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3回の結婚と絶えない中傷…「ビートルズを壊した女」と呼ばれ、夫を亡くした小野洋子が孤独の底で貫いた生き様

  • 2026.9.17

世界で最も知名度の高い日本人女性でもあるオノ・ヨーコこと小野洋子。現在93歳の彼女はなぜ世界で評価されたのか。小野の著作などでその生き方を追った平山亜佐子さんは「小野洋子の生き方からは、ジョン・レノンの妻であるよりも母親であるよりも、孤独と引き換えにしても自分の表現を発信したいという一貫した強さを感じる」という――。

世界で知られる日本人女性、小野洋子

2026年8月14日に草間彌生が97歳で亡くなった。海外で活躍する女性アーティストの草分けだった草間。約60年前、海外渡航自由化の前にアメリカに渡り、みずからの表現をときに過激に世界に問いかけた女性たちがいた。現在93歳の前衛芸術家・小野洋子も、そのひとりである。

「ビートルズを解散させた女」「サークルクラッシャー」――小野洋子には長らくそうしたレッテルが貼られてきた。だが彼女の歩みを辿ると、孤独と中傷に耐えながら、それでも自己を貫いたひとりの女性が見えてくる。(事実上)三回あった結婚は洋子に何をもたらし、世間の目はどう変わったのか。苦闘し続けた半生を辿る。

現在93歳、安田財閥につながる家柄

小野洋子は1933(昭和8)年2月18日、大雪の日に帝大病院で生まれた。

祖父の英二郎は日本興業銀行総裁、父の英輔は横浜正金銀行員、母の磯子は安田財閥創始者・安田善次郎の孫という上流階級の出身である。一方、父は元ピアニストであり、母は洋画家でもあるなど、芸術一家の側面もあった。

小野洋子の祖父、小野英二郎(日本興業銀行総裁)
小野洋子の父方の祖父、小野英二郎(日本興業銀行総裁)〔写真=『日本興業銀行五十年史 本編』(日本興業銀行臨時史料室、1957年)/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons〕

誕生時、父はサンフランシスコ支店に赴任中で、母は社交に忙しく、鎌倉の屋敷で家庭教師らに育てられた。後年、洋子は語る。「母はしょっちゅう言っていました。『おまえは、きれいなお母様を持って幸せだと思わなくちゃいけないわ』」「母はスクリーンに映る女優さんのように、いつもニッコリ笑っているのですが、何も与えてはくれませんでした」。

小野洋子の祖父、安田善三郎
小野洋子の母方の祖父、安田善三郎〔写真=安田善三郎『実務詳説銀行経営法』(大学館、1914年)/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons〕
早熟な少女は学習院でも異彩を放った

1935(昭和10)年、サンフランシスコへ渡り、2年後に帰国。自由学園から学習院初等科へ進んだが、日米開戦を前に再び渡米する。その2年後に父の赴任でまたもや東京へ戻り、啓明学園を経て青南小学校に入学した。幼少期に日本とアメリカを頻繁に往復し、そのたびに転校する生活は、洋子に孤独と早熟をもたらした。

空襲が激しくなると、洋子と母と弟と使用人たちは軽井沢へ疎開。母の高価な装身具は食べ物に換えられた。学校では地元の子どもたちからいじめられたが、引きこもりがちになった弟に対し、勝気な洋子はむしろ生き生きしていたという。

戦後、学習院女子中等科に進んだ洋子は成績優秀で詩作なども始めた。母は「女でも、お前くらい頭が良ければ外交官にでも首相にでもなれるよ」「結婚なんてバカなことをするもんじゃない」と独立心を植えつけた。学校では英語劇やフランス語劇に出演。配役が気に入らなければ選挙をやり直させるほど自尊心が強かった。当時のあだ名は「小野氏」。同級生からは「セックス知識の披露がお好きだったわ」とも証言されている。

アメリカの大学へ転学、最初の結婚

学習院大学哲学科に進んだものの、父のニューヨーク支店長就任を機に渡米し、名門サラ・ローレンス大学に入学する。だが学校では孤独で、両親ともうまくいかず、ひとりでマッチを擦っては炎を眺める日々だった。この体験は後の「ライティング・ピース(火を灯す作品)」につながった。

