新聞」社長の松下軍治がとりもって、支度金2万円(現在の6000万から2億円)にてお輿入れとなった。父は孝子を溺愛していたので、反対するかと思いきや「孝は孝行ものじゃ……」と涙を浮かべていたという。

また、孝子本人も親の勧めに疑問を持たなかった。後に「少し低能だったのかも知れませんわ」と語っている(『小林孝子懺悔秘話』)。

孝子は便宜上、土方ひじかた伯爵家の籍に入って伯爵令嬢として入籍という手筈となり、年の差も憚はばかって極秘裏に進めていたが、どこから漏れたかマスコミが嗅ぎつけ、一斉攻撃を始めた。

孝子の最初の夫となった田中光顕、1917年
孝子の最初の夫となった田中光顕、1917年(写真=国立国会図書館/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
孝子はスキャンダラスな悪女というイメージに

田中には「好色漢」「狒々男ひひおとこ」、田中邸は「伏魔殿」、孝子には「虚栄の権化」など心ない言葉が投げつけられた。

19歳の素人娘が金目当てに65歳の宮内大臣を手玉にとるなど普通に考えればあり得ない。が、なぜか世間はそう見なかった。また、金杉病院の院長が自分の情婦である孝子を払い下げた、という根も葉もない記事まで出た。華族たちも騒ぎ出したため強行するのは困難となり、騒ぎがおさまるのを待って、翌1908(明治41)年2月11日にふたりは密かに結婚式を行った。また、田中は翌年に宮内大臣を辞した。

孫ほどの年齢の妻を田中は可愛がり、24時間片時も離れなかったというが、二人に水を差したのは孝子の実家から来る借用書だった。実家に置いていた孝子のハンコを異母兄弟が勝手に使って金を借りては相場に突っ込んでいたのだった。

2年後、継母から田中に書付が渡された。どうも孝子たちは入籍していなかったようで、なぜそれをしないのか、しないのであれば約束不履行として10万円を請求するとあった。話が拗こじれた挙句、離縁するなら2万円払わないと実家で孝子を引き取らないと言い出した。田中は1万円しか出さぬというので孝子は独身時代から持っていたダイアモンドの時計などを売って1万円を作った。夫にも親にも金でしか見られない孝子だった。

その後、根岸で侘わび住まいをしていた実母のもとに帰った孝子はやっと平和に暮らせると思ったのも束の間、相変わらず取り立ては来るわ、芸者に勧誘されるわで落ち着く暇もなかった。

高松の金持ちにだまされ「貞操蹂躙訴訟」を起こす

そんなある日、モーニング姿の品のいい老人がやってきた。高松の高額納税議員、揚清三郎あげせいざぶろうという男の使いで、揚が孝子と交際したいという。最初は断っていたが熱心に通ってくるので母同伴で高級料亭「紅葉館」で顔合わせをした。芝居に行ったり揚が孝子の家に遊びに来たりと清い交際をした後、高松の実家に紹介したいとのことで二人で寝台車に乗った。

夫婦を前提とした交際だったためそこで一夜をともにしたが、途中で寄った京都で揚は芸者を総上げして孝子とのことを言いふらした。それがマスコミに漏れ、またもや「例の小林孝子」「列車の怪事件」などと書かれる騒ぎになった。この件で一等寝台車のダブルベッドは風紀を乱すとして廃止にまでなったという。結局、高松には行かないまま帰り、その後に「家風に合わない」との理由で一方的に縁談を取り消された。

ここに来て、孝子は泣き寝入りしなかった。聞けば、揚清三郎は知る人ぞ知る変態性欲者で、方々で悪さをしては金でもみ消してきたという。女所帯だと思ってなめやがって、と言ったかどうかはわからないが、孝子は敢然と立ち上がった。「誘拐罪」として裁判所に訴えたのだ。

やっと実直な男から求められ結婚するも…

もちろん、マスコミはまたもや孝子を「妖婦」「毒婦」と書く。物的証拠などない上に、時の大審院長(現在の最高裁判官)は揚の親戚、と不利づくめ。残念ながら不起訴となった。示談の誘惑にかられる父母を退けた孝子は、刑事でだめなら民事でと高松裁判所に日本初(新刑事訴訟法施行以来初)の貞操蹂躙ていそうじゅうりん訴訟を起こした。しかしこれも敗訴となり、3年かけた訴訟が終わってしまった。孝子は26歳になっていた。

失意の孝子に新たな縁談が舞い込んだ。相手は柳橋(現台東区柳橋一丁目)の写真館「柳水館」主人蒔田實まきたみのる、1歳下の実直な男だった。孝子は喜んで嫁ぎ、やっと平穏な日々に恵まれた。「柳水館」は花街の中にあり、技術の確かさもあって繁盛した。しかし、いつしかうまくいかなくなり、店を売って消火器の店を開くも発展せず、義母にもいじめられて8年間の結婚生活はあえなく終わった。孝子は有名になりすぎた名前を厭い、母の籍に入って堀内たかとなった。

