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ワールドカップで「開催国として優勝を成し遂げた6つの伝説的チーム」

  • 2026.6.11

アメリカ、カナダ、メキシコの3カ国共催で行われる2026年ワールドカップの開幕がいよいよ目前に迫っている。

サッカー界最大の祭典が北米へと舞台を移し、ホストを務める3つのチームは地元のファンの前で誇り高い戦いを見せたいところだろう。

だが、ワールドカップの長い歴史を振り返ってみても、開催国がそのまま栄冠を手にした例はわずか「6回」のみ。『thefootballfaithful』より、「ホームの地で世界の頂点に立った歴代の開催国」を紹介しよう。

ウルグアイ(1930年)

記念すべき第1回FIFAワールドカップの開催地に選ばれたのは、南米の小国ウルグアイだった。そして開催国は、その期待に完璧に応えて初代王者に輝いている。

1930年大会は、現代のワールドカップとは大きく異なるものだった。参加国はわずか13チームで、多くの試合は首都モンテビデオで開催。決勝の舞台となったエスタディオ・センテナリオは、ウルグアイ独立100周年を記念して建設されたばかりのスタジアムだった。

そして当時のウルグアイは、すでに1924年と1928年のオリンピックを連覇していた世界最強クラスのチーム。決勝では、準決勝をともに6-1というスコアで勝ち上がってきた隣国アルゼンチンと激突した。

両国のライバル意識もあって、試合は異様な緊張感に包まれた。ウルグアイは前半を1-2の劣勢で終えたものの、後半に底力を発揮。最終的に4-2と逆転勝利を収めた。

ダメ押しとなる4点目を決めたのは、少年時代に片腕の一部を失ったというエピソードを持つエクトル・カストロ。第1回大会の決勝は、開催国の逆転優勝、南米の宿敵対決、そしてカストロの伝説的なゴールによって、ワールドカップ史に残る最初の名場面となった。

イタリア(1934年)

1934年大会では、イタリアが前回のウルグアイに続く「開催国優勝」を成し遂げた。決勝でチェコスロバキアを破り、欧州勢として初めてワールドチャンピオンとなっている。

ただ、この大会はワールドカップ史の中でも特に政治色が濃いものだった。ベニート・ムッソリーニ率いるファシスト政権下で開催され、イタリア代表には勝利への凄まじい重圧がかかっていた。

大会方式も1930年とは異なり、完全なノックアウト形式。ヴィットリオ・ポッツォ監督に率いられたイタリアは、戦術的な規律、肉体的な強さ、そして伝説のFWジュゼッペ・メアッツァらの技術を武器に勝ち進んだ。

特にスペインとの準々決勝は凄惨な肉弾戦となり、再試合の末にようやく勝利。迎えたローマでの決勝では、チェコスロバキアを相手に残り9分までリードを許す苦しい展開となった。しかし、ライムンド・オルシの同点弾で追いつくと、延長戦ではアンジェロ・スキアビオが決勝ゴール。イタリアは劇的な逆転勝利で初優勝を飾った。

なお、この大会では前回王者ウルグアイが出場を辞退している。1930年大会に多くの欧州勢が参加しなかったことへの不満が理由とされており、初期のワールドカップならではの異例の出来事でもあった。

イングランド(1966年)

1966年、イングランドは3チーム目の「開催国王者」となった。現在に至るまで、これがイングランド代表にとって唯一のワールドカップ優勝であり、同国のサッカー史を定義づける瞬間として語り継がれている。

アルフ・ラムゼイ監督に率いられたチームは、決して派手な攻撃集団ではなかった。しかし、極めて組織的で、力強く、崩しにくいチームだった。中盤ではボビー・チャールトンが質をもたらし、最終ラインではボビー・ムーアが優雅に守備を統率した。

ウェンブリー・スタジアムで行われた西ドイツとの決勝は、ワールドカップ史上最も有名な試合の一つである。ジェフ・ハーストのゴール、西ドイツの同点弾、マーティン・ピーターズの勝ち越し、そして試合終了間際のヴォルフガング・ウェーバーによる同点弾。試合は延長戦にもつれ込んだ。

そこで生まれたのが、今なお論争の的となっているハーストのシュートだった。ボールはクロスバーを叩いて真下に落ち、ゴールラインを越えたかどうかが大きな議論となったが、判定は得点。ハーストはその後さらにゴールを決め、ワールドカップ決勝史上唯一となるハットトリックを達成した。

イングランドは4-2で勝利し、母国に唯一の主要タイトルをもたらした。この試合のテレビ視聴者数はイギリス国内で3230万人に達したともされ、今なお同国のスポーツ史を代表する一戦である。

西ドイツ(1974年)

1974年、西ドイツは地元の観衆の前で2度目のワールドカップ制覇を果たした。

ただ、この大会の主役として世界中の想像力を掻き立てていたのは、むしろヨハン・クライフを擁するオランダだった。「トータルフットボール」と呼ばれた革新的なスタイルは、ワールドカップの歴史を変えるほどのインパクトを残していた。

