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「検査する意味がないのでしません」70代認知症の母を献身介護する娘が天を仰いだ医師の冷酷診断の背景

  • 2025.10.11

関東地方在住の40代の女性は、働きながら父親や2人の姉とともに認知症の母親を介護している。母親は徘徊を繰り返し、医療機関から理不尽な対応を受け、心身にダメージを受けたところで気づいたのは、「母は私の名前を忘れた」という衝撃的事実だった――。(前編/全2回)

この連載では、「ダブルケア」の事例を紹介していく。「ダブルケア」とは、子育てと介護が同時期に発生する状態をいう。子育てはその両親、介護はその親族が行うのが一般的だが、両方の負担がたった1人に集中していることが少なくない。そのたった1人の生活は、肉体的にも精神的にも過酷だ。しかもそれは、誰にでも起こり得ることである。取材事例を通じて、ダブルケアに備える方法や、乗り越えるヒントを探っていきたい。

仕事一筋の寡黙な父親ととにかく社交的な母親

関東地方在住の雨宮木綿子さん(仮名・40代)は、3人姉妹の末っ子。

父親は高校卒業後から自動車関係の仕事をし、21歳の時に3歳年上の母親と出会い、3年後に結婚。母親は結婚を機に仕事を辞め、30歳で長女を、32歳で次女を、37歳で雨宮さんを出産した。

「父は仕事一筋の寡黙な人ですが、自転車の乗り方を教えてくれたり、旅行に連れて行ってくれたりと、意外と子煩悩だったかもしれません。母はとにかく社交的な人。町内会やPTAの役員をやったり、茶道や書道を習ったりして、活動的で友人知人が多く、一歩家を出れば誰かに会って立ち話が始まるため、一時間以上帰って来ないことが日常茶飯事でした」

夕暮れ時の原っぱで手をつないで遊ぶきょうだいのシルエット
※写真はイメージです

家族仲は良く、毎年必ず父親の運転する車で家族旅行に出かけていた。

雨宮さんが中学生になると、父親が静岡で単身赴任になったが、毎週末父親は車で4時間かけて帰ってきていた。

当時は父方の祖母が高齢になり、両親は二世帯住宅を建てて祖母と同居を始めていたため、家族全員で家を空けることは難しかった。そのため、連休があるたびに母親と娘1人、娘2人など2人対2人に分かれて父親の単身赴任先に遊びに行っていた。

やがて姉たちが結婚して家を出て行き、雨宮さんは短大を卒業して事務職として働き始める。

翌年、友だちの紹介で、技術系の会社で働く1歳上の男性と出会うと、22歳で結婚。実家から電車とバスを乗り継いで1時間半ほどの場所で生活を始めた。

2人目出産で母親に抱いた違和感

結婚後、23歳の時に退職し、医療事務のパートに転職した雨宮さんは、2014年32歳の時に長男を出産。その2年後、34歳で次男出産した。

長男の時も次男の時も里帰り出産を選んだ雨宮さんだったが、次男の里帰り中、雨宮さんは70歳の母親に違和感を覚えた。

「2016年の5月頃のことです。料理が得意だったはずの母ですが、異様に時間がかかるようになっていただけでなく、父に対してやけに怒りっぽくなっていたことが気になりました」

しかし、2歳の長男と生まれたばかりの次男を抱えていたため、その違和感は育児の忙しさにかき消されてしまった。

ところが2017年になると、母親は別の人格になってしまったかのように些細なことで怒りのスイッチが入り、我を忘れて暴れ出すようになっていた。

怒りの矛先は必ず父親で、元の優しい母親の面影は完全に消え去り、鬼の形相で怒鳴り散らしながら、椅子を投げ飛ばしたり、棚を蹴り飛ばしたりと激しかった。

「私は結婚してからも月に5〜6回は実家に顔を出していましたが、子どもが生まれてからは少し頻度が減っていて、初めてそんな母の姿を見た時はショックでした。今思えば、その頃から認知症が悪化していたのでしょう。人格まで変えてしまう認知症は本当に恐ろしいと思います」

2018年春頃。72歳になった母親は、1日に何時間も散歩をすることが増えた。雨宮さんは、夏になったら熱中症などの心配があるため、2人の姉たちと話し合い、デイサービスの利用を考え始めた。

「7月頃母は、『頭がボーッとする。なんだか自分がおかしい』と訝しんでいて、『心配だから、一度病院で診てもらおう』と言ったらすんなり受診することになりました。本人も不安だったんだと思います。脳神経外科でMRIを撮ってもらった結果、脳の萎縮がみられることと、日常生活の状態を話したうえで、『アルツハイマー型認知症』の診断を受けました」

頭部のMRI画像
※写真はイメージです

そして8月頃には介護保険の申請をし、要介護認定を受けると、要介護1と認定される。

秋になると、もともとお酒が好きだった母親は晩酌で飲む量が増え、酔っぱらって意識を失い、突然倒れてしまうことが増えた。

11月。デイサービスを契約し、まずは週1日から利用を開始。そのほかに、実家から車で15分くらいのところに住んでいる上の姉が月に5〜6日、下の姉は3〜4日、雨宮さんは1〜2日、実家に様子を見に行くようにした。

初めての連携プレー

2019年5月に育児休暇を終えて職場復帰を果たしていた雨宮さんは、2020年9月、仕事を終えて帰宅し、長男や次男と夕食を食べ終えて後片付けをしていた。そんな時、家族のグループLINEに、父親からメッセージが入ったことに気づいた。

