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秀吉が茶々を拒む展開は無理筋…同時期に側室が16人もいた秀吉を愛妻家に描く「豊臣兄弟!」への強烈な違和感

  • 2026.10.25

「豊臣兄弟!」(NHK)も終盤に入ったが、茶々(井上和)以外に秀吉の側室が出るとは発表されていない。系図研究者の菊地浩之さんは「秀吉が好人物に描かれすぎではないか。史料では秀吉に少なくとも16人の側室がいたことが分かっている」という――。

狩野光信画、豊臣秀吉の肖像画(一部)、慶長3年(1598年)、高台寺所蔵
狩野光信画、豊臣秀吉の肖像画(一部)、慶長3年(1598年)、高台寺所蔵(画像=大阪市立美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
秀吉は茶々を側室にしたくなかった?


秀長(仲野太賀)「わしは(側室にするのは)茶々殿しかないと思うておる」
秀吉(池松壮亮)「茶々じゃと⁉ (中略)頭を冷やせ。いくつ離れておると思うておる。いや、そんなことはどうでもよい。寧々が……、どれほど傷つくか」

「豊臣兄弟!」第36話「茶々の本心」より

大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)では、豊臣秀吉(池松壮亮)が純粋無垢の好人物に描かれており、本人は望んでいないのに、弟の秀長(仲野太賀)が茶々(淀殿/井上和)を側室に勧めたことになっている。

いやいや、そんなことはないでしょう。秀吉の女好きは有名で、夫の浮気に悩む寧々に対して、織田信長が嫉妬しないようにと私信をしたためているという有名な逸話がある(信長自筆の文書は2、3通しか残っておらず、そのうちの一つがこの文書だということだ)。

しかし、「豊臣兄弟!」ではたくさんいた側室の女性を出さず、茶々ひとりを代表として描くらしい。

実際には秀吉の側室は何人いたのか。ルイス・フロイスはその著書『日本史』で秀吉の側室が300人と報告しているが、さすがにそんなにはいないだろう。江戸幕府の大奥には女中が数百人いたというから、女中を含めた人数ではないか。

秀吉の側室は同時期に16人以上

現実的な数字としては16人という説がある。

「『伊達世臣家譜』には、秀吉の側室は16人とあり、(中略)身分の高い武家女性ばかり。しかも織田氏関係の女性が三人も。これはまた、何とも分かり易い。秀吉は信長の一族を憧憬を以て仰ぎ見ていたんだろうなあ。かつての自分には、とても手が届かなかった、縁のなかった『お姫さま』。彼女たちを側に侍はべらせて悦に入っていたのでしょう」(本郷和人『戦国武将の明暗』)。

側室が16人というのはかなりの数だろう。徳川家康にも少なくとも16人の側室が認められるが、家康が側室を迎えたのは永禄8(1565)年頃で、それから死去するまで51年間、通算の人数が16であるのに対して、秀吉の側室はほぼ同時期に16人いたと思われる。

名前、父親がわかっているのは以下の10人である(図表1)。

【図表1】秀吉の側室
筆者作成
「妻」のポジションは一人ではない

秀吉の正室は北政所きたのまんどころ・寧々ねねなので、茶々ちゃちゃは側室である――と考えられていたのだが、実は茶々も“妻”だったらしい。

研究者の福田千鶴氏によれば、戦国時代は一夫多妻制で、複数の妻(+複数の妾めかけ)がいた。しかし、江戸時代に一夫一妻制になったので、茶々も「側室≒妾」に分類されてしまったらしい。福田氏は秀吉には少なくとも5人の妻がいたという。北政所・寧々、淀殿・茶々、松の丸殿・龍子(京極氏)、姫路殿(織田氏)、加賀殿・摩阿(前田氏)の5人である(福田千鶴『淀殿』)。

秀吉の正室で糟糠の妻だった高台院(ねね)の肖像画、17世紀
秀吉の正室で糟糠の妻だった高台院(ねね)の肖像画、17世紀(画像=高台寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
第一子を産んだ?「南殿」