大学3年でシェーンベルクらの前衛音楽に触れた洋子は、ジュリアード音楽院の学生だった一柳慧いちやなぎとしと恋に落ちる。両親は猛反対したが、やがて折れた。二人はマンハッタンの高級ホテルで式を挙げ、ロフト(倉庫を改装した住居)に移って前衛芸術にのめり込む。洋子にとって一柳は初めての理解者だった。

前衛芸術のパフォーマンスを始める

1958(昭和33)年、夫婦で参加した作曲家ジョン・ケージの実験音楽ワークショップをきっかけに、洋子は「インストラクショナルズ(指示、説明書)」と呼ぶ作品の着想をノートに記し始めた。踏まれるための絵画や、歩いた跡に豆を一粒ずつ落としていく作品など、のちにコンセプチュアル・アートと称される表現の原型である。

だが、経済的には常に困窮していた。一柳にはピアノ伴奏のアルバイトがあったが、洋子はウェイトレス、習字や折り紙、民謡を教えるなどして食いつないだ。それでも、ロフトを開放して週末ごとにパフォーマンスを行った。大抵は観客がいなかったが、著名な芸術家やギャラリストも足を運んだ。前衛芸術家ジョージ・マチュナスと激しい恋愛関係に陥ったのもこの頃のことだ。

1961(昭和36)年、一柳が帰国し、事実上別居となる。洋子はニューヨークに残って発表を重ねたが、満足できる評価は得られなかった。

酷評され孤立、睡眠薬を過剰摂取

翌年、弟の結婚式を機に一時帰国した洋子は、両親が所持する渋谷の高級マンションに住み、来日したケージらと草月会館でパフォーマンスを行った。が、これも酷評され、ケージのアイデアを盗用したとまで言われた。なによりつらいのは、批評家の多くが一柳の知人だったことだ。夫婦でパーティーに呼ばれても、一柳の足を引っ張るのを恐れて洋子だけが断った。

男性中心の日本の美術界に居場所を見いだせず精神的に追い詰められた洋子は、睡眠薬を過剰摂取して入院する。その病室を見舞ったのが、洋子の作品に関心を寄せてニューヨークから来日した美術大学生のトニー・コックスだった。孤独な洋子にニューヨークの思い出を語ったことで、二人は急速に近づくこととなる。

美大生と再婚、長女を産む

一柳との関係が破綻するなか、1962(昭和37)年に洋子は妊娠する。もとより子どもを望まない性分だったが、説得されて産む決意をし、トニーと入籍。これが二度目の結婚である。小野家はこの結婚にも激怒。マンションを追われるように二人は同じ渋谷区の格安の地域に越した。

翌年8月、娘の京子が生まれたものの、相変わらず経済状況は好転せず、夫婦喧嘩が絶えなかった。当時、遊びに行った学習院時代の同級生は、荒涼とした部屋で二人が麻雀ばかりしていたと語っている。

1964(昭和39)年7月、洋子は自費で作品集『グレープフルーツ』を刷って京都や東京公演で売り、観客が洋子の服をハサミで切る「カット・ピース」という作品を発表するなど意欲的に活動したが、返ってくるのは無視か酷評ばかりだった。秋にはトニーが京子を連れて帰米。2カ月後に洋子もアメリカに渡った。

ニューヨークでも家賃を滞納し、3カ月ごとにアパートを追われた。トニーも洋子に負けず劣らず野心的でかつ洋子の才能を信じていたので、さまざまなアイデアを出した。ふたりはギャラリスト、ライター、評論家、マスコミ関係者など、手当たり次第に売り込んだ。

ニューヨーク近代美術館で開催された小野洋子の「ウィッシュ・ツリー」展における参加者の作品
ニューヨーク近代美術館で開催された小野洋子の「ウィッシュ・ツリー」展における参加者の作品(写真=Adel Gorgy/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons)
ロンドンを拠点に活動、知名度がアップ

1966(昭和41)年春、トニーの発案で洋子を株として新聞広告で売り出したところ、成功。まとまった金が入ったので画廊を開いた。また、9月に招かれてロンドンに行ったところ、作品集『グレープフルーツ』が好意的に受け止められた。いくつかのパフォーマンスも話題になり、洋子は少し有名になった。ロンドンが気に入った二人は腰を落ち着けるとともに、本格的にパトロンを探し始めた。

