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誰も対戦したくなかった「クレイジーギャング」!プレミアのクラブを伝説にした最凶の8人

  • 2026.10.15

かつてイングランドに「誰も対戦したがらない集団」がいた。それはウィンブルドンFC。通称「クレイジーギャング」である。

荒々しいプレー、容赦のない肉弾戦、度を越した挑発。その結束力を武器に、小さなクラブがイングランドサッカーを駆け上がった。デイヴ・バセット監督のもとで4部からわずか4シーズンで1部へ昇格。1988年のFAカップ決勝では、ジョン・バーンズ、ピーター・ベアズリー、アラン・ハンセンらを擁する当時最強クラスのリヴァプールを1-0で下したことで知られている。

試合終了の瞬間、BBCの名実況ジョン・モットソンはこう言ったという。「The Crazy Gang have beaten the Culture Club」。クレイジーギャングが、華麗なるカルチャークラブを倒したと。

全盛期はプレミアリーグ創設以前に始まっているが、その精神は1990年代まで受け継がれ、ウィンブルドンは異質な存在として生き残った。『GMS』から、そのクラブの文化を作った8人の選手を紹介する。

ヴィニー・ジョーンズ

画像: (C)Getty Images 両脇はジェイソン・ステイサムとスティーヴ・オースティン
(C)Getty Images

ポジション:MF

クレイジーギャングと聞いて最初に思い浮かべる人が多いだろう。ウィンブルドンの荒々しさを、そのまま人間にしたような選手だった。

1986年に加入すると、「中盤の用心棒」として相手を威圧。激しいタックル、挑発、圧倒的な闘争心で名を馳せた。ニューカッスル戦で若きポール・ガスコインの股間をつかんだ場面は、英国サッカー史でも屈指の珍写真として残っている。

その後はリーズ、シェフィールド・ユナイテッド、チェルシーを経て古巣へ復帰し、ウェールズ代表にも選ばれた。現役末期に始めた俳優業では、ガイ・リッチー監督の『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』をきっかけに映画スターへ転身。現在は『スナッチ』や『X-MEN:ファイナル ディシジョン』など、100本以上の作品に出演するまでになった。

ジョン・ファシャヌ

ポジション:FW

クレイジーギャングの前線に君臨した「大将」。1986年にミルウォールから加入すると、強靱な肉体でウィンブルドンの攻撃を牽引した。ロングボール戦術が成立したのも、最前線でファシャヌがDFと肉弾戦を繰り広げ、パスを収めたからである。

同時に、チームの恐ろしい評判を作った中心人物でもあった。その荒々しい空中戦は対戦相手から恐れられ、1993年には競り合いでトッテナムのギャリー・マバットが頭蓋骨と眼窩を骨折する大怪我を負い、大きな批判も浴びている。

ウィンブルドンでは公式戦126得点。1990-91シーズンには2部で20ゴールを奪い、得点ランキング上位に食い込んだ。その後1994年に135万ポンドでアストン・ヴィラへ移籍したが、負傷に苦しみ13試合3得点で現役を終えた。

引退後は人気番組『Gladiators』の司会者として「Awooga!」の決め台詞で知られ、『I'm a Celebrity...Get Me Out of Here!』にも出演。恐怖のFWから全国区のタレントへ、これもまたクレイジーギャングらしい転身だった。

デニス・ワイズ

ポジション:MF

身長168cmほどの小兵である。しかしこのチームで、体のサイズほど意味を持たない数字もなかった。闘志と気迫を表に出してプレーする「ファイター」だった。

サウサンプトンを離れ、18歳だった1985年に加入。当初はほぼ無名だったが、バセット監督のもとで急成長し、1986年の1部昇格に貢献した。そして1988年のFAカップ決勝で歴史を作る。前半37分、左から蹴ったフリーキックにローリー・サンチェスが頭で合わせ、これが決勝点となった。

1990年にチェルシーへ移り、11シーズンで445試合に出場。キャプテンとしてFAカップ、リーグカップ、カップウィナーズカップ、UEFAスーパーカップを掲げ、国際化が進むチームではジャンフランコ・ゾラら外国人選手と英国人選手をつなぐ役割も担った。また、後にミルウォールで選手兼監督として2004年のFAカップ決勝へ進出している。

2019年から2024年にはイタリアのコモで顧問やCEOを務め、チームのセリエDからセリエAまでの昇格を支えている。

デイヴ・ビーサント

ポジション:GK

クラブ最大の試合で、最大のヒーローになった男だ。1979年、ノンリーグのエッジウェア・タウンから加入。下部リーグをさまよっていた時代からゴールを守り、4部優勝から1部昇格までの成り上がりをほぼすべて経験した守護神だ。

1988年5月14日のFAカップ決勝では、1対0とリードして迎えた後半にPKを献上する。キッカーは名手ジョン・オルドリッジだった。

だがビーサントは、相手の助走の癖を事前に研究していたという。前日にはファシャヌにオルドリッジを真似たPKを蹴らせて対策までしていたとか。そして本番、読み通りの方向へ飛んで完璧に止めた。彼はFAカップ決勝でPKを防いだ史上初のGKとなり、キャプテンとしてトロフィーを掲げた。

