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長男に逃げられ養女に出した娘に「スマン」と言い息絶えた…「ばけばけ」堤真一のモデル「小泉セツの実父」の真実

  • 2025.10.17

朝ドラ「ばけばけ」(NHK)では小泉セツをモデルに没落武士の娘トキ(髙石あかり)の苦難の日々が展開。著述家の長谷川洋二さんは「セツの実父・小泉湊(堤真一が演じる雨清水傳のモデル)には妻チエ(同・北川景子演じるタエ)との間に息子が4人いたが、病に倒れたとき頼りになったのは養女に出したセツだった」という――。

※本稿は、長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)の一部を再編集したものです。

セツが生まれた小泉家には4人の息子がいた

小泉家の屋敷は、(養女に出された)稲垣家とは城を挟んでの反対側にあったが、セツは時折、その南田町の生家に連れて行かれた。小泉家には、実の父母のほかに、セツが6歳になる年の初めまでは祖父の岩苔がんたいが、12歳の年の秋までは祖母が生きていた。

そのほかに、10歳年上の長兄氏太郎うじたろう、8歳年上の姉のスエ、2歳年上の武松たけまつ、2歳年下の藤三郎とうさぶろう、それに10歳年下の千代之助ちよのすけと続いていたが、なぜか、セツは実の兄弟たちに親近感が湧かず、一緒に遊ぶことは稀であった。その一方で彼女は、実の父母や祖父たち、それに小泉家の親威たちに関わる劇的な物語のあれこれに、親しんでいったのである。

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と妻セツ、1892年
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と妻セツ、1892年(撮影=富重利平)(写真=PD US/Wikimedia Commons)

親戚と言えば、セツは事実上、出雲における高位の侍たちのすべてと、なんらかの血の繋がりがあったと言える。というのも、小泉の祖父岩苔は、幕末に中老に進んだ乙部勘解由家から、小泉家に婿養子に入ったものであり、この乙部家の本家である乙部九郎兵衛家こそ、出雲の、いわゆる代々家老7家の中でも、大橋家と並んで最も有力な家であった。

山陰道鎮撫使の官軍が松江城に入った3日後、官軍の幕僚たちと折衝し、次いで、徳川本家との絶縁と新政府への忠誠とを誓った文書に、「家老首座」として、11名の重臣の筆頭に署名し血判を押しているのは、この乙部家の当主、10代目の乙部九郎兵衛である。

その上、セツの母の実家である塩見家も、時に家老、時に中老を務める、いわゆる「不定家老」の家柄ではあったが、江戸中期の宝暦年間から幕末に至るまで、松江城三の丸御殿の前に、乙部本家に劣らぬ広大な屋敷を構えた有力な家で、セツの祖父に当たる塩見増右衛門こそ、その壮烈な諫死かんしで出雲の歴史を飾った名家老であった。

セツの実父は幕末の動乱で京都や長州へ出動

セツの父小泉湊の侍としての経歴も、若い時ではあったが、波乱に富んだ幕末であったために、決して平凡なものではなかった。

いわゆる安政の大獄で、全国がにわかに緊迫した安政7年(1860)の初め、番頭の父親岩苔は、京都を守る松江藩兵を指揮するために、京都郊外の山崎に派遣された。その時、満23歳の湊は、特別な願い出により、旗奉行雇はたぶぎょうやといの資格で父親に随行し、任地で、大老井伊直弼が江戸城桜田門外で暗殺されるという報に接した。

また、4年後の文久4年(1864)の初めに、藩主松平定安が、将軍家茂の再度の上洛に伴って国元から京都に上った時に、湊はその供を仰せ付かったし、その年の夏から冬にかけての、いわゆる第一次長州征伐には、二之見隊の鉄砲頭として出陣し、今市町の陣に駐屯したのである。

【図表1】小泉セツと小泉家の兄弟たち
出典=『八雲の妻 小泉セツの生涯』
長州征伐では歩兵隊長として「奇兵隊」を撃退

湊が29歳の慶応2年(1866)は、第二次長州征伐が起こされた年である。

松江藩は6月の初め、大村益次郎の率いる長州軍の侵入から西隣の浜田藩を救うために、まず一之先隊を浜田に派遣したが、その番頭を務めたのが湊の父の岩苔であった。

しかし、その岩苔は出陣して間もない7月の初め、浜田郊外の陣中で病を得て、松江への帰陣を余儀なくされる。それに代って、今度は息子の湊が、歩兵隊長(者頭)として石見(島根県西部)との国境の口田儀へ派遣され、晩秋まで一番手隊の歩兵を指揮して、長州軍との睨にらみ合いを続け、藩主から陣地では袴地を、松江へ帰陣した後には、綿入れ1着に銀1枚を賜った。右手を海にし左手を山とした石州口せきしゅうぐち(口田儀)の戦場で、湊は騎馬で突進して来る長州の奇兵隊を挟撃し、鉄砲の弾を浴びせて撃退するという武勲を上げたという。