転機が訪れたのは11月、「インディカ・ギャラリー」での展覧会でのこと。開会前の内覧会で洋子は後に三番目の夫となるジョン・レノンと出会うことになる。

なお、洋子はそれまでビートルズが誰か知らなかったとする説と、むしろ周到にジョンに接近したとする説がある。数年前に「わたしはジョンと結婚する」と宣言したとも、ギャラリーのオーナーを通じてジョンに何度も連絡をとらせたともいわれる。だが、男女の仲になったのは出会いから1年半以上あとのことだった。

小野洋子とジョン・レノン
小野洋子とジョン・レノン
妻子がいたジョン・レノンと男女の仲に

1968(昭和43)年初め、妻子とインドへ渡っていたジョンに、洋子はしきりに手紙を送った。ジョンが帰国すると、洋子はひとりでホテル暮らしをしていた。

5月19日、妻が留守の間にジョンの自宅を訪れた洋子は、二人で一晩かけて音源を録音した後に、男女の仲になる。数日後に帰宅したジョンの妻は、自分のガウンを着ている洋子を見て家を出た。

翌年2月までに、それぞれの離婚が成立し、3月にジョンと洋子はジブラルタルで正式に結婚する。そのままアムステルダムに直行し、ホテルで一週間の「ベッド・イン」という平和のパフォーマンスを行った。ふたりの結婚のニュースは文字通り世界中を駆け巡った。

ビートルズのレコード
※写真はイメージです
ジョンと三度目の結婚、バッシング

世間は、意志の強そうなミステリアスなアジア人女性がジョンにいつもぴったり寄り添っていることに不信感を抱いた。折しもビートルズの解散騒動が勃発しており、ジョンが明らかに洋子の影響下にあるように見えたことも重なって、「ビートルズを解散させた女」というレッテルにみんなが飛びついた。実際には、メンバー間の方向性の違いや事業をめぐる対立など複雑な要因が絡んでいた。それでも洋子は「戦犯」として名指しされ続けたのだ。

街を歩けば「帰れ、中国女」と心ない言葉を浴びせられた。ビートルズのメンバーやアップル・レコードの関係者の目にも洋子は尊大に映った。彼らが想像する謙虚な日本人女性像とはかけ離れていたからだ。ジョンは必死に洋子を庇ったが、かえって逆効果だった。

ジョンと結婚することで、洋子は喉から手が出るほど欲しかった名声や資金を手に入れたが、予想もしない苦難が待ち受けていた。

当時、ジョンにはビートルズ解散をめぐる法廷闘争、過去の大麻所持歴による国外退去命令との係争、裁判所命令に伴う資産凍結など複数のトラブルがあった。次第に鬱状態になったジョンは洋子に当たり散らし、事務仕事を丸投げした。洋子は慣れない仕事を数霊術に頼りながらこなし、次第にビジネス面での発言力が増した。なお洋子も、娘の京子の親権を取り戻すため、前夫トニーと京子を探し出すという難題を抱えていた。アーティスト同士の国際結婚は一筋縄ではいかなかった。

ジョンは秘書と姿を消し、復縁後に長男誕生

1973(昭和48)年、ジョンは姿を消し、秘書メイ・パンと同棲を始める。後に「失われた週末」と呼ばれるこの18カ月間は、行き詰まった夫婦関係を打開するために洋子がメイを焚きつけたともいわれている。

1975(昭和50)年にジョンが戻った後に、息子ショーンが誕生。ジョンは主夫になることを宣言したが、あまり適役ではなかった。

カナダで行われたジョン・レノンの追悼イベント、2010年
カナダで行われたジョン・レノンの追悼イベント、2010年
1980年の銃撃事件、夫を失った

そして1980(昭和55)年12月8日、洋子のシングル「ウォーキング・オン・ザ・シン・アイス」のセッションを終えて帰宅した瞬間、ジョンは自宅であるダコタ・ハウスの玄関で銃撃される。病院に緊急搬送されたものの、死亡が確認された。

ニューヨークで洋子がジョンと暮らし銃撃されたダコタハウス
ニューヨークで洋子がジョンと暮らし銃撃されたダコタハウス

洋子は翌年1月18日、各国の新聞に全面広告「感謝を込めて」を掲載した。そして、その後、誰とも結婚することはなかった。

興味深いことに、ジョンの死後、洋子への評価はむしろ高まっていく。

転機となったのが、2001(平成13)年9月11日のアメリカ同時多発テロだった。

事件から間もなく、洋子はニューヨーク・タイムズ紙日曜版に「Imagine all the people living life in peace」という全面広告を単独で掲載。これによりアメリカ政府は反戦の機運が高まることを恐れ、放送局は「イマジン」を流すことを自粛した。

