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なぜラフカディオ・ハーンはアメリカから日本へ来たのか…最大の理解者である同業女性に言われた「殺し文句」

  • 2025.10.29

朝ドラ「ばけばけ」(NHK)ではアイルランド人のレフカダ・ヘブン(トミー・バストウ)が松江に赴任。ヘブンはイライザ(シャーロット・ケイト・フォックス)の写真を大切に持参している。作家の青山誠さんは「ヘブンのモデルであるラフカディオ・ハーンはなぜ日本に来たのか。その行動の裏には新聞社の部下だった女性の存在がある」という――。

※本稿は、青山誠『小泉八雲とその妻セツ 古き良き「日本の面影」を世界に届けた夫婦の物語』(角川文庫)の一部を再編集したものです。

ラフカディオ・ハーン
ラフカディオ・ハーンの写真(F.グーテクンスト・スタジオ撮影、1889年)(写真=シンシナティ・ハミルトン郡公共図書館所蔵/Frederick Gutekunst/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
ニューオリンズの新聞社で文芸部長に出世

新聞社のシンシナティ・インクワイアラー社を解雇されたハーンだが、ライバルの他紙からすぐ誘いの声をかけられ再就職した。しかし、周囲の反対を押し切って結婚したアリシアとの関係はすぐに冷え込んでしまう。人種差別に反発して勢いで結婚したものの……お互いの価値観が違い過ぎて諍いさかいが絶えない。とうとう彼女は家を出て行き、ハーンも後を追わずに離婚が成立した。1877年のことである。それもあってシンナティに嫌気がさしていたのだろう、心機一転をはかってニューオリンズへ引っ越した。

デイリー・シティ・アイテム紙で新聞編集に携わり自身も多くの記事を執筆した。独特な文章がニューオリンズでも評判になる。31歳になった1881年にはニューオリンズの新聞界が再編されて、数社が合併し南部でも有数の発行部数を誇るタイムズ・デモクラット社が誕生し、ハーンはそこの文芸部長として迎えられた。大出世である。

ニューオリンズの古写真
ニューオリンズの古写真
ハーンが日本行きを決めた意外な理由

ハーンは神学校時代にフランス語を学び、学校中退後はしばらくフランスに住んだことがある。フランス語もそれなりに理解できたので、フランス文学の翻訳や書評記事なども手がけるようになった。また、非欧米圏の異文化に対する興味も深まり、インドや中東、ポリネシアなどの神話や伝説をテーマにした新聞連載を開始し、1884年にはその記事をまとめた『Stray Leaves from Strange Literature(異文学遺聞)』と題する本を出版。作家デビューも果たしている。

ニューオリンズはアフリカ系やクレオールが多く住む街で、ジャズなど彼らの音楽や文化に触れる機会が多い。また、地理的に近いカリブ海の島々に点在する民族たちの文化も入ってくる。ハーンは旺盛な好奇心を発揮して熱心な取材活動をおこない、それらに関する多くの記事を執筆した。『クレオールの料理』などの著書も次々に出版されるようになる。

1887年には作家活動に専念するため新聞社を退社。カリブ海に浮かぶ西インド諸島のマルティニーク島に移住し、古い生活伝承や民話などを採集しながら未開の島に2年間も住みつづけた。

このマルティニーク島での2年の体験を綴った記事を執筆し、それをハーパー社に送稿したことで同社とのつき合いが深まり、特派員として日本へ行くことになるのだが。さて、それではハーンはいつの頃から日本に興味を持つようになったのか。

140年前の万博で日本パビリオンに通い詰めた

1884年12月から翌年にかけて、ニューオリンズで万国博覧会が催された。当時はまだタイムズ・デモクラット社の記者だったハーンは、日本館のパビリオンに通い詰めていた。文部省から派遣されていた服部一三はっとりいちぞうも、連日のように来て熱心な質問を繰り返す小柄な新聞記者のことをよく覚えている。

この頃からすでに日本に強い関心を抱いていたが、日本だけが特別というわけではない。東洋やアフリカなど、欧米のキリスト教文化とは異質の世界ならどこにでも興味がある。日本もそのひとつにすぎず、カリブ海の島々や中国のほうがむしろ関心は高かったのかもしれない。

ところが、1889年5月にマルティニーク諸島での滞在を終えて帰国し、ニューヨークに住み始めた頃にとある女性との再会を果たしたことにより、日本への関心が急速に高まってゆく。気がついた時には、最も行ってみたい場所になっていた。

部下だった美人記者エリザベスとの再会

その女性の名はエリザベス・ビスランド。ハーンがタイムズ・デモクラット社の文芸部長だった頃の部下だった。彼女は入社以前から彼の記事を愛読していたという。入社して早々に「一緒に仕事したいと思っていました」なんて言ってくるものだから、告白されたのと同じくらいドキドキして有頂天になり、彼女のことを意識するようになった。だが、ハーンは容姿に対する劣等感が強く、恋愛には腰が引けてしまう。自分からアプローチするような度胸はない。