寧々以外の秀吉の妻・妾として、最古参と推測されているのが南殿である。

秀吉には長浜城時代に石松丸という子がいたという説があり、秀吉びいきの歴史学者・桑田忠親が、南殿という側室がその母であると指摘したのだ。しかし、石松丸は朝倉景鏡の子を秀吉が養子に迎えたものであり、秀吉が納めた奉加帳に名前があるだけで、南殿が秀吉の側室で石松丸の母というのは推測に過ぎない(『増補新版 豊臣家臣団の系図』)。

信長の姪である「姫路殿」の存在

妻妾の中で比較的古株と考えられるのが、織田信包(信長の弟)の長女・姫路殿だ。その名の通り、姫路城にいたから姫路殿と呼ばれた。秀吉は中国経略のために播磨に赴き、天正5(1577)年から姫路城を拠点とした。いつ頃、秀吉の妻に迎えられたかは定かではないが、天正9(1581)年5月には秀吉の妻として認知されていた。しかし、本能寺の変後に母によって離縁させられたという(福田千鶴『豊臣家の女たち』)。

秀吉の側室・姫路殿の父である織田信包(信長の弟)
秀吉の側室・姫路殿の父である織田信包(信長の弟)(画像=正伝永源院所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

秀吉は中国経略の一環として、天正8(1580)年に鳥取城の山名豊国を攻め、その娘・南局を妾にしたという。表現は悪いが「戦利品」であり、秀吉の妻妾はこのタイプが多い。

【図表2】秀吉の妻たちと織田家の関係
筆者作成
「戦利品」として次々に武将の娘を…

天正10(1582)年6月の本能寺の変で、近江半国守護・京極高次きょうごくたかつぐとその妹婿である若狭守護の武田元明は明智光秀に与くみした。山崎の合戦後の天正10年7月に秀吉は武田元明を討ち、未亡人の松の丸殿・龍子を妻とした。具体的にいつ妻にしたのかは不明だが、翌天正11年4月に賤ヶ岳の合戦の際、龍子が兄・京極高次の助命嘆願をしているので、天正10年と考えるのが妥当だろう。

また、秀吉は賤ヶ岳の合戦後に前田利家のもとを訪ね、三女の加賀殿・摩阿(11歳)をもらい受けた。人質という意味なのだろうが、妻にしちゃったのだ。人質の娘を妻妾にする事例は、武田信玄の諏訪御寮人(勝頼の母)、徳川家康の西郡局にしごおりのつぼね(次女の母)等、戦国時代ではよくあるパターンだった。

秀吉は前田利家の四女・豪姫(1574~1634)を天正3(1575)年頃に養女としており、摩阿は当初豪姫と行動をともにしていたらしい。豪姫としては2歳年上のお姉ちゃんがやってきて楽しい思いをしたのだろうが、その姉が養父の妻にされるとは理解できなかったにちがいない。

まだ15歳前後だった信長の娘も

さらに、秀吉は賤ヶ岳の合戦の凱旋の帰路、近江日野城に立ち寄り、織田信長の娘・三の丸殿を連れ帰って妻とした。近江日野城主・蒲生賢秀がもうかたひで(蒲生氏郷うじさとの父)は本能寺の変が起こると安土城にいる信長の親族を日野城に退避させた。おそらく秀吉はその情報を掴んで、信長の娘を物色したのであろう。

秀吉の側室時代は「三の丸殿」と呼ばれた織田信長の娘(二条昭実夫人像)、東京大学資料編纂所蔵の模写、原典は京都府雑華院所蔵
秀吉の側室時代は「三の丸殿」と呼ばれた織田信長の娘(二条昭実夫人像)、東京大学資料編纂所蔵の模写、原典は京都府雑華院所蔵(画像=東京大学資料編纂所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)

三の丸殿の生年は不詳だが、「この時は十五歳前後だったことになる。まだ十五になるかならないかの若い娘たちをこれだけたくさん引き連れて、よくまあ京都に凱旋したものだと、やや呆れ気味になるが、これは秀吉の女狂いというよりは、もはやロリータ・コンプレックスというべき様相を呈している」(『豊臣家の女たち』)。

なお、氏郷の妹・三条殿も秀吉の妾とされているが、福田氏は三の丸殿と混同したものとしている。

三姉妹の長女・茶々は自分をエサに?