1923(大正12)年9月1日、関東大震災に見舞われて何もなくなった母子は弟の家に避難し、孝子は人の紹介で赤坂に開業した葵ホテルの経理に雇われた。……とは本人の弁だがどうだろう。

「三味線弾きと踊り子」明治時代(国際日本文化研究センター所蔵)
「三味線弾きと踊り子」明治時代(国際日本文化研究センター所蔵) ※写真はイメージです
料理屋の仲居になり、男にホテルを建てさせた

というのも1926(大正15)年1月18日付読売新聞によれば


「洋傘屋の皆川芳造さんが、大阪の料理屋で「お千代」という別嬪べっぴんの仲居に手をつけた、お千代本名堀内たか。ところがこのたかなるものしっかりと皆川さんに喰い下がってとうとう苦しい金の工面迄までさせて東京は赤坂溜池へ木造ながら小さっぱりしたホテルを建てさせた、即ち葵ホテル」

「この「たか」に一使用人に装わせ月給も50円ホテルから出す事にして帳場におきそこで寝起きさせていると、ある時ひよっこりやって来た例の悪友岩倉具張が、羽織がけでぞろりとしているのを見て吃驚。その場は互いにえへえへと笑って別れたが後で皆川さんの肩を叩いて『おい君あの女をどうして知ってる?』ということになり、とどの詰まりが『ありや小林孝子だよ、実は俺もあいつに手をつけてさんざん取られたんだ、偉いものと組んだな』という話」(「あの人たち(九)田中光顕伯を手玉にそれから赤坂葵ホテル小林孝子の行方」)。

なんとなく納得できる話ではある。

「老後の保証をしてくれるものは、金のみ」

記事にはそれまでの孝子の遍歴を「カツフエーの女給になったり、仲居になったり20年に近い色修行」(20年は言い過ぎ)とあるが、『懺悔秘話』にはその間のことを「男もイヤ。結婚もイヤ。然らば、老後の保証をしてくれるものは、金あるのみです。金だ、金だ。今まで金を呪うた私はここに、金の亡者にまで、一転いたしました。私の頭のどこかには、大きな金色の夜叉が、とぐろを捲いていました」とあり、ぼかしてはいるものの、否定はしていないようだ。結局、「お千代」の正体を知った皆川はホテルを売ってアメリカに逃げたため、この職もなくなった。

小林孝子と評伝の著者・山西健吉、『小林孝子懺悔秘話 附・女妖高橋お伝』(資文堂書店)より、昭和5年(1930)
小林孝子と評伝の著者・山西健吉、『小林孝子懺悔秘話 附・女妖高橋お伝』(資文堂書店)より、昭和5年(1930)

しかし孝子はそうは話さない。ある日、ホテルにパッカードで乗り付けてきた紳士がいた。下郷伝兵衛という実業家の使いで、田中伯爵との騒ぎの頃から孝子を気にしていた由よし。現在京都に本妻、大阪に妾を置いているが東京の席が空いているからどうかという。孝子は最初の顔合わせで500円をもらいさっさと第三夫人におさまったのだという。

もちろんちょうどよく金持ちの紳士が向こうからやってくるとは思えないからこの話も眉唾まゆつばである。大方、口入屋(職業斡旋所)で妾募集に応募したのではないか。驚くことに当時はこんな募集が普通にあったのである。

実業家の妾となった後の孝子はどうなった?

結局この紳士とも1年で切れ、手切れ金の5000円で大森にビリヤード場を開店。しかし孝子を借金の保証人にしてさんざん苦しめた弟が現れ、金の無心をしてきたために閉店(と話しているが本当に弟だろうか。与太者と交際していた可能性もなきにしもあらず)。

平山亜佐子『戦前 エキセントリックウーマン列伝』(左右社)
平山亜佐子『戦前 エキセントリックウーマン列伝』(左右社)

『懺悔秘話』発行の1930(昭和5)年時点では「大森のさる粋な稼業の家で、日陰もののように暮らしておりますわ。ええ、無論独り身ですとも」というから、置屋か待合にでも居候しているのだろうか(『東京・城南職業別電話名鑑昭和七年一〇月現在改訂第四版』には品川五反田産業地の「里の家」という待合に「堀内たか」がいる。同姓同名かもしれないが)。いずれにしても、今さらこのような聞き書き本を出すのは金に窮していたからに違いない。これでもまだ34歳なのである。

その後の孝子がどうなったかはわかっていない。なにしろこの後に太平洋戦争がある。持ち前の生命力で生き抜いてくれたことを願って、今後も調査を続けていきたいと考えている。

平山 亜佐子(ひらやま・あさこ)
文筆家
文筆家、挿話収集家。戦前文化、教科書に載らない女性の調査を得意とする。著書に『20世紀破天荒セレブ ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会)、『明治大正昭和 不良少女伝 莫連女と少女ギャング団』(河出書房新社、ちくま文庫)、『戦前尖端語辞典』(編著、左右社)、『問題の女 本荘幽蘭伝』(平凡社)、『明治大正昭和 化け込み婦人記者奮闘記』(左右社)など。

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