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中2で不登校から医学部進学! 息子の夢を変えた「定時制高校で見た厳しい現実」とは

  • 2026.8.7

孝子:クラスメイトに、親から暴力を受けている子、定時制に通っているのに「そんなところ意味ないから働きに行け」と親に辞めさせられる子、離婚していてお父さんと暮らしているけれどお父さんが仕事でほとんど家にいないから一人で暮らしている子。

ネグレクトに近い環境や、ヤングケアラーの状況の子が、結構いたんです。俊徳にとっては初めての環境で、すごくショックを受けて、それを私にもたくさん話してくれました。それで、困っている子どもたちのための居場所を作る、と言い出しました。

「大人は“子どものために”っていろいろ言うけど、子どもには全然届いていないんだよ」と。「大人が作る居場所より、子どもが子どものために作る居場所のほうがいいんじゃないか」と。

それで、高校生を対象にした探究活動プログラムに加わりました。そこで、大人も協力してくれて、オンラインでやってみたり、場所を貸してくれる方がいて実地でやってみたり。

子どもの居場所活動をしているいろんな大人に話を聞いて。そこで二つ思ったことがあったみたいです。一つは、運営にすごくお金がかかっていて、その資金繰りに大人がとても困っていること。かといって、利用者からお金を取るのは本末転倒だ、と。

もう一つは、「誰かが目的を持って居場所を作るんじゃなくて、結果的に居場所になっていることが、居場所なんじゃないか」ということです。

それで、居場所を“作る”ということに、ちょっと疑問を持ったらしくて、方向転換をしました。そこで目を付けたのが医療制度でした。

医療制度って、7割が税金で、3割が自己負担じゃないですか。同じサービスを受けられるのに、利用者は安く利用できる。その仕組みがすごくいいな、と思ったらしいんです。

子どものための活動や居場所を作るときにも、サービスは同じなのに安く利用できるようなものがいいよな、と。それで、小児精神科医になりたい、と。当時は、小児精神科医になって、そこにフリースクールや居場所が併設されたらいいんじゃないか、と言っていました。

「小児精神科医になりたいな」と言い出したのは、高2のときです。今やっていることや思っていることを話しているうちに、ぽろっと。私ももうドリームキラーではありませんでした。「ああ、そうなんだね」という感じでした。

無理とか、なれるかどうか、ということはあまり思いませんでした。やってみたいならいいんじゃない、と。「そういえば、野口英世の本、読んでたよね」という会話もしたと思います。

おおた:最初(第1回)の、野口英世にちゃんと戻ってくるんですね。子どもの頃に理由もなく「これだ」と思えたものが、長い回り道の果てに、くっきりと自分の目標として像を結んだ。だから本人も腑に落ちて、覚悟が決められたんでしょうね。

90冊以上の著作を持つ教育ジャーナリスト・おおたとしまさ氏が迫ります。

倉孝子さん(以下孝子):息子・俊徳(としのり)は実は高校受験の頃からすごく落ち込んでいて、自分が思い描いていた生活や未来像がなくなったと感じていたみたいです。

せめて昼間の高校に通いたかったのに夜間になってしまって、理想の未来に届かないという感覚があったんだと思います。

単位制の高校なので、入学後すぐにおおまかな進路を決める必要がありました。息子はなかなか自分の希望進路を言い出せませんでした。

もし定時制や不登校が関係なかったらどこに行きたかったのかと聞いたら、数学が好きだから北大(北海道大学)で数学の勉強がしたい、と。物理など、そういう分野にも興味があると言っていました。

そこに行ってみたいと小さく言ったので、先生に言えばいいじゃないかと勧めたんです。すると、相手にしてもらえないんじゃないかと言うんです。

先生が何と言おうと、自分の希望は言ったほうがいい。言わないと先生は北大についての情報を何もくれないから、言うだけ言ったほうがいいと伝えました。

だけどそれから数ヵ月、私自身の中にもひっかかりがありました。北海道弁で「ほっちゃれ」という言葉があるんです。産卵を終えた鮭のこと。

私は子どもが生まれたとき、「この子の養分となって死ねばいいんだ」と思ったんですよ。もうこれからは、そこに自分の人生を費やすんだ、と。

これは結構長いあいだ、私のなかで思っていたことなんですけど、待てよ、と。子どもには「やりたいことをやれ」と言っているのに、私自身は、自分を犠牲にして自分の人生を諦(あきら)めてやりたいことに制限をかけていた。

当時、自分の子育てを振り返ってめちゃくちゃ反省もしていました。私はドリームキラーだったな、と。

たとえば子どもが小さい頃、「サッカー選手になりたい」と言ったときに、「サッカー選手なんて、よっぽど運が良くないとなれないよ」と、夢を抑え込むようなことを言ってしまっていた。そういうことを、ちょいちょい言っていたんじゃないかと。

私自身が、自分の人生を諦めて、夢を否定していたから、子どもにも無意識にそれを投影してしまっていたんじゃないかって。

親というロールモデルがそう思っていたら、子どももそうなると気づきました。口で「何にでもなれる」「いつからでも、頑張ればなんとかなる」と言っても、説得力がないじゃないかと思い至ったんです。

おおたとしまささん(以下おおた):見方を変えれば、お子さんが身を挺して、お母さんが生き方を変えるきっかけをくれた、とも言える。

孝子:今は本当にそう思っています!