茶々は浅井長政とお市の方の長女ということになっている。浅井長政とお市の方の婚姻時期は複数の説があり、茶々の生年も複数の説があって確かなことはわからない。次女の名前が「初」なので、茶々を庶腹とする一案もあるが、関ヶ原の合戦後に織田家の人びとが大坂城に出入りしていたことを考えると、事実関係は別としてお市の方の子と認識されていたようだ。

伝・淀殿(茶々)の肖像画
伝・淀殿(茶々)の肖像画(画像=奈良県立美術館収蔵「伝 淀殿画像」/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

天正元(1573)年9月に浅井長政が織田信長によって討たれた際、母と妹とともに城から逃げ落ち、織田一族のもとで庇護された。天正11(1583)年4月、賤ヶ岳の合戦後に母は自害。妹とともに秀吉のもとに護送された。その後は叔父の織田長益(有楽斎)、もしくは従姉妹の松の丸殿・龍子に預けられたらしい。

茶々が秀吉の側室になったのは、天正16年(1588)のころとされている(福田千鶴『豊太閤の私的生活』)。これは、第一子の鶴松が同17年5月に生まれたところから逆算しての推定。しかし、福田氏は「(母親のお市が亡くなった翌年)天正十二年の段階ですでに三姉妹の進路は決められていたのではなかろうか」(『淀殿』)。「秀吉が茶々に求婚すると、茶々は知恵を働かせ、妹二人を嫁がせたのちなら秀吉と一緒になる約束をした」(『豊臣家の女たち』)と推測している。

茶々の妹(浅井長政次女)「初」常高院の肖像画、江戸時代
茶々の妹(浅井長政次女)「初」常高院の肖像画、江戸時代〔画像=常高寺所蔵/PD-Art(PD-Japan)/Wikimedia Commons〕

この茶々の提案については、妹・お初(常高院)に仕えた女房の回顧録(覚書)である『渓心院文』という史料にも記されている。

実際、天正12年に末妹の江ごうが佐治一成に、天正15年に次妹の初が京極高次に嫁いでいる。

茶々の妹(浅井長政三女)「江」崇源院像、江戸時代
茶々の妹(浅井長政三女)「江」崇源院像、江戸時代(画像=養源院所蔵/『戦国大名浅井氏と北近江』長浜城歴史博物館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
好色な男に姉妹を狙われたら…

ただ、秀吉ほどの好色家が三姉妹のうち、茶々だけを妻として、他の二人に手を付けなかったのは不思議でもある。その理由として、「秀吉が茶々に求婚すると、茶々は知恵を働かせ、妹二人を嫁がせたのちなら秀吉と一緒になる約束をした」(『豊臣家の女たち』)という。なぜ茶々は「知恵を働かせ」なければならなかったのか。

ここで思い出されるのが、昭和初期、ある鉄道会社創業者の有名なエピソードである。

その創業者は女性関係が乱倫を極めていた。没落した資産家に入り浸り、3人の娘のうち、次女をお目当てにしていたが、なかなか靡なびかない。そこで、創業者は長女と三女と関係を持った。すると、次女は「自分が妻になるので、姉と妹からは身を引いてほしい」と懇願したという。

茶々は二人の妹の盾になって、自らの身を捧げたのかもしれない。

菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『財閥と閨閥 10大財閥の婚姻戦略』『財閥と学閥 三菱・三井・住友・安田、エリートの系図』『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『一目で流れがわかる業界変遷100年史』(KADOKAWA)など。

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