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“世界一”まで上り詰めた『富岡製糸場』→約115年後に操業停止…栄華から【閉鎖に至ったワケ】とは

  • 2026.8.25
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(C)主に日本の歴史のことを話すラジオ

『主に日本の歴史のことを話すラジオ(おもれき)』は、日本の歴史をテーマに歴史好きな2人が雑談を繰り広げるポッドキャスト番組。パーソナリティのKELLY(ケリー)さんと水無月(みなづき)さんが、毎回ひとつの歴史テーマをゆるーく語り合います。

今回のテーマは「富岡製糸場(とみおかせいしじょう)」。明治政府が国をあげて作った、官営(国営)の製糸工場です。追いかけるのは、この工場が生まれてから閉じるまでの物語。約115年の間に、経営はどう移り変わっていったのでしょうか。

週休1日に8時間労働!実は“ホワイト”だった官営時代

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写真:PhotoAC ※画像はイメージです

明治5年にオープンした富岡製糸場は、フランスの寄宿制の工場をお手本にしていました。寄宿制とは、働き手が敷地内の寮で暮らしながら働くしくみのこと。当時としては、とても新しい職場スタイルでした。

特に画期的だったのが、働く時間です。江戸時代の名残で、当時の人々は「毎日、日の出から日の入りまで働く」というのが一般的でした。つまり、季節によって働く時間が前後するわけです。「◯時間労働」という今のような考え方は普及していませんでした。

ところが、富岡製糸場は、就業時間の管理に「時計」を使いました。「1日8時間労働で、日曜日はお休み」という今風の就業スタイル。福利厚生などもあり、明治時代初期としては、超ホワイトな職場だったとのこと。

初めての国営製糸場ということもあり、運営も模範的だったようですね。

まさかの赤字続き…国が手放し、三井の時代へ

ただ、経営は順調とはいきませんでした。フランスから招いた技師たちのお給料が高額だったこともあり、赤字続き。良い人材と最新の機械にお金をかけた分、そのコストが重くのしかかっていました。

赤字に追い打ちをかけたのが、西南戦争でした。この戦いのあと、国の財政も苦しくなります。そこで明治政府は、ついに富岡製糸場を民間に売りに出すことを決めました。国営をやめる、という大きな方針転換です。

ところが、いざ売りに出すと、買い手がつきません。「このまま閉鎖か」という不安が広がります。ここで動いたのが、群馬県のトップだった楫取素彦(かとり もとひこ)さん。工場を続ける意義を訴え、なんとか閉鎖を食い止めました。その後、速水堅曹(はやみ けんそう)が所長として工場の経営を立て直し、黒字化にこぎ着けます。

そして明治26年、富岡製糸場はついに三井へと売り渡されます。20年あまり続いた官営時代の終わりでした。

三井は、生糸の輸出先をそれまでのフランスからアメリカへ変更。設備も増やし、経営に力を入れていきました。

ついに世界一!でも、時代の波には勝てなかった…

その後、経営は『原合名会社』、そして合併を経て『片倉製糸紡績株式会社』へと引き継がれていきます。この間、富岡製糸場はぐんぐん成長。明治42年には、日本の生糸輸出量がイタリアを抜いて世界一になりました。一時期は働き手である工女の数が900人を超え、大きな寮で暮らしていたそうです。

しかし、時代の波には勝てませんでした。第二次世界大戦後しばらくすると化学繊維が普及し、海外から安い生糸も入ってくるように。日本の製糸業は競争力を失い、衰退の一途をたどりました。

そして昭和62年、富岡製糸場はついに操業を停止。長い歴史に幕を下ろしたのです。

115年の歴史が教えてくれること

国が大金を注いで作り上げた富岡製糸場。ここから始まった日本の近代的な製糸産業は、やがて輸出量で世界一にまで上りつめました。ところが、化学繊維の登場などで時代が変わると、その勢いも止まってしまいます。

あれだけ栄えた工場が、役目を終えて操業を停止する…。産業には、こうした栄枯盛衰があるのですね。

※番組内のお話は、『富岡製糸場 継承される改革の歴史』(富岡市・岡野雅枝 編著)を参考にしているそうです。気になった方は、ぜひ手に取ってみてくださいね。


主に日本の歴史のことを話すラジオ
おもれき672 富岡製糸場(後編)

[配信日時]2026年7月25日
[出演者]KELLY、水無月
[番組URL]https://open.spotify.com/episode/262cp2Vs2YqZ2c1i7x61AT?si=1MDNy4cQRe6ToE3whKhVhg

(C)主に日本の歴史のことを話すラジオ

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