ただ、この決勝がウィンブルドンでの最後の試合になった。翌月ニューカッスルへ移籍し、半年ほどでチェルシーへ。当時のクラブ最高額での加入だった。1990年ワールドカップではイングランド代表の第3GKとしてメンバー入りし、その後も長く現役を続けた。

2004年に44歳で引退したものの、なんと2013年に現役復帰。54歳で8部リーグに出場し、次年度にはリーグツー(5部)の試合に55歳でベンチ入りしている。

ローリー・サンチェス

ポジション:MF

クラブの歴史を一つのゴールで表すなら、彼のヘディングだろう。1984年にレディングから加入し、1985-86シーズンのハダースフィールド戦で1部昇格を決めるゴールを記録した。

2年後、今度はウェンブリーでクラブ史上最大の一点を奪う。1988年FAカップ決勝の前半37分、デニス・ワイズのフリーキックに飛び込み、巧みに頭で軌道を変える。ボールはリヴァプールGKブルース・グロベラーの頭上を越えてネットへ吸い込まれた。

ジョーンズやファシャヌほど凶暴なイメージはないが、強烈なロッカールーム文化を生き抜いた一人だ。1994年までクラブに在籍し、スウィンドンを経てアイルランドのスライゴ・ローヴァーズで選手兼監督となった。

指導者としても名を上げる。ウィコム・ワンダラーズを率いた2000-01シーズンには、当時3部相当のクラブをFAカップ準決勝まで導いた。北アイルランド代表監督としては、就任時124位だったFIFAランキングを在任中に27位まで押し上げ、イングランドやスペインから歴史的勝利も挙げている。

ちなみに選手と並行して学校で経営を学んだインテリであるほか、妻が癌で若くして亡くなったあとは慈善団体の支援者として積極的に活動している。

テリー・フェラン

ポジション:DF

屈強な大男ばかりが集まっていたわけではない。左サイドを疾走したテリー・フェランは、スピードと運動能力で違いを生んだ選手だった。

リーズ・ユナイテッドの育成組織では定着できず、スウォンジーを経て1987年に加入。すると1年目でキャリア最大の瞬間を迎える。1988年のFAカップ決勝に左サイドバックとして先発し、スター軍団を相手に守り切って王者となった。

その後もチームに残り、5年間で約200試合に出場。そして1992年、プレミアリーグ創設のタイミングでマンチェスター・シティへ移籍する。移籍金250万ポンドは当時の英国人DFとして記録的な金額で、シティ公式は世界最高額のDFになったと紹介している。

代表はアイルランドを選び、1994年アメリカワールドカップでは強豪イタリアを1-0で破った試合にも先発している。後にチェルシー、エヴァートンでもプレーした。現在はインドでディレクター業をしている。

ウォーリー・ダウンズ

ポジション:MF

クレイジーギャングを作ったのは誰か。そう問われれば、この名前は外せない。ウィンブルドンが世界的に知られる前から、異常な文化を作っていた中心人物だった「イタズラ王」だ。

ボクシングの世界ミドル級王者であるテリー・ダウンズを叔父に持つ武闘派の彼は、クラブ史上初のフルタイムのプロ選手となり、1979年に17歳でリーグデビュー。いきなりゴールを決め、その後200試合以上に出場した。

そしてピッチ外では「悪戯の総元締め」であったとか。新加入選手の服を破る、燃やすといった行為が横行した当時、彼はクラブの理学療法士を船から逆さにつるし、どれだけ水中に耐えられるか試したという。いまならあきらかにパワハラだ。

それでもバセット監督は後に「彼は遊ぶ時は遊んだが仕事では徹底的に働いた」と証言している。ふざけた集団でありながら、練習になれば極端に厳しかったようだ。

キャリアでは4度の脚の骨折に苦しみ、20代で現役を終えた。その後は指導者としてクリスタル・パレスなどでコーチを務め、ブレントフォードの監督にも就任。2018年にはAFCウィンブルドンの監督として故郷へ帰還した。

アラン・コーク

ポジション:FW

ジョーンズのような悪役でも、ファシャヌのような巨漢でもない。だがクラブそのものを象徴するなら、この男以上の選手はいない。

1978年、ウィンブルドンがフットボールリーグへ加入したばかりの頃に加わり、そこから14年間在籍。4部から1部まで、すべてのカテゴリーを一緒に駆け上がった。リーグ戦だけで430試合145得点。長年にわたってクラブの最多出場、最多得点記録を保持した。

1988年のFaカップ決勝では背番号9で先発。欧州屈指の強豪を相手に、コークら前線は愚直にロングボールを追い、DFへ圧力を掛け続けた。相手にいつものサッカーをさせず、自分たちの土俵へ引きずり込む。その戦い方を下部時代から知り尽くしていた存在だった。

1992年にクラブを離れると、恩師バセットが率いるシェフィールド・ユナイテッドへ。プレミアリーグでもプレーし、フラムを経て現役を終えた。引退後はスウォンジーやカーディフの監督、シェフィールド・ユナイテッドのコーチなどを歴任している。

なお、かつてイングランド代表でプレーしたジャック・コークの父親としても知られる。

※選出基準は、各選手の実績に基づきながら筆者またはメディアの主観的判断も含んでおります。

筆者:石井彰(編集部)
画像提供:Getty Images

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