一方の西ドイツは、フランツ・ベッケンバウアー、ゲルト・ミュラー、ゼップ・マイヤー、パウル・ブライトナーらを擁する実力派。華やかさではオランダに譲ったかもしれないが、勝負のなんたるかを知る選手たちが揃っていた。

大会序盤は決して順風満帆ではなかった。1次リーグでは東ドイツに敗れるという衝撃的な結果も経験している。しかし、その敗戦がチームを引き締めるきっかけになったとも言われる。

ミュンヘンのオリンピアシュタディオンで行われた決勝では、開始直後に大きな試練が訪れた。オランダはキックオフからボールをつなぎ、西ドイツが一度もボールに触れないままPKを獲得。ヨハン・ニースケンスがこれを決め、オランダが先制した。

それでも西ドイツは崩れなかった。ブライトナーのPKで追いつくと、前半のうちにミュラーが逆転ゴールを奪取。この試合は、実はワールドカップ決勝史上初めてPKが宣告された試合でもあり、イングランド人のジャック・テイラー主審は両チームにそれを与えている。

美学と効率がぶつかり合った決勝は、最終的に西ドイツが2-1で勝利。オランダの革命的なサッカーは強烈な記憶を残したが、トロフィーを掲げたのは開催国のほうだった。

アルゼンチン(1978年)

1978年のアルゼンチン大会は、ワールドカップ史の中でも最も感情的で、同時に最も物議を醸した地元優勝の一つである。

当時のアルゼンチンは軍事独裁政権下にあり、大会全体に政治的な影が差していた。ワールドカップは国家的なプロパガンダの場としても利用され、ピッチ外の空気は決して軽いものではなかった。

それでもピッチ上のアルゼンチン代表は、セサル・ルイス・メノッティ監督の下で情熱的かつ攻撃的なサッカーを展開した。エースとして期待されたマリオ・ケンペスは大会序盤こそ得点がなかったものの、重要な局面で一気に輝きを放つ。

この大会で最も議論を呼んだ試合の一つが、2次リーグ最終戦のペルー戦だった。アルゼンチンは決勝進出のために大差での勝利が必要な状況で、6-0という大勝を収め、得失点差でブラジルを上回った。この結果は今なお様々な疑惑とともに語られている。

ブエノスアイレスでの決勝では、2大会連続の決勝進出となったオランダと対戦した。試合は激しい肉弾戦となり、オランダは終盤にシュートがポストを叩く不運もあった。

延長戦に入ると、主役となったのはケンペスだった。2点目を決めてアルゼンチンを勝ち越しに導くと、最後はダニエル・ベルトーニが3点目を叩き込んで3-1。アルゼンチンは悲願の初優勝を達成した。

ケンペスは大会優勝、ゴールデンボール(MVP)、ゴールデンブーツ(得点王)を同時に手にした貴重な選手となった。栄光と論争が入り混じる1978年の優勝は、今もなおアルゼンチンサッカー史の中で特別な位置を占めている。

フランス(1998年)

画像: フランス(1998年)

フランスが長年待ち望んだ栄冠を手にしたのは、自国開催となった1998年大会だった。

フランスはそれまでワールドカップで3度の準決勝進出を経験していたが、優勝には届いていなかった。しかも、1990年と1994年の2大会では予選敗退。本大会出場すら逃していたため、地元開催の1998年大会には大きな期待と不安が入り混じっていた。

エメ・ジャケ監督に率いられたチームには、ジネディーヌ・ジダン、ディディエ・デシャン、ローラン・ブラン、マルセル・デサイー、リリアン・テュラム、ファビアン・バルテズといった黄金世代が揃っていた。

フランスは強固な守備と中盤の統制を武器に勝ち進んだが、道のりは決して平坦ではなかった。決勝トーナメント1回戦のパラグアイ戦では、ブランがワールドカップ史上初のゴールデンゴールを決めて突破。準決勝のクロアチア戦では、それまで代表で一度もゴールを決めていなかったテュラムがまさかの2得点を挙げ、チームを決勝へ導いた。

スタッド・ドゥ・フランスで行われた決勝の相手は、前回王者ブラジル。怪物ロナウドの大会になると予想されていたが、試合直前に彼の体調不良が伝えられ、決勝は不穏な空気に包まれた。

その中で主役を演じたのはジダンだった。コーナーキックから2本のヘディングシュートを決め、フランスに大きなリードをもたらす。最後はエマニュエル・プティが3点目を決め、前回王者を3-0で撃破した。

このスコアは、ワールドカップ決勝史上最大得点差タイとなる記録でもあった。多様なルーツを持つ選手たちで構成されたチームは、フランス社会における多様性と一体感の象徴として語られることになる。フランスという国のサッカーのアイデンティティを変え、ベルベル人であるジダンを国民的英雄へと押し上げた歴史的な瞬間だった。

※選出基準は、各選手の実績に基づきながら筆者またはメディアの主観的判断も含んでおります。

筆者:石井彰(編集部)

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