「お母さんが散歩に行ったきり帰ってきません」

時計を見ると、19時を回っている。外はもう真っ暗で、その日はやけに冷える夜だった。

「当時の母は、今よりもずっとしっかりしていて、よく一人で遠くまで散歩に行っていました。でも、いつもは暗くなるまでには必ず帰ってきていたので、『そんな遅くまで帰って来ないのは明らかにおかしい。何かあったに違いない』と思い、急いで母の携帯に電話してみました」

するとすぐに母親が電話に出た。

「お母さん、今どこ?」

「大通りから一本細い道に入ったら、何処だか分からなくなっちゃった。でも大丈夫よ。また大通りに出れば帰れるから」

母親は当時、まだ自分が認知症であることを認めたくない時期だったため、自分の失敗やできなくなったことを、家族に必死で隠そうとした。

そんな母親に雨宮さんは、

「お母さん、もう暗くて危ないから、お姉ちゃんが車で迎えに行ってくれるって! 周りに何が見える? お店やマンションがあれば、その名前を教えて。会社でもいいよ、何か看板はない?」

すると母親は「看板があったわ」と言って聞いたこともない会社の名前を言った。

雨宮さんは「その場にいてね」と言って一度電話を切り、母親が言った会社を携帯で検索。すると実家から5キロ程離れた場所にその会社があることが分かった。

すぐさま家族のグループLINEにその会社の地図を送ると、上の姉が「今から車で迎えに行ってくる! 15分ぐらいで着くと思う」とのメッセージが入り、下の姉は「私、お姉ちゃんが着くまで電話でお母さんと話してるね! 動かないように言っとく!」と送ってきた。

それから約15分後、上の姉から「お母さんを見つけて車に乗せました」とLINEが入り、雨宮さんはほっと胸を撫で下ろした。

父親からは、「本当によかった。ありがとう」とメッセージが来た。

「今思えば、すごいチームワークでした。『無事に母が帰ってきてよかった』と安心したのも束の間、その後も何度か母は迷子になり、その度に上の姉が車で迎えに行くようになりました」

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そのことを認知症の主治医に相談したところ、

「それはもう徘徊ですね。認知症が原因で、交通事故で亡くなる人、街中で凍死や熱中症で亡くなる人はとても多いです。間違えて線路に立ち入ってしまい、電車にひかれてしまった事例もあります。気をつけてください」

と言われ、雨宮さんたち一同はショックを受けた。

「衝撃だったのは『徘徊』と言われたこと。私たちが想像していた『徘徊』は、パジャマ姿で昼も夜もあてもなく歩き回るといったものでしたが、母はちゃんと自分で出かける準備をして、携帯も持って、家も鍵をかけて散歩に出ていて、昼間は自分で帰ることができました。『母は介護の必要な老人』なんだと深く実感させられました。そしてもう一つショックだったのが、ただの散歩に命の危険が伴うということ。そこまで深刻にとらえていなかった私たち家族は、先生の言葉を聞いてから、もっとしっかりと対策を取らなくては! と動き出しました」

「認知症だと検査をする意味がないのでしません」

ショックといえば、こんな出来事もあった。認知症の診断が下った後、母親が胃の不調を訴えたため、念のため内科を受診し、胃カメラでの検査を求めた。すると、その医師は言った。

「認知症だと検査をする意味がないのでしません。がんなどが見つかっても治療が難しいですから」

まさかの検査不可に「まるでこの世界から見放されたような気持ちになった」という雨宮さんは、担当のケアマネに聞いてみることにした。

「病院で認知症の人は検査しないと断られてしまったのですが、そういうものなんですかね?」

「そうですね。そういうことが多いです」

もし、がんなどの重大な病気だったら……。そんな不安や怒り、割り切れなさを抱いたものの、幸い処方された胃薬が効いたのか、母親の症状は治まった。

実は、認知症患者にがんの疑いのある場合、多くの医療機関が対応に苦労している。日本対がん協会の調査(2024年)では、医療機関はその理由として「本人が治療について判断できない」「在宅での抗がん剤治療の副作用などを周囲に伝えることができない」「入院中のリハビリを拒否する」などを挙げている。鼻水や咳が出るなど、明確な症状がある場合はともかく、がんなどの最初は無症状の病気に関する検査や治療に対する判断は、医療機関によってわかれるのが現状のようだ。

白衣の医師
※写真はイメージです
想像以上にダメージが大きかった母親の言葉

2021年2月。雨宮さんは息子たちが体調を崩したため、実家に顔を出せない日々が続いていた。その間は、主に上の姉が頻繁に実家に行き、両親のサポートをしてくれていた。上の姉は逐一両親の状況をメールで教えてくれて、問題が起きるたびに家族で話し合い、一つずつ問題を解決していた。

姉の報告で、母親に認知症が少しずつ進んでいることはわかっていたが、1カ月ほど実家に行けずにいた。そしてやっと実家に顔を出しことができた日、母親はいつもと変わらない笑顔で出迎えてくれた。

「久しぶり〜。しばらく来れなくてごめんね。息子たち、今日は元気に学校と保育園に行ってるよ」

雨宮さんの近況報告をうれしそうに聞く母親。雨宮さんは内心「変わりなくてよかった」とほっとしていた。しかし1時間ほど経って、あることに気付く。

「母が、私の名前を呼ばないのです。以前は私のことを名前で呼んでくれていたのですが、その日は『あなた』呼び。私の名前を忘れてしまったのだと気付くと、正直ショックでした。かろうじて娘だということは理解してくれているのですが、実の親に自分の名前を忘れられるのは、想像以上にダメージが大きかったです」

それ以降、雨宮さんは自分の名前を思い出してもらうために、忙しさを言い訳にせず、頻繁に実家へ行くようになった。(以下、後編へ続く)

旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する〜子どもを「所有物扱い」する母親たち〜』(光文社新書)刊行。

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