広告で平和のメッセージを発信

傷つけられたときにこそ想像力を持とうというメッセージは、人一倍傷つけられてきた洋子だからこそ、重みを持つ。また、同じジョンを愛する人間として洋子とアメリカ国民は初めてひとつになったのだ。

同年、回顧展「イエス、ヨーコ・オノ」が最優秀美術館展賞を受け、洋子はリヴァプール大学から名誉法学博士号を授与される。翌2002(平成14)年にはスカウヒーガン・メダルとバード・カレッジの名誉美術学博士号を、2005(平成17)年にはニューヨーク日本協会の特別功労賞を受ける。2009(平成21)年にはヴェネツィア・ビエンナーレの生涯業績部門金獅子賞を受賞。東日本大震災に際しても、赤十字への寄付や息子ショーンらを交えたチャリティ公演を行い、第8回広島賞を受賞、広島市現代美術館で個展「THE ROAD OF HOPE(希望の路)」を開催した。

「イマジン」の共同制作者と認められる

2017(平成25)年、全米音楽出版社協会が「イマジン」を「世紀の歌」として表彰し、洋子を共作者としてクレジットすると発表した。ジョンが生前、洋子の『グレープフルーツ』から着想を得たと語っていたことを踏まえた決定である。息子のショーン曰く、この発表に84歳の洋子は涙ぐんだという。

ニューヨークのセントラルパークにある「イマジン」の碑
ニューヨークのセントラルパークにある「イマジン」の碑

二度の結婚を経て洋子がたどり着いたジョン・レノンは、紛れもなく最大の理解者でありソウルメイトだった。だが、異国の地で日本人女性として世界的スターと一緒になることには大きな代償もあった。皮肉にも、彼を失った後にようやく、洋子自身の言葉と存在が世界に届くようになったのである。

小野洋子の人生を辿るとき、その孤独と闘いの重さをあらためて思わずにはいられない。

そして、妻や母である前にひとりの人間として夢を追い続けた洋子の生き方は、一人何役も担う今を生きる女性たちへの大きなエールでもある。

・参考文献
オノ・ヨーコ『ただの私』講談社文庫、1990年
ジョン・レノン、オノ・ヨーコ 著、池澤夏樹 訳『ジョン・レノン ラスト・インタビュー』中公文庫、2001年
ジェフリー・ジュリアーノ著、遠藤梓 訳『ジョン・レノン アメリカでの日々 消えた日記に見る真実のレノン』WAVE出版、2003年
メイ・パン『失われた週末』
ジョン・グリーン 著、鈴木敬子 訳『ジョン・レノン最期の日々』松文館、1983年
ジェリー・ホプキンズ 著、月村澄枝 訳『オノ・ヨーコ』ダイナミック・セラーズ、1988年
飯村隆彦『ヨーコ・オノ人と作品』水声社、2001年
和久井光司『ヨーコ・オノ・レノン全史』河出書房新社、2020年
「小野洋子を生んだ安田財閥系図」『週刊文春』11(15)(517)文藝春秋社、1969年
加藤英明「わが偉大なる従妹 小野洋子」『文藝春秋』47(8)文藝春秋社、
「現代の英雄⑧小野洋子」『週刊文春』16(18)(775)文藝春秋社、1974年
「伝記 小野洋子からヨーコ・オノまで」『ヤングレディ』講談社、1978年4月
Billboard Japan「オノ・ヨーコ、『イマジン』の共作者に正式認定」2017年6月16日

平山 亜佐子(ひらやま・あさこ)
文筆家
文筆家、挿話収集家。戦前文化、教科書に載らない女性の調査を得意とする。著書に『20世紀破天荒セレブ ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会)、『明治大正昭和 不良少女伝 莫連女と少女ギャング団』(河出書房新社、ちくま文庫)、『戦前尖端語辞典』(編著、左右社)、『問題の女 本荘幽蘭伝』(平凡社)、『明治大正昭和 化け込み婦人記者奮闘記』(左右社)など。

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