ラフカディオ・ハーンと親しかったジャーナリストのエリザベス・ビスランド
ラフカディオ・ハーンと親しかったジャーナリストのエリザベス・ビスランド

当時のビスランドはまだ20歳くらいの年齢だったが、彼女もまた10歳以上も年の離れたハーンを特別の存在として意識していた。しかし、それは恋や愛というよりも、彼の書く記事への興味、同じジャーナリストとしての尊敬の念が強かったようである。

まもなく彼女はタイムズ・デモクラット社を退社し、ニューヨークに引っ越していった。メジャーな雑誌や新聞に記事を寄稿し、この頃にはジャーナリストとしてはハーンよりもよっぽど名を知られた存在になっていた。

ビスランドとハーンが再会したのは1889年10月中旬頃。彼女は翌月から世界一周旅行に出発し、旅行記を雑誌『コスモポリタン』で連載することが決まっていた。久しぶりに会って話をして恋心が再燃してきたのだが、来月になれば彼女はまた手の届かない遠くに行ってしまう。

売れっ子になった彼女は手が届かない存在に

意気消沈するハーンの気も知らず、ビスランドは世界一周旅行について嬉うれしそうに話をする。彼女がいちばん楽しみにしている訪問先が日本だという。変化にとんだ美しい大自然、世界中どこの地域にも類を見ない独特の生活文化、等々、じつに興味深いのだとか。もしハーンが日本を訪れたらどのように感じてどんな文章を書くのか、彼女はそこにも強い興味が湧いていた。

世界一周に出たエリザベス・ビスランド
世界一周に出たエリザベス・ビスランド(写真=ニューヨーク公共図書館アーカイブ/PD US/Wikimedia Commons)

「あなたも日本に行くべきです。私はあなたが日本について書いた本を読みたいと思っています」

それが殺し文句だった。ビスランドは自分のことを最も理解している女性だと思っている。その彼女がそこまで言うのなら、行かねばならない。期待に応えて素晴らしい記事を書いてやろう。そんな気になってくる。

ビスランドはこの翌年に他の男と結婚し、ハーンの恋は終わってしまう。しかし、書簡のやり取りは一生涯つづいた。恋はハーンの妄想か錯覚だったようだが、ふたりの友情は本物。彼女は常にハーンのことを気にかけて大切に思いつづけていた。彼女にとってもハーンは他の男性とは違う、特別な存在だったことは間違いない。

日本の女性を現地妻にしたロティの影響も

ビスランドの他にもうひとり、ハーンの日本に対する興味を搔き立てた人物がいる。フランス人作家ピエル・ロティだ。彼はハーンと同い年で、本職はフランス海軍士官である。軍艦に乗って世界各地をめぐり、その時の異文化体験を小説や紀行文にして人気作家になっていた。

青山誠『小泉八雲とその妻セツ 古き良き「日本の面影」を世界に届けた夫婦の物語』(角川文庫)
青山誠『小泉八雲とその妻セツ 古き良き「日本の面影」を世界に届けた夫婦の物語』(角川文庫)

タイムズ・デモクラット社に在籍していた頃、ハーンは誌面でロティの作品をよく取りあげて紹介している。手紙を交換する仲にもなっていた。ロティが題材にする熱帯地方の女たちとのなまめかしい恋愛に憧れていたという。

ロティは1885年に長崎へ寄港し、この時に日本人女性を現地妻にして1カ月ほど一緒に暮らしている。その経験をもとに書いた小説『Madame Chrysanthéme(お菊さん)』は、欧米人が抱く日本女性のイメージに大きな影響を与えたといわれる。

ハーンも当然それを読んでいる。ビスランドと再会を果たしたものの、関係はまったく進展しない。悶々とした思いを抱えていた頃だけに、なおさら、ロティの描く幻想の世界に惹かれてしまった。日本には、従順でひたすら男性に仕えるよう訓練された女性たちがいる。失恋で傷ついた心を優しく癒いやしてくれる女性と出会えるかもしれない……などといった邪よこしまな思いが頭を過よぎったこともあっただろう。

フランスの作家ピエール・ロティ、1892年
フランスの作家ピエール・ロティ、1892年(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

青山 誠(あおやま・まこと)
作家
大阪芸術大学卒業。近・現代史を中心に歴史エッセイやルポルタージュを手がける。著書に『ウソみたいだけど本当にあった歴史雑学』(彩図社)、『牧野富太郎~雑草という草はない~日本植物学の父』(角川文庫)などがある。

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