おおた:不登校の長いトンネルを抜けた方は、だいたいそういう視点に立つんです。因果の向きが、逆転するんですよ。

定時制だから見つかった“小児精神科医”の夢

おおた:ラップの大会に出たとき(第3回)と同じ「やりきったぜ体験」ですね。

孝子:浪人時代は、さすがに予備校に通いました。そのときはもう体調(起立性調節障害)は基本的に大丈夫で、朝から通えていました。予備校の医学部コースに入れたのは、現役のときの共通テストの点数が、落ちたとはいえそんなに悪くなかったからです。

でも周りは、そうそうたる進学校の生徒ばかり。自分の出身高校を言っても誰も知らなくて、「どこだそれ」という世界。そのなかで、だんだん「自分は希少価値かもしれない」と思うようになったみたいです。

おおた:マジョリティの側にいる人たちが当たり前だと思い込んでいるものを、外側から相対化できたんですね。

孝子:浪人が決まってから、志望を国立大から公立大に切り替えました。現役のときは、受かるとは思っていなくても、合格までにどれくらいの距離があるのかを知っておきたい、という感じで受けた。

本格的に受験するとなったときに、いろいろ比べて、公立大の医学部にもその良さがあると知って、自分から「公立大のほうがいい」と思うようになったみたいです。それでも、せいぜいC判定でしたけど。

公立大の入試の面接で、不登校の経験を話したら、先生が真剣に聞いてくれたそうです。それがまた嬉しかったみたいで。

自分の経験が希少価値なんだ、とはっきりと気づいた。それまでは、学校に行けていなかったことや、定時制の夜間に通っていることに、コンプレックスを感じていたんです。

孝子:医学部と決めてからは、相当勉強しなければなりませんでした。言い出した時点では、「まさか冗談でしょ」というような学力でしたから。

高校の先生との保護者面談では、母親の私が「医学部に行け」と、無茶な目標を息子に無理強いしているんじゃないかと疑われたくらいです。

おおた:その時点では、それくらい、高校の先生から見ても無謀な挑戦だったわけですね。

孝子:だから私もさすがに予備校か塾に行ったほうがいいと思ったんですが、夜間部なので、時間帯的にそもそも塾には行けない状況です。

それで、本当に先生たちには申し訳ないんですけど、授業中は常に内職をしていたそうです。最初はすごく怒る先生もいたみたいですが、ずっとやり通したので、最後は「まあ、いいか」という感じだったみたいで。

勉強自体は、高校に入ったときから、ずっと自分でしていました。高校受験で思ったところに行けなかったので、大学受験では力を発揮したいと思っていたらしくて、そのために。

塾には行かずに、自分なりのノウハウのようなものを確立したみたいです。家には、ものすごい量の参考書がありました。

現役のときは、国立大学の医学部に狙いを絞って受けました。模試はずっとE判定でした。国立大よりは公立大学の医学部のほうが少し偏差値的には下なので、「せめて公立大にしてみたら」とも言ったんですけど、当時は「総合大学に行ってみたい」「何があるかわからないから」と言って国立大を受けて、落ちました。

浪人が決定したわけですけど、このときも、清々しい顔をしてました。

中2で不登校になり、壮大な紆余曲折を経て、医学部合格の道を切り開いた元野球少年。親はどんなサポートをしてきたのか、母親・倉孝子(くら・ゆきこ)さんにインタビュー(第4回)。

ラップやフリースクールで自信を取り戻し、定時制高校の夜間部へ進学した息子・俊徳(としのり)さん。希望の高校ではなかったものの、多様な背景を持つ同級生たちと出会い、大きな夢を見つけます。一方、母親もまた「自分の人生を子どもに捧げる」という自己犠牲を手放すことに。

親子がそれぞれの自立に向かって歩み始める転換点、なにがあったのか。

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高校の卒業式で答辞を読む俊徳さん。 写真提供:倉孝子さん

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“フリースクール探し”で最初に読む本、登場! 『フリースクールという選択』(著:おおたとしまさ/講談社+α新書)

●おおたとしまさPROFILE

教育ジャーナリスト。1973年東京生まれ。リクルートから独立後、教育に関してさまざまな観点から取材を行い、著書は90冊以上。2026年5月に『フリースクールという選択』(講談社+α文庫)を上梓。どこの組織にも属さない在野の視点で現代の教育への考察・提言を続けている。メディアへの出演や講演も多数。

******次(第5回)は、見事公立大の医学部合格! 不登校で手に入れた「自分で考えて選択する力」の真価に迫ります。

取材・文/おおたとしまさ(教育ジャーナリスト)

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高校入学式で俊徳さんと仲間と。 写真提供:倉孝子さん

塾も行かずがむしゃらに勉強を始めた息子

孝子:ちょうどタイミングよく、「トーキョーコーヒー」という活動が始まったと知って、私もこれをやってみたい、と思いました。

トーキョーコーヒーは、「登校拒否」の文字の入れ替えです。だけど不登校支援というわけではなくて、「不登校は子どもの問題じゃなくて、大人の問題」という視点から、子育てや教育、ひいては本当に豊かな社会について考え、対話を生むための草の根活動的ムーブメントです。

趣味でやっていた環境問題ではなくて、自分がやりたいこととして。仕事は続けたままで、最初は一人で始めました。息子が高1の、夏でした。

言葉ではなくて、生き方で、息子にメッセージを伝えようと思ったんです。もう自分のことを「ほっちゃれ」だと思うのはやめようと決めました。

息子は「お母さんが何か楽しいことを始めたっぽい」と感じてくれたようです。私はパソコンすらまともに使えなかったのに、使わなきゃいけなくなって、必死になってやっていたから、普通のお母さんと違って面白いな、と思ってくれている手応えがありました。

一方、定時制高校、特に夜間部に入ったことで、息子はそれまで知らなかった景色を見ることになりました。

母が楽しみを見つけ 息子もやりたいことへの道を歩み始めた

ドリームキラーだった母が変わり始めたワケ

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