1. トップ
  2. 描写を際立たせる“表現の豊かさ”に脱帽 SUPER EIGHT・安田章大の音声ガイドから深ぼる『火垂るの墓』の“美しさとむごさ”

描写を際立たせる“表現の豊かさ”に脱帽 SUPER EIGHT・安田章大の音声ガイドから深ぼる『火垂るの墓』の“美しさとむごさ”

  • 2025.8.15
undefined
※Google Geminiにて作成(イメージ)

7月15日よりNetflixにて『火垂るの墓』の配信がスタートした。こちらではSUPER EIGHTの安田章大が音声ガイドを務めている。

音声ガイドとは、ナレーションで補足説明を行い、セリフ以外の視覚情報を伝えていく。目の不自由な人への配慮としてつけられている機能だが、見てみると想像以上に作品の細部が伝わってくるものとなっていた。

『火垂るの墓』とは

舞台となるのは兵庫県神戸市から西宮市近郊。

昭和20年6月5日の神戸大空襲で自宅と母を失った14歳の清太と4歳の妹の節子。伯母の家に身を寄せるが次第に関係が悪化していく。清太は節子を連れて家を出て、近くにあった貯水池のそばにある防空壕で、ふたりで暮らし始める。最初はよかったものの次第に食事にも困るように。節子はどんどんやせ細り、衰弱していく。

やがて倒れた節子を医者に連れていくものの、滋養をつけるしかないと言われるだけ。節子に食べさせてやるために、両親が残してくれた貯金を下ろしに行くがその道中で日本の降伏と敗戦を知る。

呆然としたまま防空壕に帰ると、節子の容態はますます悪化しており……。

いま、改めて観たい作品

公開となったのは1988年。多くの人が一度は観たことがある作品だろう。時代によって見方は変わるもので、清太たちに嫌味を言う伯母がひどいという意見もあれば、逆に清太がクズなのだという意見もある。が、悪いのは「戦争」である。戦時中でなければ、母親を失った清太たちに伯母が嫌味を言うなんてこともなかっただろう。清太も節子に食べさせるために畑の野菜を盗んだり、火事場泥棒をする必要もなかった(決して肯定される行為ではないが)。そもそも戦争がなければ母は死ななかった。改めて、戦争のむなしさを感じさせられる。

個人的に、『火垂るの墓』を観たのは子どものとき以来だった。正直、大人になってからのほうが観るのが怖かった。清太の気持ちも分かるが、伯母の気持ちも分かってしまうのだ。

節子に対しては言葉がふさわしいかどうかわからないが、悲しくてたまらなくなる。弱ってきてからの節子はただただ兄にそばにいてほしかっただけなのだろう。おなかが空いても、兄のそばがよかった。映画の描写からすると、最期の瞬間も清太はそばにいなかったのかもしれない。どんな思いで旅立ったのだろう、と考えると改めて胸がつぶれるような想いだ。

描写を際立たせる安田章大の声

初めて音声ガイドがある作品を観たが、ひとつも取りこぼすことなくシーンを解説してくれる。人物の動き、表情、情景。最初は違和感もあるが、慣れてくると映像が立ち上がってくるような感覚がある。

『火垂るの墓』において特に音声ガイドが生きるのは、節子が亡くなってからのシーンだ。セリフが少なくなり、ほぼ映像だけになる中で安田の声が響く。終盤は映像を観ているだけでも胸が痛くなるシーンが続くが、映像の色、情景を言語化するだけで脳内での情報がさらに補完されているように感じられて、新鮮な体験でもあった。もともと観たことがある作品だから、というのもあるかもしれない。

また、安田の声もいい。淡々とナレーションをしているように見えて、シーンごとににじむ感情がさらに作品に色をつけていく。安田自身が「このシーンを観ながら何か感じるものがあったのだろう」と感じさせられる。その表現の豊かさに驚かれるばかりだ。

鑑賞して何を感じるか

『火垂るの墓』については今もさまざまな考察がなされている。

登場人物たちに対してもさまざまな意見も交わされている。だが、あえて、今だからこそ、そういった先入観は一旦忘れて作品の世界観に没入し、しっかりと作品自体を受け止めてみてほしい。安田の音声ガイドは、その没入を大いにサポートしてくれるはずだ。


※記事は執筆時点の情報です