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日本代表と対戦!ウルグアイを象徴する伝説的アタッカー5人

  • 2026.9.18

人口はおよそ350万しかしないにもかかわらず、ブラジル、アルゼンチンと並ぶ南米屈指のサッカー大国として世界に名を刻んできたウルグアイ。ワールドカップも1930年の第1回大会と1950年大会を制覇した強豪だ。

24日にはキリンチャレンジカップで日本代表と対戦することが決まっているウルグアイについて、今回は「その歴史に刻まれた5名の伝説的なアタッカー」をご紹介する。

ルイス・スアレス

画像1: (C)Getty Images
(C)Getty Images

生年月日:1987年1月24日

ウルグアイ代表選出:2007年〜2024年

代表成績:143試合69ゴール

ウルグアイ史上最高のストライカーを一人選ぶなら、この男を避けて通ることはできない。決定力、狡猾さ、闘争心、勝利への執念。すべて込みでウルグアイらしさを体現した9番だった。

2007年に20歳で代表デビューを飾ると、そこから17年以上にわたって最前線に立ち続けた。143試合69得点という数字は、ウルグアイ代表の歴代最多記録である。

名前を世界に轟かせたのは2010年ワールドカップだった。ディエゴ・フォルラン、エディンソン・カバーニとともに強力な前線を形成し、チームを40年ぶりのベスト4へ導く。そして準々決勝ガーナ戦の延長終了間際、ゴールライン上で相手のシュートを手で弾いて退場処分を受けた。

さらにガーナはアサモア・ギャンがPKを外し、ウルグアイが延長戦後のPK戦を制して勝ち上がり。賛否は割れたが、何としても国を勝たせるという彼の生き方が凝縮された場面でもあった。

クラブではアヤックス、リヴァプール、バルセロナ、アトレティコ・マドリーを渡り歩いた。バルセロナではリオネル・メッシ、ネイマールとの「MSN」を形成して2014-15シーズンの3冠に貢献し、ラ・リーガ4度、チャンピオンズリーグ1度を含む数々のタイトルを積み上げた。

エディンソン・カバーニ

画像2: (C)Getty Images
(C)Getty Images

生年月日:1987年2月14日

ウルグアイ代表選出:2008年〜2022年

代表成績:136試合58ゴール

スアレスとほぼ同じ時代を生きた、もう一人の伝説である。2008年に代表デビューし、2022年ワールドカップまで136試合58得点。代表の歴代得点ランキングでは、スアレスに次ぐ2位につけている。

「エル・マタドール(闘牛士)」の異名で知られた彼の凄みは、点を取る力だけではなかった。センターフォワードでありながら自陣まで戻って守り、前線から猛然とプレスをかけ、スペースが空けば何度でも裏へ走るオールラウンダーだった。

2010年ワールドカップでは、フォルランとスアレスを生かすためにサイド寄りの役割も引き受けた。自分の得点数以上にチームのために走り、ベスト4進出を支えている。2011年のコパ・アメリカでは負傷に苦しみながらも黄金世代の一員として南米制覇を味わった。

クラブではナポリでセリエA屈指の点取り屋となり、PSGでは通算200得点を記録してリーグアンを6度制覇。その後はマンチェスター・ユナイテッド、バレンシア、ボカ・ジュニオルスでもプレーするなど、息の長い活躍を見せた。

ディエゴ・フォルラン

画像3: (C)Getty Images
(C)Getty Images

生年月日:1979年5月19日

ウルグアイ代表選出:2002年〜2014年

代表成績:112試合36ゴール

2010年代にウルグアイが世界の上位へ返り咲いた、その中心にいた男だといえる。2002年に代表デビューし、同年の日韓ワールドカップにも出場。2014年までに112試合36得点を積み上げた。

クラブではマンチェスター・ユナイテッドで苦しんだが、スペインへ渡って一変する。ビジャレアル、アトレティコ・マドリーで点を量産し、ラ・リーガ得点王を2度手にした。

彼にとってのピークは2010年。アトレティコではヨーロッパリーグ決勝のフラム戦で2得点。クラブに48年ぶりの欧州主要タイトルをもたらした。

その勢いのまま迎えた南アフリカでのワールドカップでは大会5得点。開催国南アフリカ戦、ガーナとの準々決勝、オランダとの準決勝と、重要な試合でネットを揺らし、ウルグアイを1970年以来40年ぶりのベスト4へ導き、大会最優秀選手に贈られるゴールデンボールも受け取った。

翌2011年のコパ・アメリカでも、決勝パラグアイ戦で2ゴール。3-0の勝利を決定づけ、代表としての最大のタイトルを手にしている。

キャリア後半にはセレッソ大阪でもプレー。すでにピークを過ぎていたこともあって、Jリーグでの活躍はわずかだったが、日本のファンにはなじみが深い存在だ。

エンツォ・フランチェスコリ

画像4: (C)Getty Images
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生年月日:1961年11月12日

ウルグアイ代表選出:1982年〜1997年

代表成績:73試合17ゴール

「エル・プリンシペ(王子)」。この愛称だけでも、彼がどれほど特別な存在だったかが伝わってくる。1982年に代表デビューした彼は、1997年までに73試合17得点を記録し、1986年のメキシコ大会と1990年のイタリア大会ではキャプテンとしてワールドカップを戦った。

最大の功績はコパ・アメリカ3度の制覇。1983年、1987年、そして1995年。ウルグアイサッカー協会も、この3大会を彼の代表タイトルとして記録している。

1983年大会ではブラジルとの決勝でゴールを決め、若くして南米王者にもなっている。1987年大会でも連覇に貢献し、キャリア終盤の1995年大会においても母国開催のチームを優勝に導いている。そして、コパ・アメリカを3度制したウルグアイ人は彼ひとりである。

彼に憧れた一人がジネディーヌ・ジダンで、長男に「エンツォ」と名付けたことはよく知られている。力強いストライカーの印象が強い国にあって、フランチェスコリは美しさで祖国を代表した選手だった。

フアン・アルベルト・スキアフィーノ

画像5: (C)Getty Images
(C)Getty Images

生年月日:1925年7月28日

ウルグアイ代表選出:1946年〜1954年

代表成績:21試合9ゴール

代表出場は21試合9得点。現代のスターと並べれば、数字そのものは控えめだ。しかしそのなかで、彼はサッカー史上最も有名な番狂わせを演出した。

1950年のワールドカップ。当時は一発勝負の決勝ではなく、最終リーグで優勝が決まる方式だった。最終戦を迎えた時点で、相手となった開催国ブラジルは引き分けでもトップを守れる状況だった。さらに試合はブラジルが先制し、スタジアム全体が勝利を確信した。

ところが後半21分、スキアフィーノが同点弾を突き刺す。さらにアルシデス・ギジャの決勝点にも絡み、ウルグアイが2-1で大逆転。これはいまだワールドカップ史上最大級の衝撃として語り継がれている。大会5得点を挙げた彼は、母国に2度目の世界一をもたらした。

クラブではペニャロールで国内リーグを5度制した後、1954年にACミランへ移籍。イタリアでも天才司令塔として鳴らし、セリエAを3度制覇。イタリア系のルーツを持っていたため、ウルグアイ代表を離れた後はイタリア代表としても4試合に出場している。

※選出基準は、各選手の実績に基づきながら筆者またはメディアの主観的判断も含んでおります。

筆者:石井彰(編集部)
画像提供:Getty Images

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