山陰道鎮撫使の官軍が松江城入りして3カ月の後、今度は、新政府の命を受けた藩主の仰せに従って泉州堺の任地に赴おもむき、7月に、番頭への昇格と本国への召還を告げる奉書が届くまで、堺の守衛に当たった。その間の6月28、29日に行われた住吉神社の祭りに、湊は者頭として足軽小隊を指揮し、神輿みこしの渡御とぎょで賑わう堺市内の警備に当たったのである。

小泉セツの実父・小泉湊氏
小泉セツの実父・小泉湊、1868年
明治維新後は機織り工場を経営したが…

初め好調だった小泉湊の機織会社は、全国各地の士族の機織会社――いわゆる公債機――が、ほとんど全部そうであったように、結局は倒産した。その結果、小泉家は、かつて家来を住まわせておいた門長屋に、自分たちが引き移って住まわなければならないことになり、続いて市の母衣町ほろまちの縁者の許に、一家して身を寄せる破目となった。

さらに、セツが18歳の明治19年7月には、小泉家は再び転居を強いられ、今度は殿町も旧乙部九郎兵衛の屋敷の裏に住む縁者の家に、同居させてもらうことになったのである。当時は不幸に不幸が続いていた。殿町に移る半年前の1月には、湊の次男の武松が19歳の若さで亡くなっていたが、それに加えて湊自身がリウマチを患い、病床に伏す身となったのである。

セツは機織の間を縫って、この父湊の病床を見舞っては看病し、実母のチエが、病人の世話を苦手としただけに有難がられて、「あゝ、おシェさん、ありがとう。お前には済まん」と、死の床の父から繰り返し感謝の言葉を受けたのであった。

小泉セツの実母・小泉チエ氏
小泉セツの実母・小泉チエ、1908年
セツの実兄たちは病死、出奔と不幸が続く
長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)
長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)

しかし、小泉家の不幸はここにとどまらなかった。というのは、小泉家ないし塩見家という旧家の血が、この時期に、セツの兄弟の中で乱れ狂うに至ったからである。

セツの10歳年上の長兄氏太郎は、長男としての一家に対する責任を投げ棄て、その年の暮に町家ちょうかの娘を連れて出奔し、行方をくらましてしまった。こうして1年の内に、上の男の子2人を失った小泉家では、一家の支えとなるべき(三男の)藤三郎が始末におえぬ男であることが分かったのである。

彼は働こうともせず、日ごと野山に出掛けては小鳥を捕らえ、これに餌を与えて飼育するのに夢中で、果ては、南側の陽の当たる廊下が鳥籠で塞がれてしまうまでになった。

働こうともしない三男を父はムチで打った

ある朝、小泉湊は、寝床から動けぬほどに病む身でありながら、何か物に憑つかれたかのに突然立ち上がり、柱に掛けてあった馬の鞭を執るや、南側の廊下によろけ出て、鳥籠を縁から蹴落けおとし、藤三郎の襟首をつかんで、「おのれ、親不孝者め。そちの腐れ根性を打ちすえてくれるわ」と叫ぶとともに、滅多めった打ちに鞭を振るい出した。

家中がその場に駆けつけて湊を抑え、寝床に連れ戻したが、病人はあえぐ呼吸とともに、肋骨を波立たせるのであった。彼の病勢はにわかに高じ、間もなく齢よわい51歳で亡くなったのである。

それは、セツが19歳になった5月の末のことで、彼女が幸福の女神が微笑みかけてくれるかと思ってから、わずか半年後のことである。それまでは、湊の思慮と采配とで何とか借金から免れ、日々の生活費だけには事欠かずに済んだ小泉家も、彼の死を境にして一挙に転落していったのである。

松江市の宍道湖
松江市の宍道湖

長谷川 洋二(はせがわ・ようじ)
歴史家
1940年新潟市生まれ。新潟大学人文学部で史学を専攻、コロンビア大学のM.A.学位(修士号1974)、M.Ed.学位(1978)を取得。一時期会社員、前後して高等学校教諭(世界史担当)。著書に『小泉八雲の妻』(松江今井書店、1988年)、その改定版となる『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)、『A Walk in Kumamoto:The Life & Times of Setsu Koizumi, Lafcadio Hearn’s Japanese Wife』(Global Books, 1997)、『わが東方見聞録―イスタンブールから西安までの177日』(朝日新聞社)がある

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